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​第31楽章『切り札』

 大量の【略奪者】が学園のいたるところに現れたのは、日野川響希との対峙から二日後のことだった。少なくとも、京が選択を委ねられたこのひと月の間は学園側も取り立てて何かを仕掛けてくることは無いだろうという予測は、その瞬間に尽く崩された。
 脅威に見えた日野川響希の存在は、学園からしてみればただの人質に過ぎない。その後ろではいつも、あの女が息を潜めて糸を引いているのだ。
「僕らが裏を読んだつもりでいても、向こうは更に一枚上手みたいだ」
 悔しそうに唇を噛み締めながら、それでも京は先輩としての態度を崩さない。未だかつて無い規模の襲撃に、パニックに陥った後輩たちを宥め、安全な寮へと誘導する。そうして騒然とする学内を駆け回っているうちに、彼はふとあることに気がついた。学園側の人間であるはずの講師たちも、この事態に驚きを隠せないといった様子で慌てふためいているのである。その光景を見て、京は確信した。
 間違いない、これは学園長と日野川が独断でやっていることだ。生徒はおろか、内部講師にすら何も知らされていない。
「逃亡されるくらいなら、味方を巻き込んででも潰す道を選ぶのか」
 彼らにとって一番逃げられたくない存在は、きっと自分だという確証があった。だが、自己犠牲を思う度に、京の脳裏にはあの夜命から差し出された手のひらがちらついて離れなかった。
「…………」
 生きて欲しいと言われて、足掻けと言われて、泣きそうなくらい嬉しかったのは本心だ。決して自分自身や命の思いを粗末にしたいわけでは無い。けれどそれ以上に、京にはやらなければならないことがあった。
 周りの後輩たちが全員避難し終えたのを確認すると、京はゆっくりと西棟に向かって歩き出した。

 

 日野川響希は、その時を三階の自室で迎えていた。ヴィクトリアが校庭に落とした真っ黒な転移陣は、全国各地の危険区域に繋がっており、そこから這い出でるようにして【奴ら】は迫ってくる。まるで泉から湧き水が溢れ出るように【略奪者】が学園を侵食する様は、眺めていると強い吐き気を催しそうになった。
 自分も時を待たずしてああなるのだ。人間の全てを奪うことしか考えられない、あの怪物に。少年たちを縛り付けておく為の牽制として、この戦いのさなかに殺される。けれど、彼はそんな運命を二つ返事で受けいれた。理由は明快。ヴィクトリアは、長年日野川の良心を苦しめてきた鎖を、彼の命と引き換えに解き放つ約束をしてくれたからだ。
 人間が【略奪者】になる際に放出されるエネルギーは、これまでに地下室で賄ってきた数値を遥かに凌ぐ。日野川が怪物化すれば、今まで地下室に閉じ込められていた彼の仲間は解放される。それこそが、成長が止まったあの日から、彼が願ってやまなかった望みだったのだ。
「もうすぐ償いができるよ。ちゃんと身代わりになれたら、皆、赦してくれる?」
 依然としてぼこぼこと湧き出ている黒い怪物を見つめながら、日野川はそっと窓硝子を撫でる。白い手袋越しに伝わる冷ややかな感触は、ゆっくりと死に近づいていく彼を受け入れてくれるかのようだった。
 体の内側の、黒く錆びた部分が【奴ら】に引かれて共鳴している。今すぐ窓を開けて、重力に身を委ねて意識を手放せば、僕は消え代わりに皆は助かる。早く早くと、心の内側の罪悪感が日野川を急かす。カラカラとかわいた音をたてながら、窓が開いていく。
 その時だった。
 不意に日野川の背後から扉が開く音が聞こえてきた。咄嗟に振り返ると、そこには数日前に銃口を向けた少年の姿があった。色々なものを堪えているような、彼の複雑な表情を見て、日野川は嘲笑するように目を細めて見せた。
「決めた? どうするか」
「……はい」
 視線の先には、哀れな少年──京が、肩を上下させながら切羽詰まった表情で立っていた。いつも行動を共にしている物静かな少年が一緒ではないことが、日野川の優越感を大きく昂らせる。
 そう、彼にはひとりになって欲しかった。かつて自分が選択を強いられた時と同じ様に。この居場所を継ぐ存在は、孤独になってもらわければ割に合わないのだ。
 だが、日野川は別に京のことは嫌いではなかった。彼は覚えているのかどうか分からないが、五年前のあの日、薄暗い講堂で話をした時から、少なからずこの少年のことは気にかけていた。だから、彼が仲間の為に犠牲になってくれると言うのなら、大いに共感してあげられると思っていた。
 それなのに、御沢京はちっとも孤独にならない。足でまといの後輩たちや、日野川の差し金で裏切り行為寸前までいった同輩がいたにも関わらず、彼は相も変わらず柔和な笑みのままで。仲間の絆はより強固なものになっていった。そして、最愛の姉までもが彼らの方に加担した。
 憎悪を向けるのだとすれば、そのターゲットは今現在自分を操っている女だということは、充分に解っていたはずだ。けれど、理論より感情。日野川の無垢な思いはとうに破綻していた。全てを奪われて、あの時のまま時を止められた自分と、頼れる先輩のまま学園の手を逃れようとしている彼の差が、この上なく痛かった。
 逃がさない。もう戻らせはしない。君には僕が居なくなったところを埋めてもらうんだから。濡れた手袋を嵌めたまま、日野川は京にそっと手を伸ばす。
「……!」
 だが、その手を握るかのように思われた京は、指先が触れ合う寸前で日野川の横を通り抜けた。慌てて体勢を変えた時には、もう遅い。大きく開け放たれた窓の縁に腰掛けて、たなびく風の中、京は日野川に向かってこう問いかけた。
「先生は、僕がどんな力を使うのか、ご存知ですか」
 質問の意図を探るように日野川が押し黙ると、京は自分自身に言い聞かせるかの如く、ゆっくりと静かに言葉を拾っていく。
「真っ白な盾で仲間を包み込んで、敵から守る力です。害意を弾くだけじゃなくて、消滅させる力も持っている」
 消滅。その言葉が耳に入った途端、日野川はこれから京がしようとしていることを、ようやく理解した。息を呑むのが早いか、足を踏み出すのが早いか。日野川は咄嗟に言葉と行動の両側から彼を止めようとした。
「待って……! どうして……」
 けれど、出てきたのは行き場の無いやるせない声だけだった。京は、唇を震わせながらこちらに近づいてくる日野川を見て、悲しそうに目を伏せる。
「先生。僕には、先生を救えない」
 衝撃が走る。神から見捨てられたというのは、まさにこの事だと、心の節々が悲鳴をあげ始めた。
「救う? な、にが? 違う。僕はただ、君にこの場所を継いで欲しいだけだ。共感して、欲しい、だけなのに」
「先生」
 自分では制御出来なかった言葉の羅列は、その一言でぴたりと止んだ。
「先生。僕の力は、今日この日為に授けられたんじゃないかって、そう思うんです」
 彼の上半身が力を無くす。このままでは、彼は堕ちてしまう。怪物を生み出す黒々とした空間を、彼は自分ごと消し去るつもりでいるのだ。外側に向けていた浄化の盾を、【略奪者】になりかけている自分自身に使う。それが、彼の生まれてきた意味? そんな悲しいことがあってたまるか。日野川の不揃いな呼吸は、更に乱れを増していく。
「嫌だ。やめてよ。意地悪したことは全部謝るから。それは君の役じゃないんだよ。君が背負うことじゃないんだよ」
「今更ですか?」
 突如冷ややかな声が、日野川の喉を指した。その時になって、日野川は初めて、目の前にいる少年が復讐を果たしに来たことを知った。彼がやろうとしているのは、仲間を守る為の行動なんかではなく、恐ろしく利己的な、自分自身の憎悪に振り回された結果の出来事。つまりは、日野川の行動原理と同じだった。
「僕のことを殺そうとしておいて、郁のことを騙しておいて、今更『本当は仲良くなりたかった』とでも言い出す?」
 ひゅっと心臓が凍る音がした。そうだ。彼の言っていることは的を得ている。悲劇のヒロインを装って、あくまで自分が世界の中心なのだと、無意識に傲慢にそう思っていた。輪の中心にいる恵まれた彼ならば、少しばかり傷ついても問題ないなんて、それは都合の良い日野川の尺度で見た世界ではないか。ずっと分かっていたはずだった。京を陥れても自分は救われない。いっときの安堵感は得られても、その後何倍もの罪悪感が代償として襲ってくる。
 容疑はシンプル。日野川響希は、一人の自由な人間を自分と同一視して、危害を加えた。罪を償うために塗り重ねた罪。その罰が、これから下されるのだ。
「僕は先生の思うがままの救世主にはならない。『自分のせいで消えた人間』として、先生の記憶に潜む悪魔になります」
「い、嫌だ……戻ってきて」
 もつれるような足取りで、日野川は彼の身体に縋る。彼が居なければ、自分はまた一人になってしまう。ようやく心から仲良く出来ると思ったのに。でも、もう何もかも遅いのだ。日野川は間違えた。友達になる為のプロセスを、根本的に間違えた。傷つけられ無理やり同調させられた少年が、どうして日野川の仲間になろうと願えるのだろう。
 それでも、日野川の最期の良心は、優しい彼に消えて欲しくないと叫んでいた。だって、本当にこんなことするなんて思わなかったから。けれど、言い訳できる言葉はもう彼の中には残っていなかった。日野川はそっと手を離す。涙で腫れた目元は、懺悔するように京を見つめていた。永遠のようにも思われた沈黙の時間は、きっと数値にすればたった数秒だったに違いない。だが、その僅かな時間で、京の脳裏には記憶の断片が舞い戻ってきた。
「……『抗った僕は全て亡くしてしまったけれど、従って生きる君も、同じように亡くしてしまうのかもしれない』」
 忘れたことなど無かった言葉。結局は、何を選んでも最期は同じ。そう自嘲気味に呟いていた顔が今目の前にある。ハッと目を見開いた彼の反応を見て、京はこんな状況だというのに思わず吹き出してしまった。
「待っている未来が同じでも、従ったまま生きるのは嫌です。僕も精一杯抗いたいと思う。そうすれば、自分の生に納得できる気がするから」
「……君、は」
「被害者同士なのに憎しみあって、本当に馬鹿みたいです。僕らはもう、あの時みたいには救い合えない」
 でも、と京はそこで柔らかに言葉を切った。まだ生きている熱い手のひらが、日野川の頭にふわりと乗せられる。
「僕の大切な友達が、絶対に先生を救ってくれます」
 温もりが頭の上からつま先まで、少しずつ少しずつ広がっていく。日野川は再び込み上げてくる涙を必死で堪え、生温い空気に耐えていた。
「本当は、君とも友達になりたかったよ」
 今の彼の心には、何を言っても偽善に取られてしまうかもしれない。それでも、これだけは日野川の本心だった。どこかひとつでも間違えなければ、憎しみが晴れた頭で向き合っていれば、友達になれていたんじゃないかって。だって君と僕はよく似ているから。
「それじゃあ、また声をかけてください。次は、郁も一緒に」
 窓の外をちらりと見やって、京は深く息をする。日野川にはもう全てが解っていた。彼は最初から一人なんかでは無く、どす黒い地面にはずっと、彼が重力に引かれるのを待っている少年の姿があった。相変わらずの無表情で機械的に敵をなぎ倒していく彼を見て、日野川は大きく頷く。
「彼にも、謝らなくちゃいけないね」
 愛に漬け込んで利用したこと、それもまた日野川の罪だ。真面目に掘り起こせば、あと幾つ出てくるだろうか。そんなことを思いながら、日野川は京に向き直った。
「君たちのことは、死んでからも忘れない気がする。僕が初めて殺した人間だから」
「それは良かった」
 復讐が果たされたことを確信した京は、今までに見た事も無いような顔で笑っていた。救世主と化け物が表裏一体であるように、神と悪魔もまた、同義であると思わずにはいられない。極上に美しく恐ろしい笑顔を見て、日野川は明るく絶望した。これでもう、彼から救いを得ることは、叶わない。
「先生、さようなら」
 爽やかに一言そう告げると、彼はひらりと宙を舞い、あっという間に落ちていった。反射的に伸ばした日野川の指の先で、幸せそうな表情の京は、この世で最も愛した人間に迎えられた。二人の手が触れ合ったその瞬間、大地を揺るがすような美しい歌声が辺りに響いた。一瞬の静寂の後、白く眩い光が視界の全てを覆い、日野川は眠りに誘われるように目を閉じた。

 最期まで大切な人の手を離さなかった彼は、仲間を守れなかった日野川響希に最高の復讐を添える形で、この世界から【略奪者】ごと姿を消した。

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