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第28楽章『犠牲』

 光希が目覚めるより少し前。京と郁は、昨夜の混乱に乗じて西棟へ入り込むことに成功した。寮や教室のある中央棟に比べると、随分と複雑な造りになっている校内を、二人は手探りで少しずつ侵食していった。白い壁に手を這わせながら、京は浮かない顔でちらりと親友の姿を見やる。普段の彼からは想像もつかないほど、その日の郁は積極的だった。当てはある、と強い口調で呟いた彼は、何故か西棟に対する知識を深く得ているらしい。彼が棟に出入りする条件や頻度は、京とさほど変わらなかったはずであるにも関わらず、だ。嫌な予感が頭を過る。出来ることなら知らないふりをしていたかったが、違和感を覚えずにはいられなかった。
「ねえ郁。一つ聞いてもいい?」
「何だ?」
「郁、僕に隠していることがあるんだよね?」
「…………」
 郁は振り返ったが、何も言わず立ち尽くしたままだった。もしやましい事が無いのなら、黙っている理由も無いはずだ。沈黙に押し潰されそうになった京は、耐えきれなくなり、瞳を潤ませて彼を見上げた。
「郁……?」
 彼は、笑っていた。後輩たちに見せるあの温和な笑みではない。表情の読めない、薄らとした優しい微笑。優しくて、恐ろしい程にきれいだった。長い指が京の頬を包み込む。呼吸の音が分かってしまうほど近く、額が合わさる皮膚の感触はあたたかい。
「あるよ、謝りたいことも」
 空気を揺るがすような声が、京の体の奥まで染み込んだ。そして、歯を噛み締める悔しげな音が直に伝ってくる。
「でも、もう少し待ってくれ。確かめたいことがあるんだ」
 その時、京は初めて、彼が無理をして笑っていたんだな、ということに気がついた。きっとこの隠し事には彼なりの大切な理由があるのだろう。裏切られたわけでは無いと分かり、京は少しだけ頬をゆるめた。
「いいよ、待ってる」
「ありがとう」
 空気を含んだ切れ切れとした声に、郁も切羽詰っていたのだと知る。彼のことを全て知った気でいたけれど、よく考えてみれば、取り乱すのはいつも自分の方だった。郁はただ強く優しく受け入れてくれる。自分の弱さ等、けっして見せることは無かった。京は、そんな彼の事が好きだったけれど、同時にもっと深く依存して欲しいとも願っていた。一度入ったら抜け出せない沼のように、一度絡まれば身を引き裂かずには出られない茨のように。
「でも、僕にももっと頼って。一人で何でもしようとしなくて良いんだよ」
「京にはもう十分世話になってるよ」
「そうじゃなくて」
 分かんないかなぁと苦笑して、京は郁の唇に整った指を当てがう。
「僕が見せたような弱みを君も見せてくれなきゃ、フェアじゃないだろ?」
 ごくり、と空気を飲み込む音が聞こえる。郁が動揺しているのが分かる。何故だか分からないけれど、京は前にも増して必死に彼を欲していた。誰も知らない一面を、彼本人ですら気づけない要素を、全て取り込んで奪ってやりたいと。敬虔な神の使徒には有るまじき罪が、時折こうして顔を出す。いつから? 覚えてなどいるわけがない。透明な水に汚れた筆を浸した時のように、徐々に鮮度は墜ちていった。予想していた通りだな、と壁の向こうの『彼』は呆れたようにそっと息を吐いた。
「お取り込み中のところ悪いけど」
 冷ややかな声が脳天を穿つ。京は一瞬にして我に返り、声のした方を振り返った。そこには、柔和な笑みをたたえた日野川の姿。ただひとつ、いつもの彼と違うのは、真っ黒に塗り固められた銃をこちらに向けていることくらいだろうか。
「せんせい、なんですか、それ」
「何だろうね? 化け物を倒すための武器?」
「え……」
「だから言っただろ。変わりたいなんて思っちゃダメだって」
 かくんと機械的な動きで首を傾けた日野川は、そういうが早いか流れるような手つきで引き金に手をかける。
「京! 危ない、逃げ……っ」
 固まったまま動けない京に、全てを察した郁が駆け寄っていく。けれど、もう遅かった。郁の手が京の腕を掴むより早く、怨みの込められた弾丸が彼の胸を貫いた。美しい金色から光が失われるのと引き替えに、目が覚めるほどに真っ赤な薔薇が咲き誇る。その花束を抱えたまま、郁は衝撃で地面に叩きつけられた。
「うん、命中。でも、間違えて君に当たったらどうしようかと思ったよ。郁くん」
 何事も無かったかのように銃をしまい込むと、日野川はまるで友に語らいかけるような口振りで郁に手を差し出した。だが、その手の先の彼は日野川を見てはいない。嫌に派手な花束を握りしめたまま、後は枯れ行くしかないモノに向かって話しかけているだけだ。
「なんで……京……京……」
「あれ、君も割と弱いタイプ?」
 笑いたくなってしまう程に尋常でない様子。思わず口元を歪めた後、友が撃たれたのだから相応の反応ではあるか、と思い直し、日野川は励ますように郁の肩を叩く。
「大丈夫だよ、郁くん。そいつすぐ元通りになるか……っ!? 」
 その言葉は、最後まで言わせて貰えなかった。自分よりがっしりとした手が、日野川の首元を瞬時に捕える。冗談でも首を絞めたことなんて無かったんだろうな、と分かる、無様で力任せの圧力が日野川の喉を圧迫した。
「っは……君、さぁ…………」
 僅かな力で抵抗を試みるものの、やはり単純な体力では日野川は彼より劣っている。何も発さないまま、彼はただ、憎しみを閉じ込めた両の眼で日野川を凝視しながら、その首に体重をかけていく。
(痛……流石、に、やばいかな…………)
 痛みを通り越して喉が痺れてきた。暫くは経過観察をしていようと思っていたが、このままでは痛覚だけでなく意識も失いそうだ。
(郁くんなら、もっと冷静に絶望すると思ってたんだけどなぁ)
 案外、隣で朽ちている化け物と大して変わらないのかもしれない。それとも、五年の年月が彼を化け物に近づけたのか。その真偽は定かではないが、ひとつ言えるのは、やはり彼の存在は日野川の癪に障ると言うことだった。
「人の話はさぁ、最後まで、聞こうね」
 日野川はそう言うと、殆ど力の入っていなかった郁の足を思い切り蹴り飛ばした。不意打ちでやって来た衝撃と、バランスを崩されたせいで、瞬時に彼の手の力が弱まる。その隙を見て、日野川は郁の束縛からするりと抜け出した。我を忘れた瞳が揺らぎ、あっ、と取りこぼしたような声が聞こえてくる。
「冷静になって、ちゃんと見てみなよ」
 座り込んだ郁に目線を合わせてしゃがみこむと、日野川はそっと彼の後ろを指さした。振り返ると、そこには、困惑したような表情でこちらを見つめ返している京の姿があった。
「郁、どうなってるの? 僕、さっき撃たれたはずじゃ……」
 そんなの、郁にも分からなかった。彼の心臓を貫いた弾丸は床にころがっているけれど、その床を紅く染めたはずの血液は、見る影も無くなっていた。つまり、京の体だけが、撃たれる前の状態に戻っていたのだ。
 流れ出た血液を体内に戻す、そんな能力は聞いたこともないし、完全に事切れた状態から生き返ることなんて、普通の人間に有り得るはずが無い。放心したまま見つめ合う二人を見て、日野川は不敵な笑みを浮かべ目を細める。予感は確実なものとなった。またひとつ、生命が化け物にすくわれる瞬間を、『巣食われる』瞬間を、目の当たりにした。
 日野川は、そのまま背後から郁の首元に手を回すと、不気味に口角を上げたまま京を凝視して、耳元で囁くようにこう呟いた。


「よく目に焼き付けておいてね。君の大切な人は、もうとっくの昔に、人間なんかじゃ無くなっていたんだよ」

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