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第17楽章『転機』

「止んだね」
 京はぽつりとそう言うと、指の動きひとつでシールドを解除した。そして、何事も無かったかのように郁に微笑みかける。
「もうすぐ十時になっちゃうよ。約束、守らなきゃ」
「あぁ、そうだな」
 何年経っても変わらない、不思議な魅力とあたたかさを持ったこの少年のことが、郁は家族のように好きだった。弟妹の願いを叶えたように、彼の幸せも叶えたかった。だからこそ、彼とは共に帰れない。
「俺は、まだ少し残ってる。先に帰っててくれないか」
 落ち着き払った郁の言葉に、京は静かに頷いた。
「分かった。おばさんには僕から言っておくから、気が済んだら帰ってきな」
 京はそう言うと、ゆっくりと来た道を戻っていく。その姿が完全に見えなくなった頃、郁はポケットからスマホを取り出して、慣れた手つきで十一桁の番号を打ち込んだ。数秒の後、機械音が辺りに響き、やがて途切れた。その先に、聞きなれた男の声がする。
「響希先生ですか。……俺です、杜若郁です」
「ご苦労様。彼はどうだったかな」
 抑揚のない声が、妙な怖さを孕んでいた。電話越しにしてはいやにすぐ側から漂ってくる振動に、郁は恐る恐る振り返る。そこには、予想していた通り、機械的な表情で嗤う日野川の姿があった。
「先生……」
 郁はプツリと通話を切ると、心地よさそうに夜風にあたっている日野川をじっと見つめた。
「京はもう、学園の力では制御出来ないところまで来ています。記憶も、無くなっていなかった」
「やっぱりね」
 対して驚きもせず、日野川は薄ら笑う。おおよそ教師とは思えないようなその態度に、郁は危機感を覚え、唇を噛み締めて言葉を急かした。
「それで、京はどうなるんですか? ちゃんと先生が助けてくれるんですよね?」
「勿論。本来君にかけるはずの制御を外してまで、そのリスクを君に負わせてまでお願いしているんだ。無下にはしないよ」
 鋭い目つきで日野川が答える。他の教師にこんな事を言われても到底信用など出来ないが、この人は別だった。自分達と同じ境遇にいたこの人の言うことなら、信じても良いような気さえしていた。
 友達に指を差され罵倒されたあの日から、郁にはずっと、正しさが分からないままだった。だから、今自分が足を踏み入れている、裏切り者のような行為の善悪も、全く判断がつかなかった。でも、それでも、大切な京が危険な状況に置かれているという事だけは、紛れもない真実だった。日野川からもたらされたその情報に縋るように、助けたい一心で、あろうことか学園に加担した。郁は、迷うように目線を泳がせた後、宵闇の色を持つ目でもう一度日野川を見た。その目には、一種の淀んだ光が宿っていた。
「分かりました。それなら俺は……俺は、嘘をつき続ける化け物でも、一向に構いません」
「……友を助けるために汚れ役を引き受ける、素晴らしいね」
 本音なのか建前なのか全く分からない口調で、日野川は静かに頷いた。
「じゃあ、また夏休み明けに。学園で待っているよ」
「はい」
 郁が答えると、日野川の体は霧のように霞んで消えてしまった。郁以外何も無くなった虚空には、ただ、さざ波の音だけが宛もなく響いているだけだった。

──────────

 見慣れた学園の敷地内に戻ってくると、日野川響希はくっと唇を歪ませて白い漆喰の壁にもたれかかった。嘘をつくことを恐れた少年は、それでも愛した人の為にと真実を隠し続ける。何も知らない朗らかな少年は、鬱々とした感情の原因がまさか自身にあろうとは思いもせず、未だかみさまの様相を呈している。大切に思うが故に引き起こされるすれ違いの悲劇を、第三者である日野川は、観客席からひとつの喜劇として眺めていた。嘘をつくことに慣れすぎてしまった日野川には、子どもたちのやり取りはまるで演劇のように大袈裟で、何者かの二番煎じのように受け取られた。彼らを通して日野川が何を見ていたのか、それは──。

『響希、もうやめてよ』

 ほら、また来た。壁の向こう側から、あどけない少年の声が幾つも幾つも、日野川に降り注ぐ。

『響希が今しようとしてるのは、あの時、先生が僕たちにしたことと同じことだよ』

 そんなの、とうの昔に分かりきっている。それでも日野川は、シナリオを書き換えなければならない。御沢京を助ける? とんでもない。彼を助ける事で、失われるものの方が圧倒的に多いというのに? 

『誰もをみんな、救う方法は無かったの?』

 無い。そんな御伽噺みたいなこと、あるわけが無いんだって、僕はあの時知ったんだよ。君たちの屍の上に一人立った僕は、たった一人だけ救われた僕は、本当は一番救われちゃいけない人間だったんだよ。

『それでも、僕らは響希が生きてくれてて良かったと、思ってるよ。響希は僕らに希望を与えてくれた。響希なら、これからここに来る子どもたちを、皆救えるはずだよ。犠牲なんか選ばなくても、皆皆、救えるはずだよ』

 幻聴にしては、やけに生々しいその声は、次第に日野川を擁護するものへと変わってゆく。これが全て、自分で作りだした偽物だと言うのなら、あぁ、僕はなんて傲慢で嫌らしい生き物なんだろう。僕一人と引き換えに何人も、何人もいなくなってしまったことがら本当にいいと思えるかい? いずれ【化け物】になってしまう芽を、間引くことは必要なことじゃないの?
「僕だって、解らない。でも、やるしか無いんだよ。少なくとも、光希くん達は、助けられる」
 これから、どんどん【化け物】の芽は増えていくかもしれない。けれど、まだこのセカイに染まりきっていない十期生達ならば、彼らだけならば、ここから断ち切ることが出来るはずなんだ。
「だから、赦してくれよ」
 赤い唇が、自嘲気味に形だけの笑みを作る。何も知らないまま消えていった少年達が、今は、心底羨ましかった。

 いいかい、いつまでも理想を追い求める馬鹿な少年達よ。僕は誰に何と言われようと、あの時の再演なんかしない。
君達だって、本当は気づいているんじゃないの?

【救世主】と【略奪者】は紙一重。
神様と化け物は紙一重。
英雄は、次世代の英雄に殺される運命なんだよ。

──────────

 柔らかな陽の光が、学園の屋根を照らし出す。薄紫の空が徐々に白んでいく様子を眺めながら、統也は満ち足りた気持ちで、満月のような瞳を光に向けていた。また新しい朝が始まり、世は全て自身の為に廻って行くのだ。
『眩しいよ、おれはもう寝るね』
 統也の中にいる【彼】はふわぁとひとつ欠伸をして、夜の闇と共にどこかへ行ってしまった。なので、残された統也は、今からこの体を一人で使うことができる。
「今日は一体何が俺様を楽しませてくれる?」
 意気揚々と呟くと、統也はぴょんっと屋根を飛び降りて、近くの大木の枝に上手い具合にぶら下がった。そして、勢いをつけてから手を離し、階下の窓辺に着地する。すると、その音がチャイム代わりになったのか、薄緑色の遮光カーテンが勢いよく開き、中から不機嫌な顔の少年が頭をのぞかせた。
「何、眠いんだけど。絶対わざとここ狙ったよね。わざとだよね」
 まくし立てるように言葉を並べ、少年はその綺麗な眉間に皺を寄せる。それは、昔から変わらない彼の癖だったが、何度人を睨みつけようと、彼の額には痕ひとつつくことは無かった。その顔を見ては、まるで人を睨むことに特化したように作られた顔だ、と思い、統也はいつも吹き出してしまうのである。そうすると、当然彼の顔はいよいよ不満げになり、二人が揃えばそんなやり取りが永遠と繰り返される。彼には悪いが、統也はそんな毎日がとびきり大好きだった。間違いなく、今自分を一番楽しませてくれるのは、この少年であるという自覚があった。
「紫乃、今日は何をしようか! まだまだ休暇は続くぞ!」
「まだ頭の怪我治りきってないでしょ。大丈夫? 命レベルでバカになった? 」
「む? それは俺様に対する最大の侮辱か? いいだろう、受けて立とう」
 統也は窓枠に手を添えると、勢いよく体を持ち上げて、文字通り彼の部屋に転がり込んだ。唖然として見開かれた綺麗な緑眼など全くお構い無しに、統也は、いなくなってしまった【彼】によく似た少年に向かって微笑んだ。
「さぁ、今日は何をしようか?」
 先程より語気を強めて、統也は言う。こうなればもう何を言っても聞かないだろうと悟った少年は、満更でもなさそうに苦笑した。

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