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​第5楽章「虚ろを満たす欠片」

「京、大丈夫か? どこか具合でも悪いのか?」
 背後から肩を叩かれ、京は座り込んだままゆっくりと振り返る。そこには、無表情の中に僅かな動揺を滲ませた郁の姿があった。
「……あぁ、平気だよ」
 酷く疲れた顔で、京はぼんやりと答える。最後の理性はとうに切れ、今まで心の中に溜め込んでいたものが少しずつ、少しずつ流れ出ていく音がしていた。そんな事は露知らず、郁は少しだけ微笑むと、京の隣に腰を下ろした。
「それにしても、京は流石だな。光希達を上手く嗜めたと聞いた。……俺だったら、きっとなんて言っていいか分からなかった。京と比べたら、俺もまだまだだな」
 こちらの気持ちなどお構い無しに、郁はいつになく饒舌に喋る。彼の中で嬉しそうに語られる御沢京は、やはり、京自身が持っている本質とはおおよそかけ離れていた物だった。
「それ、本気で思ってるの?」
「え? あぁ」
 首を傾げるその仕草が、何故だかどうにも腹立たしい。空の心に降り積もった感情の全てが、みるみるうちに内側から剥がれ落ちてゆく。
「郁、君の見ている僕は、本当の僕なんかじゃないんだよ。ぜんぶ、君達の作り出した幻だ」
 止まらなかった。止められなかった。嗚咽混じりの声が、言葉を紡ぐ。
「僕は、優しくなんかないし、強くも、頼もしくもない。……何にも持っていないんだ。皆が知っている御沢京なんて、どこにもいない。旦那さんの病気が治ったって嬉しそうにしてた女の人も、受験に合格したって喜んでた男の子も、皆、僕に騙されてただけなんだよ」
 ねぇ郁。と、困惑した瞳が問いかける。
「『京』なら、後輩達のことを鬱陶しいだなんて思ったりしないよね? 仲間を助ける事を、躊躇したりしないよね? …………ずっと、考えていたんだ。僕は、僕は一体『誰』なんだろう」
 制服の袖にしがみついた手が震えている。窓から見えていた太陽に雲がかかり、礼拝堂の中は一気に暗転した。迫り来る闇は、まるで京の体を飲み込んでいくようだった。郁は、縋り付く友の姿を凝視しながらそっと息を呑む。
「京……」
「頼むよ……郁。僕を罰してくれ。ここに来てから受けた賞賛だって、本当は全て君のものだった筈なんだ」
 零れ落ちる雫は、元には戻らない。彼が抱えていた苦痛は、自身の中で完結してしまう傷だった。それを癒す術を、郁は知らない。外から微笑みかけたところで、京自身が顔を上げなければ、彼を救い出す事は出来ない。それでも郁は、差し出されたその手を離すことはしなかった。例え綺麗事だと思われても、彼から感じた優しさを、周りを安らげるあの笑顔を、偽りだとは思いたくなかった。
「そんな事、無いだろう」
 それは怒りにも似た、震える声。
「強靭な精神が無ければ、命をかけて人を守る事など出来るわけがない。心が無い者に、人の心は救えない」
 京の肩を掴んだ郁の手に、強く力が篭もる。五年間、静かに心を削りながら仲間を守ってきた友を、今度は自分が導く番だと思った。
「……でも俺は、お前に救われた。神様の力なんかじゃなく、お前自身が生きる姿に憧れを抱いた。こんな人になりたいと、思ったんだ」
「僕が……」
 京がそっと顔をあげる。脳裏に甦ったのは、一番初めに京の手を取った女性の顔。あの時、京は心から彼女の幸せを想っていた。例えその裏で大人達の陰謀が渦巻いていたとしても、彼のその気持ちだけは、紛れもなく本物だった。
「『かみさま』じゃなくて、僕が君を救ったの……?」
「あぁ。お前はお前以外の何者でもない」
 郁は小さく頷いた。それ以上の言葉等必要無かった。じわ、と体温のように心地良い何かが、京の内側に触れる。何も無いと思っていた空間には、目には見えない温もりが詰まっていた。京は、その事に生まれて初めて気がついた。きっと『かみさま』なんて、初めからどこにも居なかったのだ。京自身がそう在りたいと願ったから、皆の為にそう在りたいと願ったから、そんな優しい少年の思いが、人々に救いを与え続けていたのだろう。
「だからもう、自分を責めなくて良いんだ」
 鍵は、開いた。郁の飾らない言葉は、決して大きくも煌びやかでも無かったけれど、きらりきらりと反射しながら積もってゆく、大切な欠片だった。
「……やっぱり、君には敵わないよ」
 そう言って笑った京の顔は、今までよりもずっと不恰好で、けれど、どんなに取り繕った表情よりも美しく映った。

──────────

 京の手を引っ張って立ち上がらせると、郁は少し困ったように肩を竦めた。
「別班のあの新入生には、俺も正直いい気持ちはしなかった。そういう事、京も俺も、今まであまり言わないようにしていたけど……互いにもっと、弱音を吐いても良いんじゃないか」
「そうだね。……とりあえず、僕らの負担を減らす為に、僕にひとつ考えがある」
 京はにやりと笑ってみせると、そっと郁に耳打ちした。今までの京だったならば、周りに配慮して決して提案しなかっただろうその内容に、郁は一瞬目を丸くする。しかし、すぐに目を細めると、納得するようにこくりと首を降り答えた。
「良い案だ。少しづつ、お前のやりやすいように変えていけばいい」
 重たい扉を、今度は二人の力で開く。礼拝堂の外はいつの間にか晴れ空に戻っており、頭上には目も覚めるような青が、まるで二人を歓迎するかのように広がっていた。

 

 

 去っていく二人を、礼拝堂の中から覗き込む影が一つ。京が来る気配を察し、物陰に隠れていたその人物──日野川は、少年達の背中を見つめながら、手元のタブレットを起動させた。沢山のフォルダが仕舞われた項目をスクロールし、ある番号の所で指を止める。
「1678……機能不良」
 呟くと、日野川はそのフォルダを開き、資料らしきデータを次々と消して行く。と、その時、タブレットが震え、日野川宛に着信がかかってきた。相手の名前は、ヴィクトリア。
「はい、日野川です」
『……ご苦労様です。6期生の状態は、どうですか?』
 淡々とした声が、日野川の背筋を撫でる。画面の向こうに居る筈なのに、彼女から発せられる威圧感は、消えることは無かった。日野川は呼吸を整えると、努めて冷静に返事をする。
「1678に不備が。……彼は、学園長が手引きしていた環境を突破して、自らの望む自分に変わりつつあります」
『あら、【後継者】を育てる為に、折角わたくしが御沢家へ新教を持ちかけたと言うのに……惜しいですね。そのまま染まっていれば、貴方と同じ立場に迎え入れて差し上げましたのに』
 電話越しに、ため息の漏れる音がする。だが、彼女はすぐに小さく笑うと、パンっと音を立てて、無邪気に手のひらを合わせた。
「御沢京を、【卒業生】のリストから外してください」


 電話の向こう側。ヴィクトリアはその時、学園のある場所に存在する隠し階段を下っていた。
 通話を切ると同時に、彼女の足は階段の最後の一段を踏みしめる。彼女の見渡す先には、人一人が入れそうな筒型の機械が立ち並ぶ、広大な地下室があった。
「お久しぶりですね、1期生の皆さん」
 彼女の声に返事をする者は誰もいない。呼びかけたのは、機械の内側、アクアマリンの液体に浸された、目覚めない少年達。
「寂しいでしょう? もうすぐ、新しい仲間を連れてこようと思っているのです」
 そう言うと、ヴィクトリアはタブレットに視線を落とした。
「仕方ありません。後釜には1685を手配して、罰を望んだ優秀な『かみさま』は、お望み通りに致しましょうか」

──────────

【略奪者】の襲撃から数日後。理沙子のレッスンを終えた放課後、京は翼を自室に呼び出した。恐る恐るついて行った翼は、京の口から出された提案に目を丸くした。
「え……ボクが光希くんの教育係、ですか?」
「そう。……本当は歳の近い紫乃くんが良いと思ったんだけど、すごい剣幕で断られちゃって。よっぽど嫌だったんだろうね」
「あぁ……紫乃にはボクの可愛さも通じませんし、同級生とも群れていないみたいですよ。なんだかんだ言いつつも、唯一心を許しているのは統也くらい」
 そう言うと、翼は曇りなき笑顔を京に向けた。
「良いですよ。引き受けます。あの二人じゃ話にならないもの」
 快い二つ返事に、京は一瞬面食らう。普通なら喜ばしい事の筈だが、どうにも不安は尽きなかった。果たしてこの判断が吉と出るか凶と出るか。今はまだ、誰にも分からない。

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