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第16楽章『居場所』

 別段言うことも無い、平凡な人生だったのでは無いだろうか。杜若郁はどこにでもいる普通の子どもだった。両親に愛され、弟妹に慕われ、友達に受け入れられる。当たり前のようで幸せな生活だ。けれど、あの訳の分からない【力】が発現した日を境に、郁の周りは何もかも変わってしまった。

 始まりは、小学二年生の時だった。その日郁は足首に軽い捻挫を負っていて、友達がグラウンドに遊びに出かけて行くのを、一人窓の外から眺めていることしか出来なかった。あぁ、どうして皆は行ってしまったんだろう。遊びを断ったのは俺からだけど、少しくらい気づかってくれても良かったのに。それは本当に小さな、鬱屈とした気持ちだ。けれど、彼の中の閉じ込められていた能力を引き出すには十分な感情だった。
 ぼんやりと眺めていた窓の外が、一瞬にして暗く閉ざされた。数泊置いて、ぱらぱらと雨が降り出す。やがて、雨はグラウンドに叩きつけるような本降りになり、外で遊んでいた子どもたちは、慌ただしく校舎の中へと戻ってきた。
(……偶然、かな。俺が皆の事を羨ましいと思った時に、雨が降った)
 一瞬、ほんの一瞬だけ、郁の心に不安の影が過った。偶然にしては、やけにタイミングが合いすぎている。郁は暫くの間、じっと睨みつけるように雨粒を眺めていた。が、帰ってきた友達に話しかけられると、すぐにその事を忘れてしまった。
 再びそのことを思い出したのは、その日の夜、父が見ていたニュース番組を何気なく見ていた時だった。局所的な雷雨が、というキャスターの声と共に映し出されたのは、雨に濡れる学校の姿だった。上空から映し出された風景は、どこか妙だった。何故映像に違和感を覚えたのか、その理由が分かった瞬間、郁はゾッと身を震わせた。
 激しい雨は、郁が通っている学校の敷地内だけに降り注いでいた。学校の隣にある公園やマンションには、依然として陽の光が当たっているにも関わらず、だ。一人震える郁を無視して、画面の向こうの若いキャスターは、怪訝そうに眉を潜め言葉を紡いだ。
『不思議ですねー。怪奇現象ですかね?』
『そうですね。現場が小学校だったことを見ても、これは【異能】が原因だと考えられるかもしれません』
『認知され始めた【異能】ですが、未だ能力者を対象にしたいじめも増え続けているという事ですから、対策が必要ですね』
「可哀想になぁ。お前の学校にもいるのか?」
 キャスターの言葉を遮って、父がこちらを振り返った。その顔は少し寂しげに微笑んでいて、父が【異能】に同情していることが見て取れた。郁は少しばかりホッとしたが、それで胸の内に巣食う不安が無くなったわけではない。
「もし、【異能】の子と出会っても、優しくしてあげるんだぞ」
 父は、立ち上がって郁の頭を撫でると、風呂場へ行ってしまった。残された郁は、ぎゅっと手を握りしめて俯く。不思議な力を持つ子どもたちが存在していることは知っていたが、自分には関係の無い話だと思っていた。それなのに……力と言うのは、こんなに簡単に現れる物なんだろうか。昼間の、友達の声が脳裏を掠める。
『なんだよ、雨かよ』
『せっかく遊んでたのにな。つまんねー』
『神様のいじわる』
 子どもが紡ぐ可愛らしい批判の言葉。その時は、郁も一緒になって不満を垂れていた。けれど今の郁にとっては、その言葉どれもが自身に向けられた牙となっていた。
「俺がやったって分かっても、皆は優しくしてくれるのかな」
 きっと優しくしてくれるよ、と、根拠の無い声がどこからともなく流れてくる。郁だって、もし【異能】の子に出会ったとしても、いじめたりはしないでしょ? 友達なら尚更、いじめたりなんてしないでしょ? だから大丈夫。純真な少年は、自身を安心させる為に生まれたその幻聴に従って力強く頷いた。きっと平気だ。見たことの無い神様がやったことなら怒っても、友達がやったことなら、皆、許してくれるはずだ。どこからともなく吹いてくる隙間風は見ない振りをして、郁は早々に布団に潜り込んだ。

──────────

 少年が願った優しさは、絶望の光を浴びて脆く崩れ去る。幼い頃から、郁の一番近くで笑顔を向けてくれた少年が、憎らしげに唇を噛んで郁を指さしている。針のように鋭く、勇者の剣のように忽ち悪者を捉えてしまう指だった。
「お前のせいだッ! お前が雨なんて降らせなかったら、大会、出られるはずだったのに……優勝できたのに……」
 悲痛な金切り声は、クラス全員を郁の敵に回した。『怖い』『全部あの子がやってたの?』『酷いよね』『いなくなればいいのに』言葉の風圧が郁を押しつぶす。扉の前に立ち竦んだまま、指に貫かれ囁きの下敷きにされた郁は、静かに泣いていた。
「違う……俺じゃない」
 許しを乞うような、暴かれた真実に怯えたような、掠れたか細い声が、しんとした教室内に響く。咄嗟にでてきたその台詞が、余計に油を注いでしまったことに、郁は気づかない。少年は、信じられないというように目を見開くと、郁の前に歩み出て、震えるその頬を思い切り引っぱたいた。
「嘘だ! お前がやったって、皆、皆、気づいているのに! お前は、悪魔だ! 化け物だ!」
 叫びと痛み、ぐわんと頭が回る。その時になって、郁は自分が嘘をついてしまったことを思い出した。本当だね、俺は嘘つきだ。ごめんなさい、でも、どうやって抑えたらいいか、もう分からなくなっていたんだ。何が正解なのか、分からなくなっていたんだ。お前の言うとおり、俺はもう化け物になってしまったのかな。
「先生、先生! 郁くんが!」
 途切れそうな意識の中で、不意に少女の叫び声が聞こえた。そして、身体に打ち付ける水の温さを感じる。
「助けてよ、止めてよぉ!」
「僕たちみんな、溺れて死んじゃうよ」

あいつのせいで死んじゃうよ

──────────

 続いてのニュースです。今朝、〇〇市の小学校で【異能】を持つ児童が能力を制御出来ず、その場に居合わせた児童数名が怪我を負うという事故が発生しました。児童はいずれも軽傷とのことです。

『いやぁ、可哀想な事故ですね』

『【異能】の児童に対するいじめがあったのでは無いかと言うことも』

『不明な点が多いですが、精神疾患のひとつとして捉え治療を進める病院も多いようです』

『子どもたちのためにも、【異能】への理解を深めることと、能力の解明が急がれますね』

 キャスターは、神妙な顔で他人事のようにそう言うと、取ってつけたような笑顔をカメラに向けた。

 それでは次のニュースです。あの名門音楽学校から、待望の新アイドルグループが発表されました。

──────────

 テレビを消して、郁は枕に顔を埋めた。ここ数日、郁の家の周りにはずっと雨が降り続け、近所からは奇異の視線を浴びていた。両親はいつも通り笑顔で接してくれたが、その笑顔すら、郁には裏があるように思えてならず、いつの間にか郁は、部屋から一歩も出なくなっていた。
 そんな日々が積み重なり、気がつけば郁が学校に行かなくなってから一年が過ぎようとしていた。雨は依然として家の頭上に降り続け、両親も担任も訪問医も、彼に会いたがる全ての人間を拒絶していた。会ってしまえば、また絶望してしまうに決まっている。皆影では郁の事を化け物と指さしているのだ。そうに違いない。
 けれど、弟妹だけは別だった。まだ幼い二人、マコトとマナは、何も知らないその瞳で、郁を兄として見てくれた。郁がどうして学校に行かないのか、どうして部屋から出てこないのか、彼らにはまだ解らなかったし、二人にしてみれば、優しい兄がずっと一緒にいてくれるのは、心底嬉しい事だった。この二つの小さな命を、幸福にあたためてあげることだけが、郁の生きる意味であり、唯一の居場所だった。
「にーちゃん! とらんぷしよ」
「しょー」
 弟のマコトは四歳。最近よく喋るようになり、色んな遊びを覚え始めた。妹のマナはまだ一歳半で、よちよちと歩きながら兄達の周りを楽しそうに回っていた。
「まな、にーちゃんがいっしょでうれしいな」
「しぃなー」
 マコトは、キラキラと輝く瞳で妹に問いかける。マナは手を叩きながらけたけたと笑って答えた。毎日毎日紡がれていたその言葉は、井戸の底に落ちてしまった郁を、ゆっくりと引き上げて行った。郁は、目に貯めた涙を必死で零すまいと、俯いて震えていた。でも、その涙も震えも、絶望から来るものではなかった。幸福を感じている時、人はこんな風に泣くのだと、郁は生まれて初めて知った。
 その日、郁は実に一年ぶりにリビングへと姿を現した。食事を運ぼうとしていた母は、驚いて食器を取り落とし、中身が辺りに散らばった。けれど、この夫婦にはもうそんな事はどうでも良かった。押し倒すような勢いで抱きしめられた時、郁は、ここにも幸福が忍んでいた事に気がついた。
「引っ越そうと思うんだ」
 父は、いつかのように郁の頭を撫でながら、優しく呟いた。
「少し不便だけど、星が綺麗な海辺の町だよ。父さんと一緒に散歩してみよう。夜に歩けば、人の目も気にならないだろう」
 窓の外では、いつの間にか雨が上がっていて、煌々と灯る希望の月明かりが、ひとつになった家族を照らしていた。

 引越した後も、郁は学校に行かなかった。けれど、前のように部屋に閉じこもっていることは無くなった。ベビーカーを押してマナを保育園に連れて行ったり、マコトと一緒におつかいに行ったり、父と夜の海辺を歩いたりした。そうして町に馴染んでいくうちに、何人か友達も出来た。彼らは大抵公園に集い、新顔である郁のことも快く仲間に入れてくれた。不思議なことに、郁がなぜ学校に来ないのか聞いてくる者は誰もいなかった。ただ、一緒に遊べればそれでいいと、そう思っているようだった。

(ここに来てから、全部が上手くいっているみたいだ。俺は、俺はもう普通に暮らしてもいいのかな。人間として、生きていてもいいのかな)

 そんな、ふわりと軽い前向きな感情が郁を包み始めた頃、郁は公園で『彼』に出会った。その日は母が体調を崩していて、郁は一人でマナとマコトを保育園に送り届けた。帰り道に通り掛かった公園で、一人ブランコに腰掛ける少年の姿を見たのだ。平日の朝、いつも一緒に遊んでいる友達は、皆学校にいる時間のはずだ。一体誰だろうとゆっくり近づいていくと、不意に彼と目が合った。知らない少年だ。そして、この町のどの子どもよりも、美しく、神々しい少年だった。くるりとカールした濃い赤毛は、太陽に照らされて柔らかく煌めき、長いまつ毛が零れ落ちる瞳は琥珀のように光っている。
「……君も学校休んだの?」
 キィ、とブランコが揺れて、少年がそう告げる。郁は、まるで魔法が解けたようにハッと目を瞬かせると、途端に顔を赤くして口ごもった。
「いや……いつも、行ってないんだ」
「つらいの?」
 少年は心配そうに首を傾げた。自分の言葉のせいで、その顔に陰りが見えたのだと悟った郁は、何故だかとても申し訳ない気持ちになった。顔を赤らめたまま、郁は思い切り首を横に振る。
「ち、違う。昔は辛かったけど、今は、大丈夫、幸せ」
「しあわせ? なら良かったぁ」
 少年は嬉しそうにブランコを揺らす。郁は安堵してほぅと息を吐くと、少年の隣のブランコに腰を下ろした。彼とは幾らか話が出来そうだと心で分かったのだ。
「君は、この町の子じゃないの?」
「うん、電車で来たの。母さんのお仕事のお手伝いに行くんだ」
「すごい、子どもなのに?」
「僕は普通の子どもと違うんだって、母さん言ってた」
 少年は、輝いた瞳で何かにせっつかれたように喋りだした。
「僕は不思議な力を持っているから、かみさまみたいになれるんだって、母さんも父さんも、しんじゃの人たちも言ってるよ」
 曇り無き目が、郁を捕らえる。全てを信じきっている純粋な視線は空恐ろしく、彼は、郁がもう戻れなくなってしまった所にいる存在なのだと気がついた。
「力って、【異能】?」
「そういう人もいるね。かみさまの力」
「……違うよ、あれは悪魔の力だよ。化け物の力だよ」
 ブランコの鎖ごと少年の手を取って、郁は言い聞かせるように声を漏らした。少年は、少しの間驚いたように目を丸くしていたが、やがてゆっくりと目を伏せると、郁の手に指を絡ませた。
「君にも力があるんだね」
 郁が答える前に、不安定でせっかちな雨雲が現れる。いつかのように、雷鳴を伴って、二人を取り囲む。

【声の能力──G線上のアリア】

 もう随分と現れなかったはずなのに。ぐらりと揺れる雨雲は、二人の少年をずぶ濡れにする。これが俺の力。忌み嫌われて突き刺された俺の力。
「……雨粒が歌ってるみたいだ。綺麗だね」
 だから、少年の言葉が信じられなかった。黒々と恐ろしい雨雲と、全ての音をさらう水の音を、綺麗だと形容したのは彼が初めてだった。驚いて息を呑む郁を無視して、少年は雨粒のリズムに合わせて歌を歌った。子守唄のような、どこかで聞いたことある歌だった。すると、二人を取り囲むように透明な半球が現れた。半球は二人に降り注ぐ全ての水滴を弾き、ぱらんと可愛らしい音を立てた。
「歌おうよ」
 少年の口調は優しかったけれど、どこか逆らえない響きも含まれていて、郁は何故彼がかみさまと呼ばれているのか、少しだけ分かったような気がした。
「これは、かみさまの力でも化け物の力でも無いね」
 声が重なり合う喜びを、楽しさを、少年は郁に教えてくれた。
「僕の力と君の力だ」
 両親に抱きしめられた時のように、歌っているうちにいつの間にか雨は止んでいて、空には小さな虹がかかっていた。
「そして君の力は、あんなに綺麗な虹をかけることが出来る力だよ」
 少年はそう言うと、パッと立ち上がって駆けていった。郁が我に返って呼び止めた時にはもう、彼の姿は見る影も無くなっていた。今郁が見たのは、何かの幻だったのかもしれない。そう思い視線を落とした時、郁は彼が幻ではないことを知った。少年が座っていたブランコに、一冊の本が置いてあったのだ。本にしては厚みのないそれを拾い上げ、郁は表紙に書かれていた文字を読み上げた。

 ヴィクトリア少年音楽学園。

 あの少年と別れた後、郁は名門の音楽学校として知られるその学校への進学を決めた。幼い頃から続けていたピアノで、器楽コースに受かる為、郁は毎日何時間も鍵盤の上で両手を躍らせた。ここに受かれば、またあの少年に会えるかもしれない。希望と喜びが奏でる音楽は家中に響き渡り、いつしか町中にも響き渡り、郁の音楽を沢山の人が心待ちにしていた。誰もが皆、郁は器楽科へ進むものだと思い込んでいた。しかし郁の奏でる音は、ある日ぱたりと止んでしまった。代わりに聞こえてきたのは、ステップを踏む軽やかな足音と、小さな子どもたちの笑い声。事の始まりは、テレビを見ていたマナの言葉だった。
「にーに、これしてー」
 マナが指差した先に映っていたのは、ヴィクトリア少年音楽学園の生徒たちの姿だった。とは言っても、郁が目指しているコースの生徒ではない。マナの目を釘付けにしていたのはアイドルコースに在籍する少年たちだった。マナは、彼らのステージを見て、郁にも同じ踊りをやってもらいたがっていたのだ。
「俺が?」
「にーにこれするでしょー」
「あいどるで、テレビに映るんだよね!」
 嬉しそうにかたことで話すマナの隣に、マコトが駆け込んでくる。どうやら二人は、郁がアイドルを目指していると思っているらしかった。郁は苦笑して二人の頭を撫でる。アイドルなんて考えたことも無かった。あんな風にキラキラとは笑えないし、歌だってダンスだって未経験の未知数なのだ。けれど、期待している二人を前にそんな事は言えなかった。それに、絶望に陥っていた郁を救ってくれたのは、間違いなくこの可愛い弟妹達なのだ。この子達を笑顔に出来るなら、挑戦も苦ではない。
「そうだな。お前たちの為なら、やってみても、良いかな」
 そっと呟いた郁の声は、化け物等とは到底言えないほど優しさに満ちていたのを、彼自身は知る由もない。けれど、彼の小さな信者達は知っていたのだ。杜若郁が、世界で一番優しい兄であることを。

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