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第14楽章『UNKNOWN』

 肩で息をしながら、扉の前で立ち止まる。恐る恐る手をかけて引くと、からからと乾いた音がして戸が移動する。
「統也……?」
 薄暗い部屋の中からは、何の返事もない。音を立てないように歩みを進め、ベッドの横に立つと、そこには規則的な寝息を立てる統也の姿があった。頭に包帯が巻かれている他は、特に変わった様子も見られない。月夜の言っていた事は本当だった。それが分かった途端、紫乃は緊張の糸が切れたかのようにその場に座り込んでしまった。床に膝をつくと、ちょうど統也の顔が目の前にある。ゆっくりと顔を近づけると、紫乃の前髪が静かな息で揺れた。
「花のひとつでも、持ってくればよかった」
 囁くようにそう言うと、同時に統也が小さく呻きだした。頭が動いて、枕と擦れた音がする。悪い夢でも見ているのか、彼はどうにも寝苦しそうだった。紫乃は窓を開けようと立ち上がったが、ふとその場で足を止めると、そっと統也に向き直り、彼の頭の上に手を翳した。
 風は、全てを引き裂くような、冷たく膨大な力だけを持つわけでは無い。時に優しく、ただ草花を揺らすように、静かに顔を撫でる。ふわふわと揺れる髪と、落ち着いた表情に戻った顔を、じっと見つめてみる。誰も自分自身を見てくれないから、人に近づくのは嫌いだった。ずっと誰かの代わりに生きているのだと思っていた。そんな人生なら、早く死んでしまえば良いのに、とも。
「でも、君はまっすぐ僕の名前を呼んでくれたよね。一番初めに、僕を見てくれたよね」
 歌うように唇から言葉を滑らせる。応えてくれるはず無いと分かっていても、届いて欲しいと思わずにはいられなかった。
「僕からしてみたら君の方が面白い奴だよ。……花びら、とっても綺麗だった。ありがとう」
「……今更か」
 小さく息を呑む音が聞こえた。それが自分の口から発せられたものだと気がつくのに、数秒の時間を要する。そして、スローモーションのように顔を上げると、満月のような瞳と目が合った。
「遅いぞ、紫乃」
「あ…………えぇ……」
 餌を待つ金魚のようにぱくぱくと開いた口からは、何の言葉も出てこない。驚き目を見開く紫乃の前で、目を覚ました統也は、「よっ」と掛け声を出すと勢いよく上半身を起こした。
「体、大丈夫、なの」
 やっとのことでそれだけ絞り出した紫乃に向かって、統也はにっと笑ってピースサインを突き出してみせる。
「魔王は不死身だ!」
「そう……そう、か。……はぁ、これでまたうるさくなるね」
 緊張感のない顔と声に、ゆるゆると力が抜けていく感覚を覚えた。何だか意地を張っているのが馬鹿らしくなって、紫乃はふうっと息を吐くとベッドに突っ伏した。
「統也。僕ね、本当の名前は紫乃じゃないんだ。僕には、赤ん坊の頃に死んじゃった双子の兄さんがいて、僕の親は生き残った僕にその兄さんの名前をつけ直したの。……何でそんなことをされたのかは、聞けなかったし、聞きたくもなかった。お前は所詮誰かの代わりでしか無いって言われてるみたいで、ずっとこの名前が嫌いだった」
 いつもなら、長い話は統也の能天気な言葉にかき消されて終わる。けれど今、統也は無言で紫乃をじっと見つめているだけだった。
「でも、統也のおかげで、僕は本当の意味で紫乃になれた気がするよ。統也が、僕は風箕紫乃なんだって、認めてくれた気がするんだ」
 人に付きまとわれたのは初めてだから、初めは嫌だったけど、と小さく付け加えで見る。こんな事を言えば、また、撫で回されたり抱きつかれたりするのだろうか。そう思い身構えたものの、嫌な気はしなかった。だが、統也はいつまで経ってもアクションを起こさない。紫乃が不思議に思って統也を見つめると、彼は満月の瞳を柔らかく細め、再びベッドに上半身を横たえた。静かに天井を見つめながら、統也はぽつりと言葉を漏らす。
「……認められたのは、おれの方だよ」
 聞いたことの無い口調だった。今目の前にいる少年は、統也であって統也じゃないみたいだった。
「おれにも、兄がいたんだ。優秀な兄が二人いて。おれは出来損ないだし【異能】持ちだったし、両親には嫌われてた。いつも兄達と比べられていた」
 喋る度に、規則的に喉が動く。その様子をぼんやりと見つめながら、紫乃は、統也も自分と同じなのだと気がついた。彼もまた、自身の存在を揺らがされた人間で、紫乃は知らず知らずのうちに、彼の個性を受けいれていたのだと。
「紫乃は、おれがこんなでも一緒にいてくれただろ。だから、おれの方こそありがとう」
「と……」
「喋ったら腹が減ったな! 低級の魔物でも喰らいに行くか!」
「…………嘘でしょ」
 まるで、先程までの彼は何かに取り憑かれていたのでは無いかと錯覚する程に、こちらを向いた統也の顔はあまりにもいつも通りだった。統也は、言葉を失った紫乃の手をお構い無しに取ると、早足で部屋を抜け出していく。思考する間もなく景色が流れ、曲がり角まで来たところで月夜とすれ違った。
「君たち! まだ万全じゃないんだからそんな風に走っては……!」
「人間の指図は受けん!」
 止めようとした月夜の脇をすり抜けて、統也は快活に笑い出す。それは当たり前の光景で、けれどとても不思議な心地がした。紫乃は、統也の事を理解していたようで、実は全く知らなかったのでは無いか。そう気がついてしまった。今繋いでいるこの手は紛れもなくあたたかく、けれどほんの少しだけ怖かった。でも、嫌悪はない。
(知りたい。もっと、統也の事)
 こんな気持ちになるのは初めてだった。人に興味を持つことなんて、理解したいと願うようになるなんて、思いもしなかった。この足から先に伸びる道は真っ白で、ただひたすらに未知数で。これまでの紫乃なら、それに怯え、無気力に時が過ぎるのを待っていただけだったに違いない。
(でも、今は少しだけ)
 こうして生きている事が、嬉しかった。

──────────

 スマホの通知音が鳴り響く。椅子に座って文庫本を読んでいた郁は、小刻みに震えるそれを手に取ると、足早に階段を降りた。慣れた手つきで玄関の電気をつけ、自宅の扉を開けると、そこには見慣れた級友の姿があった。
「京。よく来たな。あがってくれ」
「きょーにーちゃん? 今年も来てくれたんだ!」
「マナと遊んでー!」
「あら、京くん久しぶり。ご飯食べていってね」
 郁の後ろから、彼の弟妹と母が顔を覗かせる。その素朴な笑顔に、京は自然と頬が緩んでいくのを感じた。
「お邪魔します」
「京、こっちだ」
「あぁ」
 遊んでくれないの?と口に手をやる弟妹に、後で遊んでやるからと頭を撫でる郁を、京は愛おしそうに眺めていた。学園にいる時よりも、こうして家族と共にいる時の郁の方が、京はずっと好きだった。
「すまないな、茉奈と慎がうるさくて」
「いいよ。僕一人っ子だから、ああいうの憧れる」
「そうか。なら良かった。話がすんだら遊んでやってくれ。茉奈は特に、お前のことが好きみたいだし」
 兄としては少し妬くが、と漏らした郁の様子がおかしくて、京は久しぶりに声を出して笑った。気味の悪い笑みを貼り付けた両親に客人のようにもてなされるより、余程気が楽だった。
「分かった。君に妬かれない程度に遊ぶことにする」
「はは、よろしく頼む。……ところで、本題に入るが、良いか?」
「勿論」
 笑っていた京の顔つきが一瞬で変わる。瞳の奥に影が差し、柔らかな頬が強ばっていく。
「落ち着いているってことは、君もそうなんだろう」
「あぁ。翼や光希や、他の同級生たちには、そんな雰囲気は見られなかったから、多分これは、俺たちだけに起きた『エラー』だ」
「記憶が…………学園を出た後も、戦いの記憶が残り続けている」
 口にすると、危機感は一気に現実へと変化した。情報漏洩を防ぐ為、徹底的に管理された記憶操作のシステム。京と郁の二人は、何らかの理由でその管理下から弾き出されたのだ。
「事故、なのかな。それとも、学園側が故意にやったこと?」
「俺たちを試しているってことか? 一体、何のために」
 不満や怒りはあれど、この五年間、京も郁も学園の方針に逆らった事等無かった。学園側にとって不都合になることを仕出かした記憶もない。今更学園側が何かをけしかけてくるとは、到底思えなかった。頭を巡らせながら、黙って下を向いていた京は、そこでふとある仮説を思いついた。しかしそれは、立証されれば逆に不可解だ。今まで京達が習ってきた常識を、根底から覆してしまうことになる。
「郁。僕たち、もしかして……」
 京は、震える声を抑えようと、必死で唇を噛み締めると、縋るように郁の手を取った。
「学園の力を跳ね返すほどに【声の能力】が、強まっているのかもしれない」
「なっ……そんなこと、あるわけが……」
 京の仮説に、郁は言葉を失った。【声の能力】は、十六歳になると消える。それは誰もが知っている真実だ。それと同じく、十五歳の年を迎えると、力は段々と弱まっていくこともまた、周知の事実だった。本来ならば、現時点で一番力を持っているのは、永遠や命の代で、京や郁は彼らと同等、もしくはそれ以下の力しか使えない。だが、もし京の言っていることが正しいのだとすれば、二人は力が弱まっていく筈の時期に反比例して、力を蓄え続けているという事になる。それも、学園のシステムが作動しなくなる程に強い力を。
 京の唇が震え、額から汗が伝う。
「……僕たち、これから、どうなるんだろう」
 宙に放り出された言葉は、郁に拾って貰うのを待っていた。そんな筈ないと、安心していいと、郁に否定して欲しそうに待っていた。けれど──
(俺たちは、本当に何も知らないんだ。この学園のことも、力のことも、何も……)
 何も答えられないまま、郁には、ただそっと京の手を握り続けていることしか出来なかった。

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