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第26楽章『覚醒』─前編

 裏山の更に奥、丘の上から小道を下って十数分は経っただろうか、光希の前を歩いていた翼が、はたと足を止めた。急いで端末を確認するも、開いた地図アプリでは依然として代わり映えのない一本道が続いているだけだ。一体何があるのだろうと身を乗り出した光希は、その先の景色に目を見開いた。
 道の先には、今まで来た道と遥か先に見える小道を分断するような形で、ぽっかりと開けた野原が拡がっていた。そして、その野原の真ん中には、地図には載っていない古びたコンクリートの建物がぽつんと腰を下ろしている。
「何だろう、あの建物。かなり古そうだけど……」
「廃墟みたいだね。ちょっとだけ行ってみようか」
 道を下った先にある最寄り駅に指定の電車が来るのはきっかり一時間後だ。それまでこの建物を散策して時間を潰すのも悪くないかもしれない。翼と光希は、草花を踏みしめながら建物の前まで歩いて行った。
「扉は開けっ放しになってる。中も……特に使われては無さそうだ」
 翼は軋む扉を押しのけると、ゆっくりと建物の中に足を踏み入れた。入口に面した部屋はがらんとしていて、幾つものフラスコが不規則に並べられている奇妙な机の他には、何も見当たらない。部屋は他にも複数あるらしく、右端に階段も見えることから、どうやら二階にも続いているらしい。外観から想定していたよりも広い内部に、二人は思わず目を瞬かせる。
「なんか……理科室の匂いがする」
「フラスコがあるし、研究所みたいなものだったのかな?」
「他の部屋も見てみよう」
「うん」
 少しばかりの背徳感と冒険心。年頃の少年には付き物のわくわくとした気持ちを抱え、二人は次々に色んな部屋を攻略していった。しかし、最初の部屋にテーブルとフラスコがあった他は、一階はもぬけの殻で、彼らの心を擽るようなものは何も残されてはいなかった。
「やっぱり、廃墟だからなんにもない、か」
 翼はがっかりした顔で建物を出ようとしたが、光希はこれしきの事ではめげていないようだった。右手で翼の服を掴み、左手でまだ未開拓の階段の先を指さして、彼は言った。
「まだ二階の部屋があるよ。行ってみようよ!」
「え~? 多分何も無いと思うけど……」
「お願い! 時間はまだ大丈夫でしょ? それに、何だか懐かしい感じがして」
 光希はそう言うと、何かに取り憑かれたようにぼんやりと階上を見つめた。翼も息を呑み、光希が追う先を視線でなぞっていく。確かに、普段の翼ならば、幾ら興味を惹かれたからと言ってこんな不気味な場所に嬉々として入っていくこと等しなかったはずだ。まるで、この建物に吸い寄せられているようだ、と翼は思った。自分たちがここに来ることを知っていたかのように、姿を現した虚空の部屋の数々。その全てに足を踏み入れなくてはという焦燥感が、白い靄のように二人を取り巻いていた。
「分かった。少しだけだからね」
 翼が息を吐くと、光希は嬉しそうに頷いた。二人は手を取ると、軋む階段を一段ずつ、踏みしめるように登って行く。そして全ての段を踏み込んだ先、そこには、ぽつんとひとつの扉があるばかりだった。一階のように、もっと沢山の部屋が並んでいるとばかり思っていた二人は、呆気に取られたようにぽかんと口を開けた後、どちらからともなく吹き出した。
「なんか、予想外だね」
「ちょっと期待してたんだけどなぁ。でも、外から見た感じだと、この部屋相当広いよ」
 この先には一体何があるのだろう。口には出さずとも、二人とも同じ事を思っているのは明らかだった。息を合わせて扉を押し開ける。ギィイ……と重く不気味な音と共に、先の世界が顔を見せる。その時、二人の目に映ったのは──。

「ここって……」
「学校?」
 言葉を途切れさせ、翼と光希は理解が追いつかないと言った顔つきで部屋の中を見渡した。そこは、幼い頃から二人がよく見てきた場所。学校の教室そのものだった。チョークの粉でうっすらと覆われた使い古しの黒板に、年季の入った後ろのロッカーと、掃除用具入れ。壁にかかった扇風機は、時が止まったかのようにぴくりとも動かない。研究所の二階が学校の教室? これは夢がなにかだろうかと苦笑した光希は、前方に目をやってふと違和感を覚えた。だだっ広い教室には必要不可欠な、主役とも言えるもの達の存在が、明らかに不足しているのだ。
「この教室、机がふたつしかないよ」
「本当だ。なんか不思議だね」
 教室の前方には、よくある教卓と、それに向き合う形でふたつの机と椅子がピッタリと並んで置いてあるだけだ。二人は荷物をロッカーの中に入れ、面白半分でその椅子に座ってみることにした。椅子のサイズは小学校高学年向けといったところか。光希にはぴったりで、翼には少しだけ小さい。
「あはは、なんか変な感じ」
「翼くんと一緒に授業を受けることなんて無いもんね。一緒になるのは、レッスンの時とライブと、それから……」
 そこまで述べてから、光希はあれ?と首を傾げる。アイドルとして、spiritoとして活動している時間以外に、翼と共にいた事など無い筈なのに、何故かもっと多くの時間を共にしていた感覚が残っている。
「翼、くん。僕たち何か忘れてること、ない?」
「忘れてること? あ、もしかして学校に忘れ物でもした?」
「そういう事じゃなくて、大事な思い出を、忘れてる気がするんだ」
 光希の顔は、からかっている様にも嘘をついているようにも見えない。不安そうなその顔に、翼も思わず眉を下げた。
「きっと、疲れてるんだよ。もしかしたら、【力】が発動する前兆なのかもしれないし、もう行こうか」
「【力】……うん、そうだね。そうかも。行こうか」
 光希は一瞬だけ腑に落ちない表情を見せたが、翼に悟られないようすぐに笑顔を被せて立ち上がった。荷物を持って、再び階段を降りる最中、翼は何気なく問いかける。
「そう言えば、光希の【力】のこと、聞いたこと無かったよね。光希はどんなことができるの?」
「僕? 僕は……僕の使える能力は【力】の中でもちょっと特殊なんだって」
「へぇ、どんなの?」
「月の満ち欠けに連動して身体能力が強くなる……って、父さんは言ってた。満月の時はすっごく強くなるんだって。まだ、怖くて使ったことは無いんだけど」
「凄い、ヒーローみたいだね」
 翼は楽しそうに相槌を打つ。その答えが嬉しくて、光希は顔を綻ばせる。
「翼くん、父さんと同じこと言ってくれるんだね。……いつか、本当にこの【力】でヒーローになれたらいいなぁ。世界を救うヒーロー」
「うん、きっとなれる。ボク達みたいに【力】を持つ人間は、そうなる為に生まれてきたのかもしれないね」
 時には忌み嫌われる能力だって、持って生まれた個性だから、そんな風に思えるのは、大切な事を忘れてしまっているからだということにも気づけないまま。
「見て見て、次の満月はボク達が帰る日なんだって。もし学園に怪物が現れたりしたら、どうする?」
「あはは、何それ。タイミング良すぎだよ」
 二人の浮ついた声は、やがて建物から遠ざかっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 


 誰もいなくなった教室の中。薄暗い空間に並べられたふたつの机のうち、光希が座っていた方に、突如としてぼんやりと人影が浮かび上がった。歳の頃は十二歳といったところか。可愛らしい顔立ちの栗毛の少年だった。赤い目をぱちぱちとさせながら、半透明の彼はゆっくりと机に突っ伏して目を閉じる。ひんやりとした木の感触は、魂だけになってしまった彼にはもう分からないけれど、愛おしそうに息を吐いて、満足気にくすりと笑う。そして唇の端を大きく引き上げると、一音一音を噛み砕くように、可愛らしい声色でこう呟いた。

『せんせい、【救世主】がやって来たよ』

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