top of page

​第10楽章「菜の花子ども園」

「命くんなら、今建物の反対側で戦っているはずだ。きっともう決着は着いているだろうから、行ってきな」
 日野川は、出しかけた言葉を飲み込むと、静かにそう言って永遠から手を離した。反射的に手を出してしまったが、そう言えばこの子は、男から触れられる事に過剰な程に恐怖を感じる子どもだった。今日野川は、いつもなら跳ね除けられたり避けられたりしてもおかしくないはずの事をした。なのに今日は──
「ひびっきー、ありがと」
 日野川の所からは逆光になってよく見えないが、永遠は微笑んでいるようだった。しっかりとした足取りで、しかし危うい空気を纏ったまま、永遠は去っていく。その背を見送りながら、日野川はそっとため息を吐いた。

──────────

 長い廊下を歩きながら、永遠はあの約束を思い出す。自由になるための、約束を。そして、あの冷え冷えとした牢獄で生きてきた日々の事も。

 永遠と命が育ったのは、03地区にある『菜の花子ども園』という児童養護施設だった。赤ん坊から十二歳までの子ども達が暮らすその施設は、名前の通り、子ども達が菜の花のように朗らかに、伸び伸びと育つようにというのがモットーらしかった。前施設長は、まさにそんな菜の花達を照らす陽だまりのような存在で、その温厚な笑顔とあたたかい手のひらが、子ども達は大好きだった。生まれた時から親のいない永遠と命は、この名前すらも、前施設長から受け取ったものなのだ。その頃の永遠は、自分の事を最高に幸せな人間だと思っていた。施設で育っていても、親の顔を知らなくても、毎日こんなに楽しいから、たくさんの愛情を受けているから、僕は幸せなんだ。そう、口癖のように呟いていた。
 しかし、幸福はいつも、何の前触れも無く突然終わりを告げる。永遠が七歳の頃、急な心臓発作で亡くなった前施設長の代わりにやってきたのは、国からの補助金が目当ての冷淡な息子夫婦達だった。彼らは、表向きには永遠達に哀れみの表情を浮かべて接していたが、他の大人がいない所では、子ども達をぞんざいに扱った。殴られ蹴られは当たり前。悪い時には一日中食事を抜かれたり、何時間も寒空の下に締め出されたりしてしまう。突如そんな劣悪な環境に身を置かれた子ども達は、次第に自分自身を守る為、新しい施設長に脅えながら暮らすようになっていった。
 そんなある日の事だった。施設長が、新たに夜間の警備員を雇うと言い出した。自分たちが寝ている間に子ども達が騒ぎを起こして、責任を取らされたら溜まったものじゃない、と施設長は言った。言うことを聞かないようならどんなやり方で躾ても構わん。そう豪語した施設長に、警備員として雇われた整った顔立ちの青年は、にっこりと微笑んで頷いた。友人達と共に物陰からその様子を見ていた永遠は、男の微笑み方に、虫の知らせのような不気味な印象を受けた。そしてその悪い予感は、後に真実となるのだった。

 警備員となった男は、初めのうちはただの優しい青年だった。夜中にトイレに起きた少年に連れ添ったり、眠れなくなった少女に本を読み聞かせたりしていた。永遠は、その様子をベッドから横目に見つつも、別段気にすることも無くすぐに眠りについた。おかしいと感じるようになったのは、男がやってきてから一ヶ月ほど経った頃だった。深夜、永遠は隣のベッドが軋む音で目が覚めた。隣に寝ていたのは、当時永遠が密かに想いを寄せていた、早紀という同い歳の少女。頭が良くて笑顔が可愛くて、けれど性格は控えめで大人しい。そんな奥ゆかしい彼女が、永遠は大好きだった。その早紀が、ゆっくりと上半身を引き起こし、くるくると辺りを見渡している。それはまるで、誰にも見られていないことを確認するかのような動作だった。
(早紀ちゃん、どうしたんだろ。トイレかな? ひとりじゃ怖いのかも)
 ついて行こうか。そう声をかけようとして、永遠は息を呑んだ。早紀が立ち上がり、歩いていった先には、いつの間にか警備員の男の姿があった。細く長い腕が、優しい手つきで早紀の肩に触れた時、永遠は見てはいけないものを見てしまったと瞬時に悟った。あれが、あの男の躾なのだろうか。本当に、こんな事が許されていいのか。二人が扉の向こうへ行ってしまった後、早紀の声はほとんど聞こえなかったけれど、時折小さくすすり泣いているような音が聞こえた気がした。


「早紀ちゃん」
「…………」
「何があったの」
「…………」
「助けたいと、思ってるんだ」
「…………」
「ね、早紀ちゃん、教えて」

『教えて』


 声が喉を通る瞬間、言葉は不思議な熱を帯びた。それが、永遠が異能に覚醒した瞬間だった。ずっと蹲って顔を伏せていた早紀は、ゆっくりと顔を上げて泣きそうな目で永遠を見た。
「助けて」
 絞り出すような声に、永遠は震える拳を握りしめて頷いた。
「大丈夫、絶対に助ける」

 その日の夜、永遠は施設長の部屋からこっそりとビデオカメラを盗み出し、男が早紀を連れ出す一連の流れをカメラに収めた。男が早紀に手をかける瞬間、物陰から飛び出した永遠は、手に持っていたカメラを突き出した。
「お前……」
 突然現れた永遠に、男は一瞬目を丸くしたが、すぐに嘲笑うような顔で唇の端をあげた。
「こんな夜中に、勝手に出歩いちゃ駄目じゃないか。それに、そのカメラは施設長さんの者だろ? 勝手に持ち出すなんて、言いつけないとな」
「……早紀ちゃんを離せよ。それで、一生近づかないって言え。そうじゃないと、これを大人に渡すから」
「施設長夫妻に渡したところで無駄だ。罰されるのは、俺じゃなくてお前だよ」
「違う」
 永遠は、唇を噛み締めて、まるで銃口を突きつけるようにカメラを持った手を前に出す。
「施設長じゃない。明日、学校の先生に渡す」
「……!」
 その途端、男は強い憎悪の籠った目で永遠を睨みつけた。そして、早紀には目もくれず、カメラを奪い取ろうと永遠に手を伸ばす。早紀の体が自由になった瞬間を永遠は見逃さなかった。
「早紀ちゃん! 早く逃げて!」
「でも……」
「僕は大丈夫だから!」
 永遠は間髪入れずに叫んだ。万が一のことがあれば、早紀にも使ったこの力で、男を操ればいい。永遠の狂いの無い眼差しを見て、早紀は目に涙を浮かべながらも、くるりと背を向けて走って行った。後は、この男を撒けば大丈夫だ。早紀が出ていった扉の向こうを見つめながら、そう思った矢先、男の手が永遠の手首をがっしりと掴んだ。
「いっ……!」
「はは、ようやく捕まえた。駄目だろ、こんな事しちゃ」
 乾いた笑い声が上から降ってくる。生暖かい息が頬にかかる程近づき、永遠は咄嗟に飛び出そうになった悲鳴を必死でこらえた。大丈夫。早紀にやったように、心の底から願えば、男の心に声を届ければ、思いのままに動かせる。
 筈だったのに。
 突然、ぶわっと花のような甘い香りが辺りを覆った。それが、自分自身から発せられた物だという事、そして、一定の量を超え暴走しだした力は相手を永遠自身に強く引き付け、絶対に止められないと気がついた時には、もう遅かった。暗闇に、新たな獲物を見つけた狼の目が光っている。
「分かったよ。あの子は逃がしてやる。……代わりに、次の生贄はお前にしようか」
 施設長に向けていた人の良さそうな顔で、男はにこりと目を細める。もう逃げられない。恐怖に体が竦み、唇が震える。けれど、不思議と後悔はしていなかった。この恐ろしい男を自身に魅了させ、あの子を彼から引き離すことが出来るのならば、これくらい、ほんの些細なことに過ぎない。大丈夫、辛くは無い。苦しくも無い。だって、これが正義なはずだから。
 こんな時、良くやったと頭を撫でてくれた人はもういないけど、あの子の泣き顔を消し去る為にも、一人でも頑張って耐え抜いて見せるんだ。毎夜毎夜、何度溺れても。

 永遠が命から話しかけられるようになったのは、彼が人知れずそんな決意を固めた折だった。

──────────

「お前、最近元気なくね」
 傷だらけの少年がそう言ってこちらを覗き込む。その生意気な顔を、永遠はよく知っていた。萎縮した子どもたちの中で、彼だけが施設長達に歯向かい、その度に殴られているのを、嫌という程に見てきたからだ。
「みことくん」
「お前オレの名前知ってたんだ。いっつも女と一緒だから、男は嫌いなのかと思ってた」
「……知ってるよ。話したことあるじゃん」
「そうだっけ」
 首を捻る命は、本当に永遠と話したり、遊んだりした幼年期の事を、あまり良く覚えていないようだった。一度や二度の話ではなかったのだけれど、と呆れ気味に伝えると、命は困ったように歯を見せて笑う。
「オレバカだからすぐ忘れちゃうんだ」
「そうなんだ。じゃあなんで、よく知りもしない僕に話しかけようと思ったの?」
「なんでって……お前、オレと同じ感じがしたから。超能力者? だろ?」
 右手をパタパタと動かして、命は別段取り繕う様子もなく呟いた。ジェスチャーの意味は分からなかったが、隠してきたはずの力の存在を言い当てられてしまったことに驚きを隠せなかった。目をぱちぱちと瞬かせ、真っ直ぐに命を見上げる永遠を見て、命は真夏の太陽のような笑顔を浮かべた。
「やっぱりな! うまく言えねぇけど、声を聞いた時の感じ方が、他の奴と全然違ぇもん」
 だから仲良くしようと、なんの根拠も無い手のひらが差し出される。本能のままで動いているような、とんでもない馬鹿が現れたものだと思った。けれど永遠は、何者にも怯えない強い手を握り返すことを選んだ。そして、覚悟を決めた。
 永遠が男にされていることを、命は神妙な顔つきで聞いていた。時折言葉を濁すと、首を傾げながらもそれ以上深くは聞いてこなかった。きっと、聞いても彼の頭では理解出来なかっただろうけど。そうして詰め込めるだけ事の顛末を咀嚼した命は、案の定馬鹿みたいに憤った。許せねぇ、と燃えるような目で何度も呟いていた。
「あいつ、早紀や永遠から離れても、今度は年下のヤツらに同じことをするかもしれねぇ。もしかしたら、これまでにも沢山の子どもを泣かせてきたのかもしれねぇ。……だから今、復讐するんだ。あの男にも……この施設にも」
 命は、真っ直ぐに永遠の目を見ていた。こんな事は初めてだった。初めて、自分だけを見てくれる人が出来た。それはまるで漫画の中のヒーローや、救世主のようで。あの日の早紀も、こんな気持ちでいてくれただろうか。そうだとしたら、やはりあの時動いていたことは間違いではなかった。永遠は心の片隅でそう思うと、深く頷いた。
「分かった。やろう、復讐。…………あいつを、殺したい」
 これが本音だったのか、と永遠はどこか他人事のように衝撃を受ける。けれど、自己犠牲に流されているだけでは、屈しているだけでは、全ての元凶に何の罰も与えられない。それは勇敢な行為かもしれないけれど、愛の力で美化されることでは決して無いと、命は永遠にそう教えてくれた。
「決まりだな。約束だからな」
「うん、約束だね、みこ」
 お決まりの一節を口ずさみながら、小指を絡め合う。指を離した後「なんだその呼び方」と呟いた命の顔が、驚くほど間抜けに見えたことは、これから先も言わないでおこう。


「え、早紀ちゃんにも声かけたの!?」
「たりめーだろ。最初の被害者じゃん」
「いや、でも、あの子にこれ以上何かさせるのは……」
「本人がやりたいって言ったんだよ」
 驚きで声も出ない永遠の目の前に、穏やかな顔の少女が姿を現した。少女──早紀は、永遠と目が合うと、困ったようにはにかんだ。
「命くんから、聞いたの。あの後、全部上手くいったって言ってたけど、それは私を心配させない為だったんだね。本当は、永遠くんが私の身代わりになっていたんだね」
 「ごめんね」と小さく呟く声、そして「ありがとう」と泣きそうな顔で。彼女の声には力なんて無いけれど、それでも、感謝の音は永遠の心に強く強く響いていた。この子のためなら、何だってしたくなる。その気持ちはずっと途絶えることは無かった。彼女が共に歩んでくれると言うならば、永遠は喜んで手を伸ばす。
「早紀ちゃんも、よろしく」
「絶対に、永遠くんのことも助けるよ」
 取り合った手はあたたかく、男のあの冷たい感触を上書きしてくれているようだった。ちらりと命の方を見ると、彼はその顔に似合わぬ、やけに大人びた顔で微笑んでいた。
「作戦開始だな」
 命は、二人が繋いだ手の上にそっと自身の掌を重ねると、厳かにそう呟いた。

──────────

【復讐─序─】

 炎。

 燃ゆる。

 包む。

 崩れる。

「何を画策してるのか知らないけど、あの子なら今日、里親に引き取られていったよ」

 勝ち誇った笑み。

「これでお前はもう、何も出来ないね」

 埋められた外堀。

 甘い声。

 気持ちが悪い。

 殺したい。

「どうしよう、急に、施設長さんが」

 あの子は潔白だ。

「里親のお母さんは何も悪くないの。私と、本当の家族になりたいって」

 むしろ、安堵していた。

 これであの子は、手を汚さずに済むよ。

「私、あの人のところに行かなくちゃ。ごめんね、約束、守れなくてごめんね」

 良いんだよ。思い悩まないで、

 幸せに、なって。

 だから僕らのことは、

 約束のことは、

 あの男のことは、

 『忘れてね』

 僕らは二人で背負って往くよ。

 だいじょうぶ。

 どんなに辛くても、

 今度は一人じゃないから。

【復讐─終─】

──────────

 命の力の限度を、永遠は知らない。嘲笑するような顔で次々に施設の部屋を燃やしていく。子ども達はとっくに避難させていた。別邸に暮らす施設長夫妻への罰は、翌朝何も無い焼け跡を見て絶望するくらいで丁度いい。
 そうして最後に残された男だけが、広々とした施設に閉じ込められていた。逃げようと戸惑う影を囲うように、炎は力を増していく。やがて男は袋小路に追い込まれ、逃げ場を失い煙を吸い込んだ。ふらふらと倒れゆく男の姿を見たその時、永遠の内側から、ぞわ、と快楽に似た感情がせり上がってきた。自分でも、どうしてこんなに嬉しいのか分からない。例え憎く殺したい相手だったとしても、いざそんな状況になれば、哀れみや恐怖が襲ってくるのでは無かったか。
「そんなわけねぇだろ」
 永遠の心を読み取ったように、命が静かに呟いた。その目には、もう男も施設も映っていなかった。ただただ、自身の力を最大限に見せつけることに悦びを覚えた顔だけがそこにあった。男が肺を犯され、地面に倒れ伏し、息が止まり、体が燃え盛る順に、ぐわっと血が沸騰するような。永遠は、命から離れると、男が倒れた部屋へとふらふら歩いていった。天井も窓枠もとっくに燃え、床だけが残った部屋を、外から鑑賞してみる。
 男の顔は、もう原型を留めてすらいない。焼けて灰になるにはまだ少し早い、と言ったところか。
「はは……こんなの、やっぱり早紀ちゃんには見せられないや」
 化け物みたいだ。さて、一体、どちらが? 時雨命は、こんなに取り乱すような人間だったかな? まるで何かに操られているみたいだな。

『教えて』
『忘れてね』

 一番初めを間違えなければ、永遠は誰だって操る事が出来る。力を使ったのは、この二つと、それからもうひとつ。

『約束だね』

 命は優しい子だから、けっして全てを焼き尽くすなんてことはしなかった筈だ。けれど、それは永遠が許さなかった。今目の前にある惨劇は、永遠が望んだセカイ。大切な命を利用して、掴んだ勝利。

「終わったね」
「……これからは、二人で生きていかなきゃな」

 朝日が昇る頃、二人の少年が、広々とした焼け跡の前ですやすやと眠っていた。その様子を、ヴェールを被った女が一人、影からそっと見つめていた。
「施設を全焼させるほどの力を持つ者と、それを操る者ですか」
 女は恍惚そうな声色で呟くと、焼け跡の方へと歩いていく。辛うじて人の形を保っていた死体は、いつの間にか消え失せていた。
「死んだばかりの肉体は【略奪者】の良い餌になるようですね」
 そう言うと、女はくるりと踵を返し、薄いもやの中へと消えていった。

bottom of page