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​第8楽章「つばさ」

 物心ついた頃から、両親の仲は既に冷めきっていた。薄氷を踏むような日常を過ごすうち、二人の間に溝を作ったのは他でもない翼自身であると、幼いながらに敏感だった彼はそう理解してしまった。
 数多の教養・芸術をもってして、英才教育という名の枷で翼を縛り付けようとする父。翼の選択を尊重すべきと鳥籠の鍵を盗み出した母。どちらの愛も、最初は真っ直ぐで美しい愛であった筈なのに。どこで間違ってしまったのだろう、いつの間にか、父の愛は傲慢へとすり変わってしまった。思い通りにならないと母にあたるようになってしまった父の姿を見て、ずっと二人の中心で揺れていた翼の心は母の方へと傾いた。
 それから後は、今までとは何もかも違う日々が始まった。大きな家から別離して、ひっそりと、世界の片隅で暮らしていた。父の庇護下にいた時のような、豪華で不自由ない暮らしは出来なかったけれど、母の笑顔は一段と輝いていた。さながら、雨上がりの青空のような、雲間から差し込んだ陽光のような、そんな柔らかい美しさを、翼は知り始めていた。
 このまま、二人きりで平穏に暮らせたら。『高価な宝石や綺麗な洋服は要らないわ。そんなものは、純粋な心の前ではかえって見劣りするだけ』。詩のような母の口癖を、具現化したような日々。ああ、それだけで、良かったのに。

 周囲に根付いた雑草は、地中で根に絡まり、可憐な花を徐々に枯らしてゆく。持ち物だけが洗練された美しく若い女が、幼い少年を連れて小さなアパートに暮らしている。このちぐはぐな世界を世間が放っておくわけが無かった。周囲の真実とも分からぬ無責任な噂話。笑顔を張りつけやってくる、父方の親戚達。翼に対しては優しく接してくれる彼等は、母に対しては冷たい視線を浴びせるばかりだった。その恐ろしい二面性が、在りし日の父の姿と重なった。
 浮いてしまった美しさは、いくらそれが輝いていようと、正義では無いのだ。翼の事を誇らしく思っているのは愛する母だけで、大多数の人間の目に映る翼は、いつだって『可哀想な子ども』。そして母は『悪』だった。

「翼。あなたは、これを持って警察に行きなさい。……お父さんに通じる電話番号が書いてあるわ」

 

 暗い部屋の中、ナイフの刃だけが怪しげに光る。震える手で紙切れを差し出す母の手を、翼は言葉を失ったまま凝視していた。
「母さん、何、するつもりなの……」
「お母さんが……いなくなれば、お金が出るわ。そのお金は将来の為に貯めて、お父さんの家で暮らしなさい」
 母は、翼の問いに答えを返してはくれなかった。だが、全ての要素が揃ってしまった舞台の上で、そこから先のシナリオは容易に想像がついてしまう。翼は唇を噛み締めて、泣きそうな顔で首を振った。
「嫌だ。一緒にいる」
「翼……お願いだから。このまま私といたら、あなたは一生誤解されてしまうでしょう。あなたを解き放ったつもりだったのに、私は結局、あの人のようにあなたを縛り付けてしまっていた」
「……そんな事言わないで。そんなの正しくないよ。僕の家はずっとここで、僕の家族は母さんだけだよ。母さんが働いている間は家の事は全部やっておくし、わがままも絶対に言わない……から、一緒に、いたいよ」
 母の言葉に逆らうのは、これが初めてだった。翼の全てを形成していった、詩のようなあの言葉の数々が好きだった。けれども今は、そんな母の口から漏れる言葉に、頷く気にはなれなかった。切羽詰まった様子で必死に説得する翼を見て、母は一瞬瞳を潤ませる。彼女も、理屈ではきっと分かっているのだ。これが、最前の結末ではないと。けれど、愛する子を本当の意味で解き放つ為には、彼をエゴが渦巻く狭い夢の中に溺れ続けているわけにはいかなかった。
「今から私がする事は、美談でもなんでもないわ、翼。きっと間違っていて、とても醜い道よ。……あなたに、美しく、正しく在りなさいと言った身で、本当にごめんなさい。でも、それでも私は、あなたの事を、守り抜くつもりよ」
 翼と良く似た瞳が、真っ直ぐに彼の目を捉える。もう、何を言っても彼女には通じないと、様々か感情が渦巻く胸の中で強く確信した。あぁ、それならば。
「……ついていくよ」
「え……?」
「今母さんは、やっぱり間違ってる。でも、大好きなんだ。だから、いなくなっちゃうなら、僕も、一緒がいいよ」
「何を言ってるの……あなたは……!」
「お願い、一人にしないで」

 声は叶った。得体の知れぬ力が成就する様を、彼女は見た。重力に逆らって、引き寄せられるように右手が動く。声をあげる間もなく、右手の先にあったナイフが、あたたかな身体を貫いた。
「つば、さ……?」
「……ごめんなさい」
 小さく掠れた声が聞こえ、辺りには静寂が訪れた。血塗れたナイフと、倒れたまま動かない息子の姿。何が起こったのか、理解出来なかった。力の抜けた手からナイフが滑り落ち、カランと無機質な音を立てて地面に転がった。

──────────

「この子、まさか、自分で…………」

「今なら、助けられる。……けれど、一人生き残ったらきっとこの子は、罪の意識に苛まれてしまう」

 

「一瞬だって影を落としたくない。心身共に健やかにあって欲しいの」

 

「この子の記憶に、全ては私の責任だと伝えるわ」

 

「聞こえている、翼? ……『翼、ごめんね。顔だけは傷つけないからね』」

 

 

 

「私の事は忘れて、大空を目指してゆきなさい」

 

 偉大なる母の掌の中は、優しく密やかな嘘で包み込まれた。最期まで繊細で豊かな心を持ち続けようとした彼女のセカイは、その後静かに幕を閉じた。

──────────

 ゆらゆらと朧気な記憶の中で、最初に思い出したのは、母の膝の上でテレビの画面を見つめていた時の事。少女だった頃の母が、綺麗なスカートを翻し、画面の中で楽しそうに踊っていた。
「あれは、母さんなの?」
「そうよ。高校生の頃の私。バレエをしていたの。母さんね、小さい頃は、バレリーナになるのが夢だったのよ」
「ほんと? なんで辞めちゃったの?」
「……踊っている時に、怪我をしてしまってね。それから直ぐにお父さんと出会って、結婚して、いつの間にか、すっかり離れてしまっていたのよ」
 俯いて、少し寂しそうに語る母。その顔を見て、翼は小さな手を白い天井へと思い切り伸ばした。
「じゃあね、ボクが踊ってあげる。ステージで踊って歌うの」
「あら、本当? でも、バレリーナは歌わないのよ。……翼のやりたいことは、もしかして、アイドルかしら?」
 翼はきょとんと首を傾げる。そして、その言葉の意味もまだよく分かっていないだろうに、やけに自信満々に頷いた。
「うん! ボク、アイドルになるよ!」
「ふふ、頑張ってね。一番近くで応援するわ」
 うきうきと揺れる小さな腕を見つめ、彼女はそっと翼の体を抱きしめた。あたたかくて、陽だまりの中にいるみたい。この子は今、小さな手を精一杯伸ばして、未来を掴もうとしている。

 

「あなたはどこまでも羽ばたいていける。だって、あなたは美しい、私の大切な子だもの」

 

 何気なく呟いた言葉は、ずっとずっと、翼の心に残り続けている。

 

──────────

 生ぬるい風が木々を抜けていく。遠くから聞こえていた喧騒や【略奪者】の呻き声は、いつの間にかぴたりと止んでしまっていた。小さく息を漏らすと、翼はそっと天を覆う葉を仰ぎ見る。
「死んでしまっても尚、ずっと守られてたんだって思い出したんだ。母さんはボクを殺せるような人じゃなかった。……錯乱してた記憶が少しづつ戻ってくる度に、生き残ったのがボクで良かったのか、今のボクには母さんの命を犠牲にしただけの価値があったのかって、考えてしまうんだ」
 宙をさまようように、行くあてもなく飛び出した言葉は、答えを求めているわけでは無いようだった。ただ、今まで彼の地盤となっていたその自信が、微かに揺れ始めているという事は、永遠にも光希にも理解出来た。
「トラウマがきっかけで、力が生まれた……。つーちゃん、みこと同じだね」
「え……?」
 目を丸くした翼を見て、永遠は何処と無く後ろめたそうに苦笑した。
「僕らは施設育ちだったんだけど……僕達が施設を抜け出したきっかけは、みこの力の暴走が原因だったんだよ」
「そうだったの?」
「うん」
 永遠は首を降ると、真っ直ぐに翼の目を見た。少し寂しそうな笑顔で、けれども、はっきりとした声の輪郭を保って、永遠は言った。
「僕らにはお互いしかいなくて、頼れる大人なんて居なくて、それだから逃げてきちゃったけどさ、つーちゃんはそうじゃなかったでしょ? 守られていた事を思い出したなら、今から返してあげれば良くない?」
「返すって……どうやって? 母さんはもう居ないし……」
「分かってないなぁ!」
 おもむろに手を伸ばし、翼の頬を両手で挟むと、永遠は光希の方へと彼の顔を動かした。
「お母さんがしてくれたみたいに、今までつーちゃんが貰ってきたもの、可愛い後輩くんにプレゼントすれば良いんだよ」
 開けた視界の先に映ったのは、まだ小さくて周りに飲まれてしまいそうな少年の姿。それが、母を失って泣いていた在りし日の自分と重なった。もしあの時をやり直せたら、他にも道があったはずでは無いのか、そんな風に後ろを振り返ってばかりでいた翼の耳に、大空を目指してゆけと言ったあの声が蘇る。

 

(母さんは、美しいボクの光で、唯一の道標。……でも今は、それが正しいとは思わない。一方的に守るだけじゃなくて、僕は、もっと違った繋がりを持ちたい)

 

 翼はゆっくり立ち上がり、その手を差し出す。青空と同じ色の瞳が、木漏れ日に反射して煌めく。
「それじゃあ一緒に歩いていこう。ボクもまだ飛び立てていないから」
 共に。空を目指していこう。母よりも叙情的では無いかもしれない、地道で泥臭くて、澄んだ大気とは縁遠い世界。けれど、もし母が今の彼を見てくれていたなら、それもまた美しいと、背中を押してくれるのではないだろうか。
「僕、ちゃんと成長できるでしょうか?」
「もちろん。これから一緒に羽ばたいていくんだよ」
 ぎゅっと体を寄せ合って、どちらからともなく微笑みを交わす。その様子を後ろから見ていた永遠は、いつぞやのようにぴょこりと髪を揺らしながら、満足そうに目を細めた。すると、彼の後ろから聞きなれた三つの声が覆い被さってきた。
「お前らも終わったか。オレ達んとこのも消滅したぜ」
「そっちにいたの、一番弱い敵だったのに、随分手間どってたんだね」
「そう言ってやるな、紫乃。……さっき京からも連絡が来た。向こうも無事に任務を遂行したようだぞ」
 ボロボロになっていた永遠達三人に比べ、やってきた命、紫乃、郁の装備は殆ど汚れていない。彼らにとってみれば、今回の戦闘は大したものでは無かったらしい。だが、爽やかに去って行く三人は、永遠の目にはどうにも霞んで見え、反対に、汚れ必死になっていた筈の翼達に引き寄せられる。二つの陣営を交互に見渡していた永遠は、やがてによっと口元を歪めると、勢いよく翼の肩を叩いた。
「いった……何するの!」
「んふふ、分かっちゃった僕」
「……な、何が?」
「つーちゃんやっぱり、とびきりびゅーてぃふぉーだね!」
 命を追って駆け出していく永遠の背中を見送りながら、翼は首を傾げる。
「だから、結局何だったの……」
 疑問ばかりが頭に残り、一人ニヤついている永遠を問いつめたい衝動に駆られる。だが、それは先程までのじっとりとした焦燥・罪悪感とは全く異なっていて、はぐらかされたはずなのに何故だか悪い気はしなかった。
「仕方ないなぁ。ボクの美貌に免じて許してあげようか」
 踏みしめた地面は固く地面に根ざし、不格好ながらも強く木々を支えている。そこに芽生え始めたばかりの小さな花が、陽光に照らされ、一際輝いていた。そして光に透かされた花弁は揺れる。まるで、歩き出した彼に向かって、頑張れ、と囁いているかのように。

 

──────────

 

 寝苦しさで目が覚めた。まだ初夏の頃だと言うのに、じわじわと暑い。いや、熱い。本来ならば、そこにあってばならない種類の熱を感じとった体は、汗でびっしょりと濡れている筈なのに、嫌にカラカラと乾いていた。
「……何か、飲も」
 沈む体を無理やり起こし、ぺたぺたとキッチンまで歩いていく。暗闇の中にぼうっと光る冷蔵庫の照明と、不気味に響くモーター音を感じながら、ペットボトルの水を一気にあおった。
「あと一年耐えれば、大丈夫。真面目に戦ってさえいれば……死なずにいれば……生きてここを出られれば、僕らは」
 唇から僅かにこぼれた滴を拭い、静かに目を閉じる。
「自由だ」
 その言葉の重みを、魂を預けた感覚を、彼の胸にもひしと伸し掛る罪悪感を、全て受け止めた上で、押し殺す。
「僕だってびゅーてぃふぉーじゃなきゃね」
 そう言って軽やかにくるりと踵を返すと、小さな影は真っ暗闇の中に消えていった。

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