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​第6楽章「残り香」

「あなたはどこまでも羽ばたいていける。だって、あなたは美しい、私の大切な子だもの」

 まるで詩を謳うかのように抒情的に、長い指は滑らかに、翼の頬を撫でる。物語の世界から飛び出して、永遠に少女のままだった母の声が耳に心地よい。翼のセカイはそこから始まった。そして、そこで全てが閉じられていた。

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 聞きなれたアラームの音がして、意識がゆっくりと浮上する。カーテンの隙間から差し込む真っ白な光を眺めながら、夢うつつの中で瞬く目を擦りかけて、翼は慌てて手を止めた。寝起きの目をそのまま擦れば肌が荒れてしまう。眠気覚ましに顔を洗いに行くのが最優先だ。水道から勢いよく湧き出た水でしっかりと洗顔をする。たかが一日のスキンケアひとつ、されど毎日の積み重ねが大切だ。決して手を抜くこと無く、シルクの布に触れるように優しく顔を整える。ふと、鏡の中の自分と目が合った。ぱっちりと丸く、晴れ渡った空のように鮮明な青が、こちらを見つめている。
「……ふふ、おはよう」
 にっこりと微笑み返してみれば、鏡の中の彼も愛らしく目を細めた。その完璧な表情に、翼は満足して頷く。そのまま、洗面台にやって来た時とは対照的な軽々とした足取りで、共有スペースの反対側にあるもう一つの部屋へと向かっていった。
「統也、朝だよ。そろそろ起きて」
 丁寧に整頓された翼の部屋とは違い、そこはありとあらゆる物が乱雑する荒れた海が出来上がっていた。黒光りする表紙の分厚い本に、ばらまかれたタロットカード、何かの羽、不思議な色の石、空になった香水の瓶……その他得体の知れない物たちが、夢の世界から帰ってこない主を取り巻いていた。翼は思わず顔をひきつらせると、足の踏み場を探りながら部屋の端にあるベッドへと向かう。白い布団を勢いよく引っ張り、主を引きずり出した。
「またこんなに散らかってる! この前の休みの日に一緒に掃除したのに」
「……ん? 新たなる呪いを授けてくれるのか?」
「言ってない!」
 部屋の散らかり様をそのまま髪型に表したかのような無造作な紫がひょっこりと現れる。寝ぼけながらも起きてきた統也は、むにゃむにゃと意味不明なことを呟きながら、共有スペースへと歩いていく。寝ぼけ眼である筈なのに、きちんと物の隙間を練って歩けているのが妙だった。
「……果実の命をもらおうか」
「林檎ジュースなら冷蔵庫にあるよ」
「氷の間と呼ばんか……!」
「あー、はいはい。もうそれでいいよ」
 統也の作り上げる【個性】は、他の追随を許さない。己だけの独特な空間を確立してしまっている。キャラ作りだとか、態度を変えるだとか、最早その次元ではない。夜月統也は言葉通り魔王だった。一緒に暮らしていれば、いつか素の姿を現す時が来るのではと思い続けて早二年。その間彼がぼろを出すことはただの一度も無く、代わりに生まれたのは、彼の言葉を瞬時に理解出来てしまうようになった翼だけだった。統也ではなく、翼の方が彼に変えられてしまったのである。
(統也のこの癖、少し羨ましいな……。これで身嗜みに気が回るとより美しいんだけど)
 ぼやけた顔でジュースを飲んでいる統也を見つめながら、翼はふっと微笑んで呟いた。
「統也、洗面台で髪を直してきたら。そんなボサボサな頭じゃお客さん帰っちゃう」
「む? ……そうだな、これでは下界の者にはオーラが強すぎる」
 はねた髪を撫で付けながら、統也がこちらを向き、にやっと口角をあげる。満月のようにキラリと光る瞳が、面白そうに細められた。
「お前も気合いを入れろよ。今日は晴れ舞台だ」
「勿論、誰に言ってんの」
 だって今日は、新生spiritoデビューライブの日。完璧に整えられた舞台の上で、輝かないなんて選択肢は無い。笑えない自分なんて許せない。あんな夢を見たからと言って、現実は待ってくれない。
(……そうでしょ? 母さん)
 統也は洗面台の前で楽しそうに寝癖を直している。それを邪魔しないように、翼は自身の寝室に移動すると、机からそっと折りたたみ式の手鏡を取り出した。とても、十二歳の少年が使っているとは思えない、淡い桃色の花をあしらった手鏡。深呼吸をしそっと蓋を開くと、そこには在りし日の母が残した花の香りが漂っていた。
「母さん、行ってきます」
 翼が微笑めば、鏡の向こうの顔も微笑む。長く揺蕩う髪を揺らしながら、優しげな瞳で。小さな箱庭の中、母はいつもそこに居た。

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「きゃ~ん! ついに光希くんもデビュー! デビューよ~!」
 控え室の中、両手を握りしめて、理沙子は嬉しそうにその言葉を繰り返す。そのあまりの騒がしさに、扉付近で歌詞を暗唱していた紫乃は、眉をひそめて小さく舌打ちをした。
「理沙子さん、うるさい。黙って」
「紫乃くん、ツン度100パーセントだわ! でも、そういう所も可愛い~!」
 しかしその牽制は逆効果だったようだ。理沙子に抱きつかれ、必死で悲鳴をあげる紫乃。京と郁が慌てて止めに入り、少し離れたところから永遠が「いいなー」と頬杖をついている。その様子を横目に見ながら、翼は隅でステップの確認をしている光希に話しかける事にした。
「光希くん、緊張してなさそうだね」
「翼さん! はい、僕は平気です! むしろ、とってもわくわくしてるくらい」
 愛らしい顔で光希が答える。てっきり緊張で固まっているとばかり思っていた翼は、暫しの間目を瞬かせたが、すぐに表情を和らげた。
「そうだね。ボクら、こっちの方が性に合ってるもん」
 真っ白な床に視線を落として、そっと呟く。その様子に、光希は不思議そうに首を傾げた。
「こっち?」
「……何でもないよ。さ、そろそろ開幕だよ」
 陰りのある表情は美しくない。翼はパッと顔を上げると、何事も無かったかのように立ち上がった。光希に向かって、右手を長く伸ばす。
「ボクの輝きに負けないように、皆の記憶に残り続けるんだよ」
「……! 勿論です」
 眩しいくらいに目の前が明るい。繋いだ手の反対側は、光に溢れていた。いつもの翼なら、それに触発されて闘志を燃やす所だろう。だが、繋いでいない方の左手はやけに冷たく、不安定な空気を掴んでいた。
 今、ステージの幕が上がる。

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