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第21楽章『act.1770→1862』

 鈴の音は去り夜が明けた。真っ白な静寂の雪は、ここヴィクトリア少年音楽学園にも例外なく降り積もり、建物の外に出るだけでも億劫になるような毎日が続いている。当然、戦闘ともなれば余計に上手く動く事が出来ないのは明白だった。日々死傷者が増えてゆく現状。そして、皆で学園から逃げ出す為の、作戦という名の爆弾。その両方を抱えた心は、十歳の少年にとっては些か重すぎたようだ。
 その日も、光希は鬱々とした足取りで寮の談話室へと向かっていた。今はまだ、午後三時を回ったばかり。この時間帯ならば、上級生はまだ授業中だ。一時間ほどなら、先輩たちと出会う事も無く休めるだろう。そう思い、ゆっくりと階段を踏みしめる。光希はとにかく一人になりたかった。一人になって、この疲れた顔をどうにか取り繕いたかった。まだ何も出来ない自分が、いつも足を引っ張ってしまう自分が、これ以上甘やかされることなんて、許されていいはずがない。幼心に宿った矜持が、暗闇でふつふつと煮え滾る。『守るから、頼って、仕方ない』。厚意と情から寄せられたそれ等の言葉を聞く度に、光希は温かさと苦しさで胸がいっぱいになっていた。皆がくれる気遣いは、嬉しい。でも、それに安穏と甘える自分のことが、どうしても好きになれなかったのだ。光希だって、世界の真実を知っている【救世主】の一人だ。僕の事もちゃんと当事者にして欲しい。そんな思いが、ずっと胸の中で渦巻いていた。守られるだけじゃない、守れる人間になる為に。本当に意味で、誰かを救えるように。
(​──もっと、頑張らなきゃ。)
 段を踏みしめるごとに、瞳に灯ってゆくものがあった。それは自然光ではない、人工的な光だったけれど、彼が進んで行くためには必要な光だった。
 光希は、しっかりとした足取りで最後の一段を登りきる。息を吐いてすっと目を開く。しかし、そこで一度彼の動きは止まった。引き上がった瞼は、年相応の動きで、呆気に取られたように何度か瞬いた。彼の視線の先には、今、そこに居るはずの無い人物が悠々と腰かけていたのだ。視線が合うと、その人物は片方しか見えない目をくいっと釣り上げて、ヒラヒラと片手を振った。
「よ、あんま頑張りすぎんなよ、お坊ちゃん」
 まるで光希の決意を見透かしたように、紅の眼光で嘲笑う少年が、そこには居た。

​──────────

 深くソファに腰掛けた命は、品定めをするかのように光希を見つめている。可愛らしい顔とは裏腹に、その歳に似使わない大人びた考えをするこの少年のことが、命の心には何処か引っかかっていた。
「座れよ」
 もう一度声をかけると、光希はハッと我に返ったように肩を揺らし、おずおずと命の対面に座った。怯えたような、それでいて純真なその目付きを見ると、命はいつも訳もなくイライラする。彼がやってきてから、ずっとそうだった。光希を攻撃したあの日から、命は光希のことが嫌いだった。これは、希望を信じている人間の目だ。一人でなんでも抱え込もうとする人間の目だ。覚悟を貫きすぎるが故に、勢い余って全てを壊してしまう、そんな人間の目だ。
 光希は、かつての命自身と、とても良く似ていた。
「命さん、どうして、ここに」
 困惑を隠しきれていない幼い顔が、不安そうに揺らぎながらこちらに向けられている。命ははっきりと目視できる左目を細め、口の端を引き上げるようにして笑った。 
「サボり。勉強わかんねえから」
 当然だ、と言わんばかりに肩を竦めてみせる。その仕草に、光希の体から少しだけ力が抜けたのが分かった。命はその事に気がついたが、特に何も言わず、腕を組んで話を続ける。
「お前、最近疲れてるだろ」
 飾らず簡潔に、事実だけを見破った。彼の素っ気ない一言に、光希は初めこそ目を丸くしたものの、やがて目を伏せて頷いた。下手に否定したところで、この人相手には何も隠せやしないと、確かめるまでもなく、対峙する空気から分かってしまうのだ。もっと強がってみせるだろうとたかを括っていた命は、やけにあっさりとしたその態度に一瞬怪訝そうな顔をした。しかし、それなら好都合とばかりにすぐに光希の方へ身を乗り出す。
「強くなりてえなら、独りよがりな動きはすんなよ。お前みたいなのは、何も知らないとすぐ自分の正義に振り回されちまう。自分で自分をコントロールする力が必要なんだよ」
「コントロール……」
 自身の手をぎゅっと握り締めながら、命の台詞を復唱する。正義に振り回されるという言葉に、思わず背筋が伸びた。命は、ようやく自分の危うさに気がついたか、と呟くと、光希の前でおもむろに前髪をあげて見せる。目の前で、息を呑む音が聞こえた。それもその筈で、彼の前髪の下にはおぞましい秘密が隠されていた。額から頬に広がる黒々とした火傷の痕。切れ長の瞳を縦断する深い切り傷。その中に埋め込まれている右目は、形こそ保たれているものの、機能は崩れ去り一筋の光さえも映さない。おおよそ人とは思えない程に変形した素顔を晒し、命は自嘲気味に笑う。
「コントロール出来ないと、こうなる。……オレはお前の反面教師みてえなもんだ。ムカつくほどに、オレとお前は似てる」
 だから気に食わない。光希には届かないボリュームで、そう付け加える。何も知らない光希の、張り詰めた視線が命を貫く。命は小さく舌打ちをすると、バサリと前髪を降ろしてソファに深く座りなおした。未だ何も言わずに口を噤んでいる光希を一瞥し、ゆっくりとため息をはき出す。
「はっきり言わなきゃ分かんね? 一人で無理すんなってこと」
 呆れたような声が響いた瞬間、張り詰めていた光希の表情にふわっと灯りが点った。思わず顔を上げた光希の目は、命を受け入れるかのように光っている。
「そう、ですね。ありがとうございます」
 夜空に点滅する星の様な笑顔は、命が一番苦手なものである筈だった。けれど、それを目にした途端、何故か命の心には、恥ずかしさにも似たような温かな気持ちがよぎっていった。このままでは、この生温い少年に絆されてしまいそうだ。そうはなるものかと、命は笑顔のオーラを振り払うようにそっぽを向く。
「勘違いすんじゃねえぞ。お前の為じゃなくて、チームの為だからな。お前が良い子ちゃん振りかざして暴走したら、オレらが困んだろ」
 早口で捲したてるように言うと、命はわざと大きな音をたてて立ち上がり、通りすがりに光希の頭を撫で(どちらかと言えば、乱暴に揺す)ると、そそくさと部屋を出ていった。
「いたた……命さん、慰めてくれたってことで、良いのかな?」
 ぐしゃぐしゃになった髪の毛を整えながら、光希は命が去ったあとの扉を振り返る。その口元には自然と笑みが零れ、光希の周りは、肩の荷がおりた様な柔らかい安堵に包まれていた。
「大丈夫。僕は、僕に出来ることを頑張ろう」
 胸の奥に眠る、自分だけの力。今はまだ開花する前だけれど、いつか自分自身を信じてあげられるようになった時には、きっと──。
 光希は胸元に手を当てて、暫くの間ゆっくりと目を瞑る。そして、何かを決心したように小さく頷くと、来た時とは裏腹に軽々しい足取りで部屋を後にした。明るい方へと駆け出していく背中。その姿を、廊下の陰から少年が見つめている。
「【救世主】ね。オレたち、そんな聞こえのいいもんじゃねえのにな」
 少年──命は、一瞬だけ羨ましそうに瞳を歪ませると、光希とは反対側に向かって歩き出す。酷く安定しない歩みは、音と光を盗まれた体のせいか。それとも、心の奥底で燻っている、この身を焦がす怒りのせいか。
「……失くしたものを数えるのは、時間の無駄だな」
 乾いた笑いが薄く開いた唇から漏れる。過去を嘆いたとて、奪われたものは戻ってこない。命に出来るのは、これ以上何も奪わせ無いこと。
(光希も、永遠も、他の奴らも皆、【救世主】は皆俺が救う。そう、じいちゃんとも約束したんだから)
 歯を食いしばり、握りしめた拳で勢いよく壁を叩く。振動が腕を伝って身体に伝わり、全身が痺れる。
(あの女にかけられた呪いを解いて、オレたちは皆で逃げるんだ)
 白塗りの壁を睨みつける目。何も通さない筈のその右目には、鈍い炎の記憶が潜んでいた。

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