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小休止6『holy night, your knight.

 早乙女永遠について、いつから彼を認識していたのかと問われれば、はっきりあの時だと思い出すことが出来る。命がこの世に生まれついた時から、彼は大勢の孤児達と共に命の傍に居た。最初は、顔も名前も無いただの孤児のひとりだった。命が彼を彼だと捉えたのは、まだ前施設長が生きていた頃、ある冬の日のこと。空から降ってくる鈴の音を待ち焦がれ、顔が赤くなるのも気にせずに、玄関の階段に腰掛け歌っていた、彼を見た。
「寒いし、中に入ろうぜ」
 たどたどしく声をかけても、彼はまるで聞こえていないとばかりに歌うのをやめない。リズミカルに揺れるその背中は、確かに自分の世界に浸っていて、無視をされたわけでは無いということはすぐに分かった。けれど、彼が同じ人間である自分を差し置いて、サンタクロースなんて不確かな存在に心を奪われているのは、些か良い気分はしなかった。
「おい、聞いてんのかよ」
 乱暴にグイッと肩を引っつかむと、彼はようやく我に返ってゆっくりと振り返った。その顔は頬から鼻の先まで真っ赤な霜やけになっていて、大きな瞳は面白そうにこちらを見つめていた。
「一緒に歌おうよ」
 微笑みをたたえたユーモラスな口元から、親しげな声が発せられる。命はつかの間ドキリとして、それから所在なさげに目を逸らした。
「オレと歌っても楽しくないだろ」
 取り立てて仲が良いわけでもない。もしかしたら、彼は命の名前すらも知らないかもしれない。そんな関係なのだ。少なくとも、命は少しばかり躊躇っていた。しかし、彼はそんな事は関係ないと言わんばかりに勢いよく立ち上がると、命の腕を引いてその場に座らせた。玄関の屋根から少し突き出ているからか、外階段から空を見上げると、澄んだ天界と星が余すことなく瞳に映る。そして、その狭間からチラチラと降ってくる雪が、なんとも言えない麗しさを帯びていた。
「綺麗」
 白い息と共に、思わず口から漏れた言葉に、彼は笑って頷く。冷え始めた命の手を、毛糸の手袋に包まれた彼の手がそっと覆った。
「そうでしょ? それにね、あのね、聞いてみて」
 はしゃぎながらそう言うと、彼は目を閉じて闇夜に耳を済ませた。不思議に思いながらも、命も同じように目を閉じて、耳に神経を集中させてみる。そうしていると、施設の中で騒ぐ子供たちの声が、まるで靄がかかっていくかのように徐々に遠くなり、代わりに雪が地面に舞い落ちるしんしんという音だけが、純粋な心に響いてきた。そして──。

 遠くの空から、幾つもの鈴の音が、降ってきた。

「ね!聞こえたでしょ!」
 興奮気味に腕を掴む彼に、命も目を丸くしてこくこくと頷いた。確かに聞こえた。この耳に。
「ほんとにいたんだな」
「うん!」
 普段は挨拶も交わさぬような仲なのに、その小さな奇跡に二人してはしゃいで、笑いあった。きっと彼は、この日のことを覚えてはいないだろう。彼にとっては、聖夜の奇跡を分かち合うのは誰でも良く、それがたまたま命だったという話。けれど命は、彼の幸せそうな笑顔を、ずっと、ずっと忘れられないままだった。

 だから、彼の笑顔を枯らしてしまうような人間を、許す訳には行かなかったのだ。

───────────

「みことくん」
 顔を上げた彼は、声をかけてきた相手が命だと分かると、意外そうにたどたどしく名前を呼んだ。その目は、他の大多数の子供たちを見る目と何ら変わりは無くて、命は少しだけ安堵し、そして少しだけ寂しそうに笑った。
「お前、オレの名前知ってたんだ。いっつも女と一緒だから、男は嫌いなのかと思ってた」
 自嘲気味にそう言うと、彼は困ったように口元をあげて頬をかく。
「……知ってるよ。話したことあるじゃん」
 さらりと零された言葉に、今度は命の方が驚く番だった。彼は、命だけが覚えているとばかり思っていた小さなやり取りまで全て、命に話して聞かせた。そして最後に、クリスマスの日も、と付け加える。
「三年くらい前だっけ? 僕が外で歌ってたら、寒いから中入れよって声かけてくれてさ。そうそう、そこでサンタさんのそりがやってくる音を聞いたんだよね」
 懐かしそうに、そう締めくくる彼に、命はどう答えて良いか分からなかった。ただ、どうしようもないほどに膨れ上がった嬉しさを隠すように、「そうだっけ」と素っ気なく呟いた。彼は、特に傷ついた様子もなく、「そうだよー」と笑って返す。その仕草は、あの時とひとつも変わっていなくて。それを見た命は、微かに潤む目をそっと細めて、キラキラと輝く幸せな記憶を、心の奥にしまい込んだ。
「オレ、馬鹿だからすぐ忘れちゃうんだ」
 言葉の裏に隠した思い出は、誰も知らないセカイの中で、今も光り続けていた。命がその灯火を頼りに、彼の手を取って新たな物語を紡いだのは、それからすぐ後のことだった。

──────────

 今年も寮の外階段に、彼が座っている。生憎雪は降らなかったけれど、どこまでも続く星空は今年も顕在だ。命は特別声をかけることもなく彼の右側に腰掛けると、そっと空を見上げた。幼い頃は視界いっぱいに煌めいていた星々も、今ではもう、ぽつりぽつりとしか見えなくなっていたし、いくら耳を済ませても、魔法を連れてくるあの鈴の音は聞こえない。命が失った右側の世界は、命から美しい空間を奪って去っていった。それでも、命は幸せだった。
「どれくらい見える」
「たくさんだよ! すごくたくさん。何千? 何万? 何億? 数え切れないよ」
「今年も聞こえる?」
「聞こえるよ、嘘みたいだけど、ちゃんと鳴ってる」
「なら、良かった」
 呟く度に、吐息が昇って溶けていく。彼がいる限り、命の左側の世界は、鮮やかに色づいて浮かれた旋律を奏でる。五体満足の人間には、けっして手にすることの出来ない贈り物を、命は授けられていた。
「来年も再来年もその先もずーーっと、僕はみこと同じ景色を見るし、同じ音を聞くよ」
 そう言ってこちらを向いた彼の顔には、あの日と同じように無邪気な霜やけが出来ていた。不格好なはずのその姿は、何故だかずっとなりたかった正義のヒーローのように凛としていて。あの日と違うのは、彼から見た命も、彼に負けず劣らずその頬を燃やしていたということだけだった。
「あれ? 大丈夫? みこも霜やけ?」
「う、うるせぇな、あんまこっち見んなよ」
 マフラーに顔を埋めて俯いた命に、彼は一瞬不思議そうな顔をした後、何かを察したように「あ」と間抜けな声をあげると、命にならって黙り込んで下を向く。
 初々しく火を灯す二人の傍を、鈴の音を乗せた夜風が一陣、まるでくすくすと笑うかのように駆けていった。

 

 


「何? あの二人、喧嘩でもしたの?」
 窓の中からその様子を見ていた紫乃が、こんな日にまで……と呆れたように呟く。すると、部屋の中に何とも生暖かい空気が流れはじめた。
「喧嘩、では無いかな。むしろ、その、仲良くていいと思う」
「うーん……展開が遅すぎる……」
 どことなく煮え切らない返事をしつつそそくさと席を立つ京に、物足りなさそうに腕を組む翼。統也は紫乃の肩に手を置くと、晴れやかな笑顔で「お前はそれでいい」と、フォローになっているのかなっていないのかいまいち分からない言葉をかけた。
 その物言いに、何処と無く疎外感を覚えた紫乃は、不機嫌そうに口元を引き結ぶと、心の内で「意味分かんない」と零したのだった。

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