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第18楽章『カップの中身』

 三日前の朝やって来たきり、【彼】が姿を現さない。統也がそれに気がついたのは、そろそろ寝るかと寝床についた瞬間だった。【彼】は、物心ついた時から統也の中に居て、いつも統也に語りかけてくれていた。元々人見知りで臆病な性格の【彼】だから、滅多に表に出てくることは無いが、三日も存在を消していることは珍しい。統也はそっと上半身を起こすと、もうすっかり塞がった頭の傷跡に手を当てて、口を開いた。
「いるか……?」
『……いるよ』
 内側に向かって尋ねれば、答えは直ぐに返ってきた。しかし、その声はどこか不服そうで、出てくるのを拒んでいるようだった。どことなくよそよそしいその態度に、統也は訝しげに眉を顰める。
「どうしたんだ? いつもと違うな」
『考えごとしてた』
「考えごと?」
 こてんと首を傾げると【彼】が僅かに笑った。笑った、と言うよりは、嘲笑った、の方が正しいのだが。
「なんだその笑い方! 俺様を侮辱する気か?」
『まぁね。お前、本当になんにも考えないからなぁ。考えるのはおれ担当、動くのはお前担当』
 何処か達観したような空気を混ぜてため息をつくと、【彼】は寂しそうにそっと目を伏せた。声以外の【彼】の情報は分からないはずなのに、統也には直感的にそれが分かった。
『話しても、いい?』
 恐る恐る問いかけた【彼】に対し、統也が頷かないわけがなかった。
「魔王は眷属を丁重に扱うべきだ」
『何それ、馬鹿みてえ』
 大袈裟な台詞に、束の間乾いた笑い声をあげる【彼】。纏う雰囲気が、少しだけ軽くなったのを悟って統也は小さく微笑んだ。
「それで、何の話だ」
『単刀直入に言うと、あの子のこと』
「紫乃か」
『そう。……統也、あの子を守れるようになりたい?』
 息を呑む音が、しんとした部屋に響く。もちろん、と答えたかった筈なのに、上手く唇が動かない。長い沈黙が続いた。そして、やっとの事で答えようと唇を開いた時にはもう【彼】は姿を消していた。統也は、グッとシーツを握りしめ、唇を噛み締める。
 紫乃を守れるようになりたいか。もちろん、なりたい。けれど、その為にはもっと力が必要だ。あの日、それを悟った。もう三ヶ月も前の話だ。忘れもしない、暑い夏の日、【略奪者】から紫乃を庇った統也は、そのまま怪我を負って意識を失った。あの時は、稼いだ時間の間に、運良く命が駆けつけてくれたから助かったものの、もし命が来てくれなかったら、間に合わなかったら、二人とも死んでいたかもしれなかった。咄嗟には力も上手く使えず、紫乃を心配させるような方法でしか、守る為の行動が取れなかった。水に溶いた絵の具が水面に拡がっていくように、統也の悩みは次第に内側まで浸透して行き、すぐに【彼】に届いた。その悔しさの答えを、【彼】はずっと考えてくれていたのだろう。それは嬉しいことの筈なのに、強くなれるのは、誇らしいことの筈なのに、統也は何故だか【彼】の答えを聞きたくなかった。心の足元から、黒い霧が忍び込んでくる。嫌な予感がした。額に汗が伝う。
「あれ、統也、まだ起きてたの?」
 突如想像の霧は消え、不意に軽やかな声が聞こえてきた。統也が顔を上げると、半分だけ開けていた扉から、翼が顔を覗かせていた。
「今日は早く寝るって言うから、珍しいなって思ったんだけど、やっぱり寝つけない?」
 翼は底抜けに明るい表情でそう言うと、ごちゃごちゃとした床を吟味しながら、慎重に足の踏み場を確保して統也の側までやって来た。その手には、湯気のたつ二つのマグカップが握られている。
「紅茶入れたけど、飲む?」
 静かに差し出された片方のマグカップから、ふわりと優しい香りが立ちのぼる。何の香りかは分からなかったが、いつかどこかで嗅いだことのあるような、不思議な懐かしさが鼻腔をくすぐった。
「頂こう」
 統也は小さく微笑むと、両手を出してマグカップを受け取った。統也が紅茶を一口啜るのを見届けると、翼はゆっくりとベッドに腰かける。
「話してもいい?」
 暫くの沈黙の後、翼はそう口を開いた。つい先程も、【彼】の口から聞いた台詞だ。統也は黙って一瞬目を丸くしたが、すぐに目を細めて頷いた。
「許す」
「あはは、ありがと。……あのね、今日、父さんから電話がかかってきたんだ」
 今まで、翼の口から敬愛する母の名前を聞くことは幾多あれど、父という単語を聞くのは初めてだった。だが、彼はそれを意識するでもなく、淡々と話を続ける。
「学校を卒業したら、一緒に暮らさないかって、言われた。夏休みに、一度会ってたんだ。母さんの、所で」
 一瞬話が切れかかったのは、恐らく、「お墓」という言葉を飲み込み、「所」と濁したせいだろう。翼の真意は分からなかったが、何となく、その気持ちは理解出来る気がした。
「その時は、突然の事だったし、ボクはずっと父さんを嫌っていたから断ったんだ。でも……」
 翼は、先程統也がしていたように、シーツを握りしめると、嬉しそうでいて苦しそうな、何とも言えない表情を見せた。その顔の造形が、変わらず美しいということだけが、いつもの彼だった。
「父さんは、ずっとアイドルのボクを応援してくれていたんだって知った。ボクが母さんの所へ行けなかった二年間も、毎月欠かさず母さんのお墓参りをしてたって、知ったんだ」
 息を吸って、翼がこちらを見やる。身寄りの無い者同士、統也と翼、そして永遠と命は、何時でも共に過ごすのが当たり前だった。その瞳は、自分だけが家族の元に戻ることに罪悪感を感じ、揺らいでいるように見えた。これではいけない。統也は真っ直ぐに彼を見つめた。本当の家族と分かり合えたのなら、翼は帰るべきなのだ。
「それなら、俺様に問わなくても答えは分かるな?」
 強く肩を叩く。こんな時、変な遠慮や謙遜は何も意味を成さない。ただ素直に笑って受け入れることが最良なのだと、その考えは、誰に言われずともスッと心に馴染んでいった。ずっと、笑顔の中にバツの悪そうな顔を潜ませていた翼は、その瞬間に初めて張り詰めた表情を崩した。母と二人、美しくも狭いそのセカイに囚われていた友人は、少しずつ、本当に少しずつだけれど、自分自身の未来を切り開こうとしていた。
「良かった……皆を裏切るみたいで、怖かったんだ……話せてよかった」
「喜びこそすれ、憤慨したり哀しんだりする者はいない。安心しろ」
 統也は、まだあたたかい自分のマグカップを、ぎゅっと翼の頬に押し付ける。快晴のような瞳から、驚いた拍子に雫が一粒零れ落ちる。
「早く飲んで、また悩む前に寝ろ」
「そうだね。ありがと、統也」
「あぁ」
 自身もカップの中身を空けつつ、統也は自室へと戻っていく翼を見送った。結局何の香りなのかは最後まで分からなかったが、紅茶が喉を温くあたためてくれたおかげで、今日はぐっすりと眠れそうだった。統也は再びベッドの中に潜り込むと、そっと息を吐いて【彼】を呼んだ。
『……返事、決まった?』
「あぁ。俺様も前に進まなくてはいけない、と思ってな。紫乃を守れるくらい、強くなるには、どうしたらいい」
『どうしたらいいって……知ってるからさっき言い淀んだんだろ』
【彼】は呆れたようにため息をつくと、つまらなそうに頬杖をついた。
『本当にいいの? 強くなるには、おれ達元通りにならなきゃいけないんだ。この器は一人分。紅茶みたいに飲んで減らすことは出来ないから、もう容量オーバーになっちゃったんだよ。……おれかお前、どちらかの統也が消えなくちゃ、いずれ力だって制御出来なくなる』
【統也】は淡々とした口調でそう告げると、深呼吸をして眠りについてしまった。ああは言ったものの、きっと【彼】は、統也が望まなくても、最初から自分が消えるつもりでいたのだろう。二人とも、互いが好きで、紫乃のことが好きだった。誰かを犠牲にしなければならないなんて、考えたくも無かったけれど……。
「身体を返さなきゃいけないのは、きっと、後から居着いた俺様の方だ」
そう零すと、統也は緩やかに意識を手放した。翼から貰った紅茶の香りは未だ消えておらず、晩秋の冷ややかな空気から統也達を守るように、じわじわと辺りを包んでいた。

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 温くなった珈琲を一口含み、禎 月夜は眉を顰めた。日野川から届けられた複数の生徒のデータの中に、今まで全く着目してこなかった少年の姿があったのだ。
「響希、一点良いかな」
「はい、何でしょう」
「彼、夜月統也。今まで全く追ってなかっただろう。新規の調査報告も特に聞いていないけれど、どうして急に『候補』に入っているんだ」
 新顔の顔写真をまじまじと見つめ、月夜は面白そうに口角を上げた。大方、また質の良い研究材料が増えた、とでも思っているのだろう。日野川は苦笑すると、データのとある部分を指差した。
「戦闘によって、【異能】を起動させるためのエネルギー量の差が激しいんです。例えば、二ヶ月前のデータと三ヶ月前のデータを比べると、一般的な生徒一人分もの差があります。これは誤差の範疇を超えている。まるで、身体の中にもう一人分の異能者を匿っているみたいだ」
 日野川はそうぼやき、大きくため息をついた。京と郁の事といい、光希の事といい、あのグループはどこかおかしい。【声の能力】を持つ少年たちの中でも、殊更異常者の集まりのように感じられた。彼らは、初めから集ってしまう運命だったのだろうか。ともすれば、八人全員が『候補』になってしまう可能性も捨てきれない。俯き押し黙った日野川を見て、月夜は何かを察したのか、ニヤリと笑って机に頬杖をついた。
「私は医者として紫乃を担当しているし、その関係でspiritoとの繋がりもまあまあある。皆かなり面白い子達のようだ」
 月夜は姿勢を崩さぬまま、月を飲み込む夜空のような目で日野川を捉えた。
「君から始まった物語は、もはや君がどうこう出来る範疇を超えてしまっているのかもしれないな」
「そう、かもしれません」
 日野川は、月夜の発した試すような言葉を一切否定しなかった。彼の声は剣のように鋭く、鋼のように強固な意志を孕んでいた。
「これが本当に皆への償いになるのか、赦されるのかと問われても、簡単に頷くことは出来ません。……それでも僕は、進むしかないんです。もう時間もあまり無い。僕があなた方の敵になってしまう前に、一人でも多くの命を救わなきゃ 」
 黙って話を聴きながら、月夜は、この男はまだ未成年だった、と言うことを思い出した。この『少年の成れの果て』は、生徒と学園長・講師の狭間でもがき苦しむ、異例の存在。本来ならば有り得なかった存在。月夜の手によって、少年時代で呼吸を止めた存在。
「最近、体の調子はどうだい」
 しんとした医務室に、不器用な声が響く。俯いていた日野川がハッと息を呑む音が聞こえた。
「もうそろそろ、あの薬を使ってから五年になるだろう。確か、今月の末に二十歳になるんじゃなかったか」
「そうです。自分でもすっかり忘れていました。体は元気ですよ。恐怖も不安もありません。実はもう全て、壊れてしまったのかも」
 冗談とも真実とも取れない言い方は、彼の難解な癖だった。月夜は苦い笑みを浮かべると、まるで十の子どもにするかのように、日野川の頬をそっと撫でた。初めて出会った日の希望に満ちた瞳も、学園から逃げる事が叶わないと知った時の絶望に淀んだ瞳も、そのどちらもが、今は消えうせてしまっている。彼はただ穏やかに笑って、「子ども扱いはやめてください」と柔らかく呟いただけだった。

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サルヴァトーレはマローダーズの素。
そう教えられていた。

【救世主】と【略奪者】、元は同じところから産まれたものだった。子どもたちの中に稀にいる、力を上手く制御出来なくなった個体は、やがて、憎悪を向けていた筈の怪物と鏡合わせになる。

彼の仕事は、そんな子ども達を見つけて間引くこと。彼自身も、いずれ間引かれる存在である事を、胸に秘めながら。

日野川響希は、教え子たちに恨まれ殺される日を、穏やかに、静かに、待っている。

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