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第15楽章『君の欠片を掬う』

 夜明けから夕方にかけて降り続けていた雨は、空が暗くなる頃にはすっかりと止んでしまい、紺の絵の具を垂らしたような天にはちらちらと僅かに星が瞬いていた。その様子を窓からじっと眺めていた郁は、ゆっくりと振り返ると、ベッドの上に腰かけて漫画を読んでいる親友に声をかけた。
「京、少し歩かないか」
「……雨が上がったの?」
 ぱたりと単行本を閉じて、呟きながらこちらにやってくる。郁が小さな窓の半分を明け渡すように身体を半歩左にずらすと、京はその空間にするりと滑り込んだ。月の色によく似た、航路を照らす金色の目が、ぱちぱちと瞬きをしながら窓の外を伺っている。その姿は、言うなれば強く儚い。相反するたとえが頭を巡り、郁は京に見えぬようにそっと苦笑した。
「止んでいるだろ」
「そうだね。歩こうか……これからの話も、したいし」
 少しだけ歯切れの悪い返事に、笑っていた郁も鋭い眼差しを取り戻して頷く。二人の身体に現れた異変と、異変が及ぼす影響。それらに対峙した時、自分たちは一体どうすれば良いのだろうか。この問いに答えがあるなんて事は、はなから信じていないけれど、何もしないよりは幾らもましだった。郁が差し出した手を、京は躊躇いもせずに握りしめる。ずっと前から、当たり前のようにそうだった。郁は京を疑ったことなど無く、それは京も同じだった。けれど今夜は、その夜は違っていた。その日郁が持っていたのは、一種の後ろめたさだった。

(京は、俺の事を当然のように信じているんだ)

 唇を噛み締めて、泣きそうになった心を閉じ込める。控えめに京の指を捕らえたまま、眠りについてしまった弟妹たちを起こさないようにゆっくりと階下へ降りる。
「母さん、ちょっと京と散歩に行ってくる」
「良いけれど……早めに戻ってらっしゃいね」
 母につられるように時計に目をやると、既に午後九時を回っていた。郁は機械的に首を降ると「十時には戻る」と口にして玄関の方へと向かっていく。
「郁」
 靴を履き、いよいよ外に出ようとした瞬間、短い声で母に呼び止められた。振り返ると、母は心底嬉しそうに笑いながら、諭すように口を開いた。
「あんまり京くんに迷惑かけないのよ」
「分かってる。行ってきます」
 こちらが恥ずかしくなるほど、母は京の存在を喜んでいた。まるで郁のことをどうしようもない悪戯っ子だとでも言うように、はたまた十歳の子どもに言い聞かせるように、母はいつもとは違う表情で二人を見送った。それは郁にとって最大の幸福であり、けれどやはり気恥ずかしさの方が勝る態度だった。
「郁のお母さん、優しいよね」
「うん……まあ」
 今度はこちらが歯切れの悪い返事をする番だった。その事を察してか、京は半ばからかうように郁を見つめた。
「なんか嬉しいな。いつもと違う郁が見れて」
「からかうのはやめてくれ」
 少しばかり眉をひそめて、拗ねた調子でそう言うと、京は可笑しそうに肩を震わせて笑った。真面目な話をしなければならない時だと言うのに、彼はいつもよりも大仰に、この夜の散歩を楽しんでいるようだった。部屋にいた時は強ばっていた郁の顔も、つられて少しだけ緩む。
 緩やかな風に誘われるようにして小道を抜け、やがて二人は開けた海辺にやってきた。手で掬えばすぐにさらさらと流れ落ちる、軽やかな砂浜の上に腰を下ろして、揃って空を見上げた。
「この町の星は綺麗だね」
「田舎だからな……彼処とは全く違う」
 郁が指さした先には、水平線の遥か先。輝くネオンの光が小さく瞬いている。何者も見境無く飲み込んでしまいそうな対岸の街。その中に、あの恐ろしい学園は一際どっしりとその姿を構えていた。
「ギラギラしていて、目も当てられない」
 京は苦々しそうにそっと呟くと、郁の肩にゆっくりと頭を乗せて再び頭上を見た。静かな夜に、控えめに舞う星屑。喧騒と陰謀から遠ざかった世界は美しく、そして隣には君がいる。郁は、京が満足そうにため息をついたことに気がついたが、何も言わず、また微動打にもしなかった。ただ、話を切り出すタイミングを伺って、息を吸ったり吐いたりしているだけだ。幾分かが、そうやって人知れず過ぎていった。やがて、京は現実に引き戻されたかのように伸びをすると、ゆっくりと立ち上がろうとした。が、その拍子に砂浜に足を攫われ、小さくよろめいた。
「大丈夫か」
「うん、大丈夫」
 朗らかに微笑んで、京はさりげなく手を差し出す。その手を掴み、郁もまた砂浜の上に両足を踏みしめた。
「これから、どうしようか」
 その声は怖いほどに落ち着いていた。家に帰ってきたあの日のように取り乱した呼吸ではない。郁がそうであったように、京もまた、口にはせずとも自分の置かれた立場についてずっと考えていたのだろう。重く、疲れきったような声だった。
「……何も知らない振りをして、いつも通り、学園に帰るのが最善だとは思う」
「二人で、逃げられるかもしれないのに?」
「俺達の身体には、まだ番号が残っているのにか? まるで囚人みたいだ。これが動いている限り、俺達は逃げられない」
 そう言って郁が袖を捲った下から現れたのは、赤く刻まれた【1685】の数列。入学した時につけられたこの印は、彼らが学園の所有物であることを物語っていた。
「地球の果てまで逃げても、追いつかれるかもしれない。何も知らないうちは、下手に動くべきじゃない」
 まるで自分自身にも言い聞かせるかのように、郁はそっと呟いて袖を下ろした。京は、暫く黙って俯いた郁を見つめていたが、やがて頭上に視線を戻すと、ハッと息を飲んだ。
 先程まで星で覆われていた空が、酷く澱んでいる。それも、砂浜周辺の空だけだ。対岸の街や、歩いてきた小道には何の変化も無い。『二人の周りだけ』が、鬱屈とした厚い雲に覆われていた。
「郁……」
 京が服の袖を掴む。止めろとその目が物語っている。ぽつぽつと雨が零れ出す。だが、郁には止め方が分からない。
「郁、不安なの」
 心配そうに覗き込む目を、直視出来なかった。いつもなら笑って大丈夫だと言えるのに、今は、彼に隠し事をしたと言う罪悪感が、勢いよく喉を塞き止める。郁は、ぎこちなく頷くだけで精一杯だった。
「ん、分かった」
 けれど、京はそんな郁を手放したりはしなかった。一言、軽く呟くと、そっと郁の手を引いて再び砂浜に座り込む。そして、子守唄のような優しい歌を口ずさんだ。その声に合わせて、二人を取り囲むように薄い透明の半球が形を顕にしてゆく。これは、郁の不安定な攻撃から彼自身を守る為の、力。
「郁の言うことは正しいね。いいよ、このまま学園に戻ろう」
「……あぁ」
 勢いを増した雫はばたばたと音を立てて半球にぶつかるも、中へと侵入してくることは無い。濡れて黒々と光る砂浜の中で、囲われた二人だけがさらりと鳴る砂の音を聞いていた。
「昔もこうしたね」
 不意に京の声色が変わった。濡れてしまう心配が無くなったからか、即席の空間はひどくあたたかく感じる。郁が顔を上げると、月を嵌め込んだような瞳がきゅっと細まってと微笑みの形を作った。それは、二人がまだ学園の真実すら知らぬ頃、純朴だったあの頃の、話。
「そんな昔のこと、覚えていたのか。 入学する前だっただろ」
「覚えてるに決まってるよ。 その時は、君の名前すら知らなかったけど」
 にっと引き上げられた口角は、落ち着いた彼には些か似合わなくて、けれどもあの時を思い出すような、不思議な表情を作り出していた。郁は、そうだったと頷くと、そっと京の方へ身を寄せた。
 初めて会った筈なのに、ずっと昔から知っていたようなこの気持ちを、郁はこれから先何度も思い出すのだろう。御沢京と出会った頃に心を飛ばして、郁は静かに目を閉じた。

 可哀想な京。昔からただ優しいだけの少年だった。ありのままに隣人を愛し、その愛故に悩み、自身の暗い感情に潰れてしまうような。贄に選ばれたのは、そんな善良な彼だったということを、俺はいつまで隠していかなければ行けないんだろう。

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