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明星Serenade

 開演時刻まで残り十分を切った。講堂の中は溢れんばかりの人間でひしめき合い、そのざわめきは舞台裏に控えていた少年たちにも届いていた。
 分厚いカーテンを捲り客席の様子を見ていた日野川は、時計を確認すると、そっとカーテンを下ろして少年たちに向き直る。様々な楽器を手にした総勢三十人の生徒は、みな高揚した表情で日野川を見つめていた。
「いよいよ本番だね。僕から皆に言えることは一つだけ。皆は大勢の生徒の中から実力を買われて選ばれたメンバーだ。これまでの努力に自信と誇りを持って、仲間に恥じぬよう、精一杯演奏するんだよ」
「はい!」
 日野川の叱咤激励に、生徒たちは一斉に頷いた。しかし、その真剣な眼差しの中に一つだけ淀んだ目を見つけ、日野川はそっと立ち止まる。周りの熱気に気圧され、暑苦しそうに顔を顰めている白髪の少年。彼の前にしゃがみこむと、日野川はそっと口を開いた。
「紫乃くんも、頑張ろうね」
 声をかけられた少年──紫乃は、ちらりと日野川を見ると、眉間のしわを戻し小さく頷いた。
「こういうの嫌いだけど、選ばれたからには仕方ないです」
「そんなこと言って。本当は楽しみなんじゃないの?」
 紫乃を励まそうと、日野川が何かを言いかけたその時、隣から穏やかな声が紫乃を包み込んだ。日野川が顔を上げると、そこにはヴァイオリンを手にした京の姿があった。京は、日野川と目が合うと、ゆっくりと首を傾げるようにして微笑んだ。
「紫乃くんは凄いですよ、先生。全体練習が終わった後も、一人で残って練習してましたから。しかも毎日」
「先輩、なんで知ってんの!? 」
 京がさらりと秘密を暴くと、紫乃は目を見開いて彼を振り返った。どうやら、誰にも見られていないと思っていたらしい。京はにっこりと微笑むと、恥ずかしさに震えている紫乃の肩を軽く叩いた。
「大丈夫だよ。誰も君を笑わない」
 尊敬しているんだよ、と送り出すような声。紫乃はこちらを向かなかったけれど、暫くの沈黙の後、静かに頷いた。やがて紫乃が同パートのクラスメイトに呼ばれて行ってしまうと、日野川はちらりと京を見やる。今でこそ誰からも信頼される上級生だが、昔の彼はこうでは無かった。涙をこらえるように潤んだ大きな瞳は、いつも何かに怯えているようだった。
(最も、僕が君を見ていたことなんて、君は知らないだろうけど)
 日野川が【卒業】した翌年の学園祭。その時の選抜メンバーの中にも、京はいた。入学したばかりの最下級生でありながら奏者に抜擢され、大きな背中を必死で追いかける姿を、日野川は舞台裏からずっと見ていた。先輩たちが帰ってしまったあとも、一人舞台の上で練習するその姿を、当時絶望に打ちのめされていた日野川は、まるでひとつの希望を愛でるかのように、大切に眺めていたのだ。そして、そんな健気な彼に、これから先自分がしなければならない事を思うと、胸が張り裂けそうになるくらい、無性に心苦しかった。
「……それが今では、君も見守る側か」
「え? 何か言いましたか、先生」
「何でもない。君も早く皆の所に行きな、『先輩』」
 日野川から軽く頭を撫でられ、京はハッと顔を上げる。彼は何かを言いかけたように口を開いたが、用意されていた言葉が出ることは無かった。代わりに、「はい」という短くも芯の通った声だけが、日野川の耳に届く。
 直後、開演を示すブザーが流れ、ゆっくりと表舞台の幕が上がり始めた。
「皆、準備はいい?」
 先頭に立つ日野川の顔は、逆光で良く見えない。けれど、いつに無く浮ついた声から、彼が今どんな表情をしているのかは、容易に想像がついた。各々頷き返事をする生徒たちを見て、日野川は満足気に口の端を引き上げる。
「舞台の始まりだ」

──────────

 その人は、制服とも、講師服ともつかない、変わった格好をしていた。年恰好だけを見るならば、当時の最上級生の先輩と同じくらいに見える。けれど、こんな人は学校中探しても見たことがなかった。……少なくとも、生身では。
「パンフレットのお兄さんだ」
 目をぱちくりさせて、京は弾んだ声を上げる。郁と一緒に図書館を探検していた時に、偶然見つけた古い冊子の束。そこに写っていた、笑顔の綺麗なお兄さんが、目の前にいた。
「練習、してるの? 何期生?」
 お兄さんは、たどたどしく問いかけると、京の隣に座り込んだ。
「6期生です。僕、今年入ったばっかりで、先輩たちに比べるとまだ下手だから」
「そう、新入生か。……ここは酷いところだろ?」
 お兄さんは、事も無げにそう言うと、京の頭をふんわりと撫でた。京は、どう答えたらいいものかと足元を見つめ押し黙ったが、やがてふるふると首を振った。
「ひど、くはない、と思う。怖いことや、痛いことは多いけど。でも、先生たちは僕の母さんたちよりも、ずっと人間らしいと思うんだ」
「……変な子どもだね」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。君みたいな子はここで長生き出来ると思う。学園の柵に何一つ疑問を持たず、無駄な足掻きをせずに、従って生きていけばいい。間違っても『変わりたい』なんて思っては駄目だよ。僕からのアドバイス」
 お兄さんの言葉は長くて、難しくて、京には半分も理解できなかった。けれど、お兄さんの言う通りに生きていたら、平穏と引替えに何か大切なものを失ってしまう気がした。そう正直に京が伝えると、お兄さんは一瞬、とても恐ろしい顔で京を睨みつけた。しかし、京が驚いて瞬きをした時にはもう、彼は悲しそうな目でじっとこちらを見つめていた。
「そうだね。そうかもしれない。……抗った僕は全て亡くしてしまったけれど、従って生きる君も、同じように亡くしてしまうのかもしれない」
 最後は独り言のように呟くと、お兄さんはもう一度京の頭を撫で、「練習頑張ってね」と一言言い残して舞台裏の暗闇へと消えていってしまった。

──────────

 京がそのお兄さんと話をしたのはその一度きりで、それから何度探せど、彼を見つけることはできなかった。そしていつしか、彼の声も顔も、全て忘れてしまった。ただ、彼が紡いだ言葉と、頭を撫でてくれた手のひらの感触だけは、ずっと京の頭の片隅に残り続けていた。
「君も早く皆の所に行きな、『先輩』」
 そう言って日野川から頭を撫でられた時、まるで走馬灯のようにその事を思い出した。確証は無いけれど、その仕草は、あの日の彼にとてもよく似ていた。
「京先輩どうしたの。僕に調子のいいこと言った口で、実は先輩も緊張してる?」
 突然聞こえてきた刺々しい声に、不意に現実へと引き戻される。振り返れば、仏頂面の紫乃が背後からこちらを見上げていた。きっと、神妙な顔つきの京を案じて、紫乃なりに励まそうとしてくれているのだろう。京は、あの日のことを思い出しながら、そっと紫乃の頭を撫でてみた。
「なっ、子ども扱いしないでよ!」
「あはは、ごめんごめん」
 頭を抑え、顔を真っ赤にして紫乃が語気を強める。京は軽やかに笑いながら、一歩歩みを進める。こちらを睨みつけながらも、案外満更でも無さそうな紫乃と、舞台の上で楽しそうに笑う日野川。建前も真実も知らないことも、舞台の上では全てがただひとつの音楽となり、誰の心にも降り注ぐ。
(あの人も、今、笑えているといいな)
 一瞬の静けさの後、音が、響く。

──────────

 一番初めに見えたのは、指揮者の男性の、楽しそうな顔だった。知らない青年のはずなのに、理沙子はその顔を、もう何年も、何年も前から、見守っていたような錯覚を覚えた。
(そうだわ。……あの人、あの子に似てる)
 そっと寄り添うように流れ始めた音楽は、驚いた事に、あの子が一番好きな曲だった。
(もう何度も聞かされたもの。一音も間違えずに歌えるわ)
 一緒に連れてきてあげればよかったな。心地よい音に身を委ねながら、理沙子はそっと笑みを深めた。

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