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第13楽章『Replica』

「お前さ、なんでアイドルやろうと思ったわけ? あんまりイメージないよな」
 食堂の隅。紫乃の隣に腰かけるやいなや、命は頬杖をついてぶっきらぼうにそう尋ねた。紫乃は口の中にある米を飲み込むと、不満げに目を細める。
「別に、理由はない。家から出られればなんだって良かった。……命こそ、アイドルって柄じゃないじゃん」
「オレ? オレは……永遠がやりたいって言ったから」
「何それ。馴れ合い?」
「違ぇよ。必然」
 命は、当たり前だと言わんばかりにそう言いきった。きっとこの二人は、ただ単に仲が良いというだけでは成り立たない関係で繋がっているのだろう。何となく察してはいたが、深く知りたいとも思わなかった。紫乃は命から目を逸らすと、ぐるりと後ろを振り返る。
「ていうか、なんで僕の隣に座ってんの。空いてる席なら他に幾らでもあるでしょ」
 がらんとした食堂を見渡して、呆れたように紫乃が言うと、命はその顔に似つかわぬ無垢な表情できょとんと首を傾げた。
「なんでって、一人で飯食うの寂しいだろ?」
 ぱちぱちと目を瞬かせた彼は、特別紫乃に気を使っているわけでもなさそうだった。普通そんな事、気恥ずかしくて言えたものでは無いけれど、命には意外とこういう事をサラリと口にするところがあった。
「そういうとこ、命らしくないよね」
「んだよバカにしてんのか?」
「ううん。褒めてる。馬鹿にするのは成績くらいかな」
「お前な……」
 命は大袈裟に肩を落として大きなため息を吐く。だが、すぐにニヤッと笑うと、角張った手で紫乃の頭をガシガシと撫でた。
「でも、お前も、去年みたいに避けようとしないんだな」
「……うるさい」
 不本意ではあるが、確かに最近、以前に比べて人に歩み寄ることが苦では無くなったと感じることが多い。命の手を押しのけながら、紫乃は赤みの差した頬を見られないように、そっと俯いた。それに気がついたのか、命は少しだけ口角をあげると、自身のトレーから料理の乗った皿を手に取ってガツガツと食べ始めた。
「あれだな、お前が付き合い良くなったのは、やっぱ統也のおかげか」
「食べながら喋らないでよ」
「はいはい。……否定はしねえんだな」
「……」
 話を逸らしたつもりだったが、命の方は流される気はさらさらないらしい。彼は、いつの間にか空になった食器をトレーの上に積み上げると、下を向いたまま黙りこくった紫乃を横目に席を立った。
「じゃ、オレ行くわ。二時からまた補習入ってんだよなー。しかも、よりにもよって日野川とマンツーマンとか。死ぬ。詰んだ」
 ぶつぶつと文句を言いながら、命は去っていく。その不格好な後ろ姿を、紫乃は暫くじっと眺めていた。
「統也のおかげ、か」
 認めたくはない。認めたくは無いのだが、確かにその通りだと言わざるを得ない。目を閉じれば、今も昨日の事のように思い出せる。たかだか『代用品』でしか無かった紫乃が、初めて自分自身を見つけてもらえた日のことを。

──────────

 『風箕紫乃』は、元々は紫乃の兄の名前であった。この世に生まれた時、紫乃は双子の片割れで、翠と名付けられていた。だが、兄の『紫乃』は体が弱く、一歳の誕生日を待たずして亡くなってしまった。その時、両親が何を思ったのかは分からない。紫乃よりも兄の『紫乃』の方が大切だったのか、もしくは、その名前に深く思入れがあったのかもしれない。結論として彼らは、死んでしまった兄の名前で、生き残った弟を上書きする事を選んだのだった。

「あの子だけじゃなくて、紫乃まで、どうして……」

 紫乃の寿命が長くないと知った母は、病院の廊下でそう言って泣き崩れていた。父は何も言わなかったが、片手でそっと母の背中をさすっていて、『あの子』という言葉が母の口から出る度に、空いた方の手で目頭を抑えていた。
 咽び泣く両親は、自分ただ一人を思って嘆いている。そう思いたかった。けれど、両親は確かに、姿も知らない『あの子』の名前を呼び続けていた。せっかくお兄ちゃんの名前をつけ直したのに。お兄ちゃんの分まで生きてくれると思ったのに。代わりまで失ってしまうなんて。母はそう言って泣いていた。
 代わり。確かにそう言ったのだ。紫乃はその日、自身が兄の代用である事を知った。いつか必ず治ると励ましてくれた優しい両親は、最初から自分の事など見ていなかったのだ。彼らは、紫乃を通してはるか昔に失った『紫乃』の面影を捉えていただけに過ぎなかったのだ。

 その瞬間、心のシャッターがぴしゃりと閉じる音がした。誰も、何も、信じられなかった。自分自身の存在さえも。ただ、閉じた心の中で、行き場をなくした感情だけが、竜巻のようにぐるぐると荒れ狂っているだけだった。


【声の能力──別れ】


 その日を境に、紫乃の入院していた病室は、どれだけ綺麗に整えても毎朝嵐の後のようにぐしゃぐしゃに壊れてしまうようになった。紫乃を中心にぐるぐると回る風は、やがて大きな竜巻を起こし、夜のうちに部屋全体を崩壊させてゆく。花瓶を割り、窓ガラスを破裂させ、カーテンを破き、棚をなぎ倒す。ただひとつ、中心にいる紫乃自身だけは決して傷つけぬまま、竜巻は一晩中轟轟と叫び続けた。まるで紫乃から全てを遠ざけるように。全てを拒絶するように。風の音は、時折切なげな悲鳴のようにも聞こえていた。
『【異能】の発現理由は明らかになっていませんが……長い入院生活のストレスがきっかけになったのかもしれません』
『一度本人のやりたい事をさせてみるのは』
『環境を変えて郊外で療養させましょうか』
 大人たちは、黙り込んだ紫乃を取り囲んで全く見当違いの言葉を交わしている。そして、紫乃が真っ白な壁を見つめている間に、病気と【異能】を受け入れてくれる遠くの学校へ進学してはどうかという話が固まっていった。
「どう? 紫乃は何かやりたいことは無い? 何でもいいのよ。そうそう、歌はどうかしら? 昔から好きだったじゃない」
 絵のように均整の取れた顔で、母が覗き込んでくる。以前は嬉しく思えたその顔は、魔法が解けてしまった今では、もうどうやっても目が合わなくなってしまった。母の笑顔も、父の労いの顔も、紫乃を超えた先にある天国の兄の姿を捉えていて、紫乃は、そうやって理想に染め上げられた兄には何一つかなわないのだ。諦めも絶望も、全てため息と一緒に吐き出してしまった。その後に残った風船みたいな体で、紫乃は一番上にあったパンフレット手に取った。
「ここにする」
 ペラリと捲った頁、一番初めに目に入った言葉を、淡々と読み上げるように答えた。
「アイドルが、したい」


 そんな風にして、流れるままに学園に入った。門をくぐれば、そこはまあ詐欺もいいところで、芸能活動をする傍ら正体不明の怪物と戦う羽目になってしまったけれど、それはそれで気が紛れて心地良かった。怖いほどに清潔な病院の中で、自分だけが苦しみ血を吐く気持ち悪さに比べたら、いつも誰かが怪我をして、いつも誰かが叫んでいる戦場は、病室の何倍も安心出来た。このまま誰にも知られず、戦って、戦って、そしてひっそり死ねれば、それでいいと思っていた。けれど……。
「今日から俺様がお前の教育係だ! 何でも頼れ!」
 目が眩むほど赤いマントを翻し、ドンッと胸を叩いた癖毛の少年は、そう言って太陽のように大きく笑ってみせた。統也と名乗った彼は、紫乃が病気の為一人個室に隔離されていたにも関わらず、夜中にこっそり寮を抜け出しては、色んな物を持ってきて紫乃の部屋を訪れた。
「紫乃! 花見がしたいと言っていただろう? 見ろ!俺様が持ってきてやったぞ!」
 静まり返った部屋に、不釣り合いなほど大きな声が響く。紫乃が顔を顰めながら布団から顔を覗かせると、何かがひらりと顔を撫ぜた。
「……花びら?」
 両手に抱えきれないほどの、沢山の花びら。空いた窓から吹いた一陣の風が、彼の両手からその全てを奪い去った。部屋中に舞い散る薄桃の花弁は、月の光に照らされてきらりきらりと光っていた。
「こうして見る桜も、綺麗だろ」
「落ちたら一瞬でごみだよ。後片付けどうすんの」
 小さく呟いて布団を被る。そのままそっぽを向くと、布団の上からバシバシと背中を叩かれた。
「紫乃は、俺様と全然違うな。面白い奴だ」 
 彼は紫乃に新しい魔法をかけてくれた。借り物の名前も、彼に呼ばれればたちまちこの体を包んで離れなくなった。笑いながら、泣きながら、怒った声で、いじけた声で。何度も何度もこちらに向かって、名前を呼んでくれる度に、『紫乃』の代用品は一人の生きた少年に変わっていった。
 あの時は、何だか妙に照れくさくて、何も言えなかったけれど、今思えば、つまらない意地を捨てて、綺麗だねと一言、言ってみれば良かった。


 やっぱり、無理やりにでも帰った方が良かったのかもしれない。一度階段を踏み外せば、どこまでも境なく転がり落ちてしまうように、一度内側から崩れてしまえば、体は元には戻らない。もう、安心出来るなんて思ってはいけなかったのだ。守らなければいけない人がいたはずなのに。
「紫乃!」
 永遠と命が、遠くから手を伸ばす。それより早く、紫色の頭が黒い光から紫乃を覆い隠した。
「良かったぁー、怪我は無いな。良かったぁ」
 いつものどこか腑抜けた顔のまま、安堵した顔のまま、頭から伝う紅にも自身の痛みにも気付かぬまま、目の前で倒れていく彼を見つめ、紫乃はその場から動くことが出来なかった。

 もしあの時、綺麗だねと一言、ありがとうと一言、口にしていたら、少しは運命も変わったのだろうか。
「君たち、どきなさい! 紫乃、君もだよ! 早く!」
 上擦った低い女の声と共に、背の高い白衣姿が見えたと思った途端、紫乃の意識はそこでふつりと途絶えてしまった。

──────────

「起きたか」
 少しずつ意識が浮上する感覚。少しだけ目を瞑ったまま息を吐き、ゆっくりと瞼を持ち上げる。涙でぼんやりと霞む視界に、見慣れた眼鏡姿の端正な顔立ちが映った。
「月夜先生」
「軽い発作と、後は熱中症の症状だね。調子はどうだ」
「良いです。……あの、統也は」
「攻撃をまともにくらったけど、命に別状はないよ。ただ、頭部を切っているから出血量は多い」
 そう言いながら、月夜はぽんぽんと紫乃の頭を撫でる。
「君が責任を感じることは無い。病気は予測がつかない事もある、そうだろう?」
「でも」
 シーツを握りしめ首を傾けた紫乃を見て、月夜は困ったように微笑んで腕を組んだ。
「ここを出て左側にまっすぐ、廊下の突き当たりの部屋だよ。行きたければ行くと良い」
「先生……ありがとうございます」
 弾むように言葉を切って、月夜の返事も待たずに駆け出していく。出会ったばかりの頃は陽炎のように不確かだった後ろ姿は、今ではしっかりと人の形を取っていて、死に向かって着々と歩みを進めているとは思えない程に、その足には勢いよく血が巡っていた。正確なリズムで遠ざかる小さな背中を見つめながら、月夜はそっと唇の端を引き上げた。
「自分を持って、素直になったね。良い兆候だ」

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