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第12楽章『翠の風に吹かれた日』

 ヴィクトリア少年音楽学園では、七月から九月までの間、長い夏休みに入る。とは言え、生徒全員が三ヶ月休暇を取れるわけではない。長期休暇の日数は一人ひと月。休暇の時期は班ごとに定められている。
「今年は七月末から八月末までか」
「ちょうど、一般的な中学と同じ時期だな」
 配られた予定表を見ながら、京と郁が他愛の無い話をしている。その様子をちらりと一瞥し、紫乃は小さく息を呑んだ。きっと、この二人は今年も迷いなく帰省する事を選ぶのだろう。紫乃はしばらく何かを思案するかのようにじっと二人を見ていたが、やがてそっと目を逸らした。そのまま反対側に視線を向けると、そこには命と永遠の姿が見える。
「補習どう? お盆までに終わる?」
「さぁ? サボりて」
「そんなこと言ってるから、毎年みこだけ夏休みなんだか補習月間だか分かんない状態になるんだよ、バカ」
「るっせ、お前だって補習食らったくせに!」
 引くほど低レベルな言い争いだ。紫乃は眉間に皺を寄せると、その二人の事も即座に視界から追い出した。そして、少し遠くで何やら楽しそうに話している、翼と光希の所に向かっていく。
「二人は、今年の夏休みどうするの」
「紫乃さん。えっと、どうする、とは?」
「帰省とか休暇のための外出。するの?」
 紫乃が呟くように言うと、光希はにこりと笑って頷いた。
「もちろん帰ります。翼さんも学園の外で休暇を取るそうなので、途中まで一緒に行こうって話してたんです」
「え、翼が……?」
 足を動かしながら光希の話をつまらなそうに聞いていた紫乃は、その一言に驚いて目を見開いた。そのまま翼の方に目を転じると、翼は照れくさそうな顔で頭をかいた。
「あはは、今年は外に出ようかと思って」
「何で? 翼は学園に残るんじゃないの」
「いつもならそうするんだけどね。……今年は、母さんのお墓参りに行きたいんだ」
 窓の外、どこか遠くを見ながら、翼はそっとそう口にする。唖然としたまま言葉が出てこない紫乃をよそに、翼はまるで自分自身に語りかけるかのように言葉を続けた。
「一人になってすぐにここに入学して、今まで母さんの死にしっかり向き合う事が出来なかったけど、今の僕なら、もう大丈夫だから」
 翼はそう言って、そっと光希の方を見た。視線を受け取った光希は、意味ありげに強く頷いてみせる。翼の身の上はある程度は知っていたが、それを乗り越えたような素振りを見せる彼を、紫乃は今まで見た事がなかった。そして、紫乃ですら知らない彼の一面を、ここにやってきたばかりの光希が理解しているということが、心底面白くなかった。
「へぇ……珍しいね。でも、光希はいいの? 学園の保護無しに外出するってことがどういうことか、ちゃんと知ってるの?」
 突っかかるように語気を強めた紫乃の真意を知ってか知らずか、光希は真面目な顔をして紫乃の方を見た。
「もちろんです。でも僕は……家族に元気な顔を見せたいから」
 真面目な顔を崩して、ふにゃりと笑う所も気に食わない。家族に対して嫌悪しか抱いていない紫乃ですら、再び学園の門をくぐった時のあの喪失感は、何物にも変え難い程苦しくて堪らないと言うのに。そんな風にヘラヘラと笑える人間が、この苦しみに耐えられるものか。紫乃は軽蔑するように光希を見ると、わざと大きく足をならして二人の横を通り過ぎた。
「……僕、紫乃さんに嫌われてるのかな」
「あんまり気にしない方がいいよ。あの子は、誰に対してもああいうとこあるから」
 ひそひそと聞こえてくる声が酷く耳障りだ。全部聞こえてるよ、と口裏で毒づいてみても、彼らに紫乃の霧がかった心は届かない。床を見つめながら、光希のあの笑顔が悲しそうに歪むところを想像してみる。そうすれば少しはせいせいするかと思ったが、どうにも嫌な後味が残るばかりだった。
「笑ってても嫌だけど、泣いてても嫌。……とにかく、あいつが何かしらのアクションしてるの見るとイライラする」
 口に出すことで、あぁ、そうなんだと気がついた。光希のことは好きではないが、嫌いなわけでも無い。他人になりきれなかったが故に、彼のことを強く意識してしまう。
「……愛せる家族いるなら、帰らない方が、良いのにな」
 立ち止まった場所。一つだけ不自然に窓が空いている。そこから吹き込む風は、生ぬるい夏の色を纏っていた。
「学園の秘密が漏れるのを防ぐ為に、一時的に、記憶を消される」
 一年前、教師から淡々と告げられた真実。季節を追って家族の元に帰る度、塗り替えられる学びの記憶。そして、この牢獄に戻ってくる度、再び突きつけられる戦いの記憶。生徒の中には、戦いに関する記憶を取り戻した時、心を病む者も少なくない。家族に愛されて育った者ほど、そうなる確率は高い。spiritoの中では、郁と光希がそうだった。
「郁先輩はそういうの、あんまり顔に出さないけど。絶対苦しいはずなのに」
 窓を閉めると、冷ややかな人工の空気だけが体を吹き抜けていく。紫乃には、どちらかと言えばこの冷淡な風が似合っている。青葉の香りを含んだ翠色の自然な風は、紫乃のような人間には似つかわしくない。反対に、光希は外の空気が似合うタイプの人間なのだろう。『あの子』のように。だから、紫乃は光希が気に食わないのかもしれない。
「僕は、今年は帰らないから」
 誰にともなくそう呟き、紫乃はくるりと踵を返す。自室に戻ろうと歩みを早めようとした所で、やけに浮ついた明るい声に呼び止められた。
「紫乃くん! ここにいたのね。探したわよ」
「げ……理沙子さん」
「げって何よ~! もー! 久しぶりに会えたのに~!」
 ぱたぱたと足音を立ててやって来た理沙子は、怪訝そうに顔を顰める紫乃に微笑み掛けると、突然がばっと抱きついた。
「わっ!? やめてってば!」
「そんな事言わないでよ~! 会えて嬉しいわ! 暫く呼ばれなかったから、私もうお払い箱になっちゃったかと思ったのよ」
 紫乃に頬ずりしながら、理沙子はわざとらしく嘆いて見せる。彼女の腕の力はかなり強いようで、抵抗しては見たものの、非力な紫乃には少しも押し返す事は出来なかった。諦めて溜息をつき、紫乃は頬を膨らませたまま理沙子に向かって口を開く。
「しばらくライブや公演が続いたからね。学校の先生が引率してくれてたんだ」
「そんなの、私だって皆のプロデューサーなんだから、呼んでくれたって良いじゃない! 私、皆のライブ全部に観客として行ってるのよ!」
「うわ……。まあ、僕たちが安定してきたら外部のイベントにも関係者として呼んでもらえるんじゃないの。今はまだ、新体制で活動を始めたばかりだし、それに……」
 この前のライブ後のように、もし会場に【略奪者】が現れたら。事情を知らない外部講師の理沙子には、何と説明すれば良いのだろうか。学園の秘密がバレるリスクを少しでも減らすため、ライブ時の引率は、原則として内部の講師達だけと決められていた。
「紫乃くん? どうしたの?」
「何でもない。それより理沙子さん、僕に何か用があったんじゃないの」
 そう言うと、紫乃は理沙子の不意をついて腕から抜け出した。理沙子は少しだけ残念そうに肩を竦めたが、すぐに真面目な顔つきになって頷いた。
「ええ。今日、レッスンの前に紫乃くんに健康診断を受けさせるようにって、月夜先生に言われたの」
「月夜、先生」
 禎 月夜(ただし つくよ)、彼女はこの学園の保健医であり、少年たちの能力に関する研究機関の第一人者だ。表向きは、養護教諭として外部講師達と連絡を取りあっている。病気を抱えた紫乃は、何かにつけてとりわけ彼女の世話になっていた。
「最近発作は落ち着いているみたいだけど、無理はしないでね」
「うん、分かってる」
 単調に答えた紫乃を見て、理沙子は少しだけ、胸の奥が傷んだような気がした。今にも風に攫われて溶けてしまいそうな、こちらの方が不安になってしまいそうな儚さを、理沙子は以前にも見た事があった。怯え震えていたあの手を、理沙子はもう繋ぐことは出来ない。
「約束、よ」
「え……?」
 小さく呟いた声が聞こえて、紫乃は理沙子を振り返る。しかし、紫乃が彼女を見た時にはもう、その顔はいつも通りの明るさを取り戻していた。
「よし、じゃあ私は先に皆の所にいってるわ。診察が終わったら、まだぎゅーってさせてね~!」
「は? やだけど……って、もう居ない」
 少し目を逸らした隙に、理沙子は曲がり角の向こうへと消えていた。紫乃は彼女が走っていった方角を見つめ、小さくため息をつくと、医務室のある棟に向かって足を踏み出した。

──────────

 ドアをノックして医務室に入ると、そこには既に背の高い女が待っていた。学園長のヴィクトリアよりも更に高い位置にある水色の目が、眼鏡のレンズを通して歪められ、面白そうにこちらを見下ろしている。
「やあ、来たね。君も練習があるだろうから手短に済ませよう」
 女──養護教諭の月夜は、紺色の長い髪を手早く後ろでまとめると、椅子に放り投げられていた白衣を無造作に引っつかみ勢いよく羽織った。
「まずは体温と血圧を測ろうか。見た所異常は無さそうだけれどね」
 話しながらも、彼女はテキパキと動き、診断に必要な備品や機械を紫乃の前に取り揃えて行く。その中には、普通の健康診断で使うような医療器具から、おそらく一般の人間は一生お目にかかることの無いような不可思議な機械までありとあらゆる物が揃っていた。楽しそうに準備を進めている月夜を見て、紫乃はそっと肩を竦める。
「そうそう、理沙子先生からもデータを貰っていたけど、一応再確認するよ。一番最後に発作が来たのはいつだったかな?」
「ひと月くらい、前。最近は本当に安定してます」
「なるほど。データに間違いはないようだね。顔色も良い。……ただ、見えない所で腫瘍が進行しているケースもあるし、ご両親の元に帰る前に、きちんとチェックしておかないといけないな」
 どかっと椅子に腰かけた月夜は、そう言って紫乃のカルテをくまなく凝視している。紫乃は、彼女の言葉に一瞬息を詰まらせると、膝の上で拳を握りしめて口を開いた。
「あの、先生。その事なんですけど、僕、この夏は学園に残ることにしたんです」
「あぁ、そうなのか。学園に残…………え!?」
 月夜が素早く顔を上げた。その拍子に眼鏡がずり落ちたが、そんな事にはお構い無しに、月夜は紫乃の顔をまじまじと見つめた。
「本気なのか? 学園に残れば、【略奪者】の侵略時には、体調が万全でなくても駆り出されることになるよ」
「別に良い。……そっちの方が、余計な事考えなくていい」
「……ご両親のことが、あまり好きでは無いのか」
 囁くような声で、月夜が尋ねる。紫乃は、黙ったまま足元に視線を落とした。
「所詮僕は代用品だから」
 月夜に聞こえぬように呟くと、紫乃は目の前に置かれていた体温計を手に取った。
「早く終わらせてくれませんか? レッスンに遅れてしまいます」
「……。あぁ、そうだね」
 紫乃に気圧されたのか、はたまたそれ以上踏み込んでも益が無いと判断したのか、月夜はそれ以上紫乃に対して尋ねることはしなかった。しかし、全ての診断を終えて紫乃が帰っていった後、月夜は何かを思い出したかのように立ち上がり、医務室から出ていった。彼女が向かったのは、棟の西端に位置する、生徒全員の個人データが保管されている部屋だった。学園長と、数名の講師しか出入りを許されないその部屋は、通り過ぎただけでは見つけられないように複雑な細工が施されていた。一見何の変哲もない、白い壁の前に立った月夜は、胸元のポケットから小さなカードを取りだす。壁の一点にそれを押し当てると、小さく鍵の開く音がして、何も無かった筈の空間に、黒い扉が現れた。
「ここの子ども達はどいつもこいつも訳アリばかりで……。全く、興味が尽きないね」
 くすくすと笑いながら、月夜は扉の奥へと消えていく。月夜がすっかり壁の内側に入ってしまうと、途端に黒い扉は姿を消し、後にはただ、均整のとれた白が広がるばかりだった。


「1810……あった、これか」
 紫乃の資料を取りだした月夜は、何枚にも連なる書面をパラパラと捲り、ある一点の項目を目にすると、そっと手を止めた。
「この子、十一年前に名前を変えられているんだね」
 十一年前といえば、その頃紫乃はまだ一歳にも満たない年頃のはずだ。となれば、彼の改名は、必然的に彼の両親の意志で決められたという事になる。
「一体何故そんなことを」
 ぼやきながら、月夜は資料の一番初めに載っている顔写真をじっと見つめた。周りの全てを疑うような、鋭い空気。その中にある涼やかな緑色と目を合わせ、月夜は怪訝そうな顔で首を傾げた。
「みどり……風箕 翠。君にはこちらの方が、合っているのになぁ」
 そっと呟いてから資料を閉じ、元の場所に嵌めようとした所で、月夜はふと隣の資料に目がいった。隣にあるのは『1809』。確かこの少年は、紫乃と同じチームに居たはずだ。
「確かこの子、腹部に深い傷があって……あ、外出届けが出されている」
 最後の頁に追加で挟まれた許可証を眺め、月夜は可笑しそうに口元を歪める。
「紫乃が残る代わりに、この子が帰るのか。今年の夏は、存外イレギュラーだな」
 黒い部屋の中で、月夜の怪しげな声だけがまっすぐに響いていた。

──────────

 それより少し前。月夜が壁の向こうに消えていった時。廊下の向こう側で、一つの影が揺れ動いた。その影は、月夜の姿を捉えると、紅く染まった唇をゆっくりと引き上げた。
「見つけたわ。私の知らない、秘密の場所」
 『彼女』はそう言うと、くるりと踵を返して少年たちの待つ部屋へと帰っていった。

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