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絆Concerto

 ただひたすらに、繋ぐことだけを考えていた。いつもの戦いに比べれば、命が脅かされる事など無いから楽勝だ。それでも、目に見えないプレッシャーは次々と背中にのしかかってくる。汗ばむ視界に一人の少女の顔が映り、郁の心臓は一層強く脈打った。

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 波乱の予感が渦巻いていた学園祭も、気づけば最終日になっていた。理沙子の体には特に変化は見られなかったが、ヴィクトリアが言うには、少しずつ学園に関する記憶を思い出し始めているとのことだった。そんな彼女が郁たちに声をかけてきたのは、今朝の事だった。
「私に、皆の応援をさせて欲しいの」
 今までの礼として、チアリーディングのパフォーマンスで郁達のリレーを応援したい。少し照れながら、理沙子はそう口にした。「私、チアリーディング部に入ってるから自信あるんだ」とはにかみながら言う彼女に、郁はいつになく愛しさを覚えたのだった。離れて暮らしている幼い妹の姿を、そっと彼女に重ねていたからかもしれなかった。
「分かった。俺達も、応援に答えるために一生懸命走るよ」
「優勝しかねえだろ! 今年こそは舞台コースのヤツらを蹴散らしてやる」
「俺様がいるからには、天下をとらせてもらうぞ」
 郁の後ろからも、血の気の多い声が次々と飛んでくる。やる気に湧き立つ少年たちの姿を眺め、理沙子は嬉しそうに郁と目を合わせた。
「郁くんも、頑張ってね」
「あぁ」
 消極的な郁にしては珍しく、彼は自ら手を差し出していた。握った手は驚く程に小さくて、郁は自身の片手に少しだけ力を込めた。

 トップバッターを走る者の重責は凄まじい。誰もが、抜かれてはなるものかと強く殺気立ち、依然として均衡状態のまま走り続けていた。
(残り半分……ここで仕掛けるか)
 郁の飄々とした顔が気に食わないのか、先程から一人の生徒がこちらをマークするようにピッタリと後ろをつけていることに、郁はいち早く気がついた。だが、こちらも駆け引きに乗っている暇など無い。一瞬で過ぎ去ってしまう戦い、戦略はあって無いようなものだった。
(──悪いが、俺も負けられないんでね)
 理沙子の目の前を通り過ぎる瞬間、郁は今までよりも強く、その一歩踏み込んだ。すると、途端に彼と後ろの生徒との差が開き始める。何人かが息を飲んだ音が、郁自身にも聞こえていた。だが、後ろの事など気にせずに、郁は走り続ける。今まで、同世代の少女にいい所を見せよう、等と思ったことは無い筈なのだが。とても不思議な心地だった。差し出した赤を、力強い手が握る。刹那、ふと、あの小さな手を思い出した。無事にバトンを手渡し失速していくさなか、むず痒そうに口角を上げる郁を、太陽だけが見下ろしていた。

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 10人中6人目。なんとまあ中途半端な位置を貰ったものだ。だが、燃ゆるような瞳でレーンを眺める命にとって、そんなことはどうでも良かった。全てを負かす、それだけが彼の信念であり、それ以下のものは何一つ要らなかった。
(郁先輩がすげーぶっ飛ばしてくれたおかげで、今のところ1位ではあるけどなぁ……)
 それでも、郁の時ほどの差はもう無かった。命が勝負をかけなければ、後に続く統也の所まではもたないかもしれない。ひたすらに足を動かすことだけを考えながら、命は空を仰ぐ。焼け付くような地面より、雲ひとつない快晴の色を見ている方が、彼の心を落ち着かせた。
(あいつと一緒に走れると、思ったんだけどなぁ)
 なんて、少しでも頭を過ってしまった想いに、思わず苦笑してしまう。そういえばあの日から何も、あの事に関しては何も、触れられてはいないが、それもまた彼なりの選択ということなのだろう。
「カッケーとこ見せてやるよ」
 命はそう呟くと、繋がりを求め迫り来る赤を掴み、誰よりも先に走り出した。

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 緊張? しないわけが無い。なんでアンカーなんか……と肩を落としかけた心を、活気に満ちた体が制止する。そうだ、自分で選んだ道だったか。
『できる……よな?』
 恐る恐ると言ったように心の内から話しかけてきた【彼】に向かって、統也は怪しげな笑みを崩すことなく大きく頷いた。
「もちろんだ! 俺様に適うものなどいるまい」
 相変わらず、どこから湧き上がってくるのやら全く理解できない自信である。だが、それこそが統也なのであり、統也を作り上げる柱そのものだ。もう今の統也を【彼】が動かすことは出来ない。それは分かっていた。けれど、【彼】が感じている恐怖と震えは、統也自身にも伝わってしまいそうなほど、体内を脅かしていた。
「む、なんだ。情けないな」
 統也は頬を膨らまて呟くと、体操着の上から被っていた暑苦しい朱のマントを、周りに吹き飛ばすかのように勢いよく脱ぎ捨てた。
「少々暑かったからか? こうすれば鬱陶しくもない」
『いやぁ、あんまり変わんない……』
 魔王様がここまで譲歩してやったと言うのに、【彼】はうじうじと文句を言うばかりだ。しかし、それもそのはず。今レーンの上で赤を持っている少年は、少しずつその速度を落とし始め、ついには青の少年に抜かれてしまっていた。先頭に躍り出た少年の勢いが劣ることは無く、むしろその差を開き始めている。
「確かに、これは厳しいな」
 統也の表情も、それを見て僅かに険しくなる。だが、それも一瞬の事だった。統也はグッと拳を握りしめると、瞳を輝かせてゆっくりと口を開いた。
「下剋上というのは、なかなかに滾るものだな」
『…………』
 【彼】はもう、何も言わなかった。否、呆れて何も言えなかったのである。けれど、統也の言葉によって【彼】の感じていた緊張がすっかり消えうせてしまったのもまた事実だった。
『いいよ、分かった。観念して走るよ』
「それでこそお前だ」
 統也はそう言って頷くと、たった今青が通り過ぎたばかりの白線をしっかりと踏みしめた。届くだろうか?追いつけるだろうか?そんなことは愚問だ。
「『絶対に追い越す』」
 内と外から同時に聞こえた声は、すぐにグラウンドの熱気に包まれて消えてしまったけれど、風のように駆ける体は、その呪文の通りに動いた。いつの間にか、内側にいた【彼】は跡形もなく消え去っていた。
 きっと、安心してどこかに行ってしまったに違いない。まだ誰にも破られていない、真っ直ぐなゴールテープを目前に捉えながら、統也はそんなことを考えていた。

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 あの笑顔を、歓声の中で一際輝くあの顔達を、理沙子は前にも見たことがあった。彼らのライブに行ったことがあったのかしら?と記憶を辿ってみたものの、今の理沙子には何一つ思い当たらなかった。第一、私はアイドルになんて興味が無いし、どちらかといえば、釘付けになっていたのはあの子の、弟の方だったけれど。けれど──
(皆の笑顔、私絶対に知ってるわ)
 浮かんでくるのは、見慣れない光景ばかりだった。練習着姿でへとへとになって、それでもこちらを見て笑っている姿。ちょっとした事で喧嘩になって騒いで、でも翌日には何事も無かったかのように微笑みあっている姿。ステージの上で、客席から溢れる光よりも強く、輝いていた姿。
(どういう事? 何故だかとっても、懐かしい……)

「りっちゃん!」
 不意に自分を呼ぶ声が聞こえてきて、理沙子は我に返った。気がつくと、彼らが理沙子を取り囲んでいる。一番初めに声をかけた永遠が、にこにこと笑いながら理沙子に抱きついた。
「りっちゃんが応援してくれたおかげで、みこ達勝てたんだよ!」
「あぁ、あんたのおかげだ、サンキューな」
 口々に言葉を投げかけられ、理沙子は何とも言えないあたたかさが胸の内に広がっていくのを感じた。じわじわと染みていくそれは、彼女の心の奥深くにまで届いていた。

 あぁ、私は、思い出さなくてはいけない。
こんなに小さな体じゃ、よくやったねと、抱きしめてあげることすら出来ない

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