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​第2楽章「覚悟」─前編

 薄暗い一室。光沢のある長机に置かれた燭台だけが、その空間を照らしていた。日野川は、小さく息を吸い込むと、燭台の向こうにいる一つの影に向かって話しかける。
「何の御用ですか」
 彼が見据えた先には、一人の女がいた。さらりとした長い金髪に、踝まで隠れる長いスカート。そして、口元から上を覆い隠した真っ黒なヴェール。女は唇の端を引いて優雅に笑うと、そっと日野川に向かって手招きをした。
「お分かりでしょうに、白々しい。まぁ、座りなさい」
「……失礼します」
 日野川は一瞬何かを伝えたそうに言い淀んだが、直ぐに息を吐くと、素直に手前の席に腰を下ろした。彼が座ったのを確認すると、女はゆっくりと彼に歩み寄っていく。
「0002番、日野川響希。……当校の1期生として、非常に優秀な成績を修めた貴方は、昨年度から十八歳という異例の若さで講師となった。無論、これはわたくしが見込んでのことです」
「はい」
 日野川は流されるがままに頷く。静かな部屋にコツコツと響くヒールの音が、背筋をぞわりと撫でて行った。
「本来ならば、未成年の貴方を講師にする等言語道断。それ程までに貴方は特別なのです。わたくしは、貴方を信頼しているのですよ」
 女が近くまで来ている。体の左側だけがビリビリと痺れるような感覚。この緊張感だけは、学生時代から全く緩和されることは無かった。
「昨日の選別は、やり過ぎでした」
 柔らかな口調ながらも、有無を言わせぬ迫力のある声だった。女はそっと日野川の隣に腰かけると、幼子を諭すように言った。
「今年は四十名と、例年に比べ合格者が少なかった。間引きをするにしても、二十人は残すべきでしたね。こう少なくては、いずれ替えが効かなくなってしまいます」
 貴方がその事を解っていない訳が無い。女は不思議そうに呟くと、そっと日野川の頬に触れる。
「逃がしたのですか?」
 空気が変わった。燭台の炎が揺らぎ、光と暗闇の間を揺蕩う様に不安げに舞っている。日野川はぎゅっと拳を握りしめると、冷や汗が伝う首元に女の手が伸びぬよう、さっと立ち上がった。
「いいえ。神に誓ってもそのような事は致しません。……確かに、今回の事は僕の不徳の致すところでした。しかし、選別で残った十人はかなり見込みのある者たちです。僕が責任をもって十を百……いえ、千の実力にしてみせます」
 少しでもシナリオから外れれば、すぐさま殺されてしまいそうな緊張感。だが、既に自らを隠しきった日野川は、そんな空気の中で笑みさえ浮かべていた。女は、少しばかり不服そうに口を噤んだが、やがて元通り笑顔になると、そっと席を立ち、こちら側にやって来た時と同じように、優雅な足取りで奥へと歩いて行った。
「良いでしょう。その心意気、気に入りましたよ。では引き続き、明日より貴方にはアイドルコースの講師を務めて頂きます」
「はい。ヴィクトリア様の名の元に」
 日野川はそう言って深々と例をすると、足早に部屋を出て行った。一人残された女──ヴィクトリアは、そっとヴェールを外すと、冷ややかな視線を机に落とした。
「誰一人として逃がしは致しませんよ」
 仄暗い学園長室の中に、彼女の声だけが染み渡っていった。

──────────

「やぁ、光希くん。昨日は眠れた?」
 『最終試験』の次の日。学園側から配布されたタブレットの指示に従い、指定された部屋へ向かうと、そこには既に日野川の姿があった。光希は彼の問いには答えず、代わりに顔を伏せる。日野川は表情の読めない目で光希の行動を見ていたが、やがて朗らかな笑みを浮かべると軽い足取りで光希に近寄った。
「まぁ、ぐっすり眠れる方が異常だよね。寮生活が始まったばかりで疲れもあるだろうし、今日は簡単なオリエンテーションと行こうか」
「……はい。よろしくお願いします」
 光希は日野川の予想に反してしっかりとした声で答えた。昨日と何ら変わりのない真っ直ぐな目に、一瞬だけ気圧されそうになる。しかし、日野川は直ぐに表情を取り繕うと、何事も無かったかのように話を続けた。
「じゃあ、改めて。光希くん、アイドルコースへの合格おめでとうございます。残念ながら、今年の合格者は君しかいないみたいだけど、先輩たちと切磋琢磨して素敵なアイドルになって欲しいな。それから……」
 そこで日野川は一度口を噤んだ。照明の関係なのか、それとも何か心的な要素が関係しているのか、その瞬間、不意に彼の顔に影が差したように、光希には思えた。それはまるで、昨日暗闇の中で豹変した彼の再来のようであった。
「君には、今日づけで【略奪者特殊対策学園】の戦士となってもらいます」
「僕が、戦士……」
 口にすると、何とも現実味の無い言葉だった。今自分は、画面の向こうにいた少年達と同じように戦う事を求められている。その事実は、物語の世界にでも紛れ込んでしまったかのように、ふわふわと異質に溶けていった。空に消えた言葉の続きを生み出せない光希を視界に入れつつ、日野川は頷く。
「そう。僕ら学園の人間は、【異能】を必要としている。君の願いを叶える代わりに、君の力を使わせて欲しいんだ。これは、ある種の取引だね」
 日野川は笑顔で右手を差し出した。光希が戸惑っているのを見据えた彼は、更に深く踏み込んで行く。
「君は、自分が力を持って生まれてきた意味を知りたいと言ったね」
 光希の目の前に、細く長い指が向けられている。

「僕が教えてあげるよ。その意味を」

 それは、少年を説得する為に学園側から提示される、決まりきった台詞のひとつだった。しかし、その言葉が、光希をセカイへ誘う鍵となった。思わず伸びた手を、日野川は瞬時に掴む。力強く、けっして離れぬように。
 そして、光希が自らの未来を選び取った時、日野川は初めて人を縛る快感を得ていた。使役される側から使役する側へ、自身の駒をくるりと反転させる。この組織に身を委ね、全てを受け入れる事で、学園に抗ってきた辛い日々の記憶を塗り替えていくのだ。

(──光希くん)

 小さな手の温もりを感じながら、日野川は心の中で光希に語りかける。自らへの好奇心と、求められる喜びに背く事が出来なかった目の前の少年は、かつての自分と全く同じだった。【異能】を持って生まれたが為に世の中から排除され、夢を諦めてきた幼い少年達にとっては、皮肉な事に、この学園の差し出す恐ろしい罠は甘い蜜に等しかった。例え予め真実を見せつけられていたとしても、こうして手を取る哀れな少年達は、毎年絶える事がない。

(君も、この手を取ってしまうのか)

 そう思った矢先、彼の頭にかつての仲間達の声がちらついた。今更何を、と蠢く声達は糾弾した。一年間の研修後、正式に講師となり新たな番号を与えられたお前は、もう何も知らない少年に戻る事など出来るまい。学園に反旗を翻す道を諦め、忠誠を誓ったお前には、光希に同情する価値すらも無い。冷徹な講師として、ヴィクトリアの駒として。彼らを絶対に逃がさぬよう、囲い込む道を選んだのでは無かったか。仲間を傷つけ、見殺しにしてまで。
「……っ」
 日野川は必死の思いで幻聴を振り払うと、光希の手をそっと離す。その時にはもう、彼の顔から翳りは消えていた。
「それが君の答えなんだね」
「はい。……僕はやっぱり、夢を叶えたいです。それに、こんな僕でも何かの役に立てるなら」
 光希は答えながら、日野川の顔をじっと見つめた。昨日は、この人の事をとても怖いと思ったけれど、今日は不思議と、どこか怯えているように見える。それが何故なのかは分からなかったが、何となく、今日の彼の方が本心であるような気がした。
「日野川先生、僕、頑張ります。だから、僕を導いてください」
 曇りのない真剣な顔。その顔を、日野川は誰よりも理解していた。彼は初めて、まるで兄が弟に向けるような暖かい眼差しを光希に注いだ。
「響希でいいよ」
 今度は光希の方から差し出された手を、日野川はしっかりと握る。例え約束された絶望が、この子にも等しく分け与えられる運命であろうとも。

(僕の初めての生徒である君だけは、必ず、このセカイから外へ解き放ってみせる)

 それが、罪を背負った彼の、最後の良心。日野川響希の、内なる『覚悟』。

──────────

 左腕に鋭い痛みが走る。光希は、目を瞑って数秒間の痛みに耐えると、恐る恐る目を開けた。白く細い腕の真ん中に、はんこ注射の後のように、赤く四桁の数字が浮かんでいた。
「1862……これが僕の番号なんですか?」
「そう。しっかり覚えておくようにね」
 この学園では、何事も番号で管理する事になるから、と日野川は言った。なんだか囚人のようだと光希は思ったが、余計な事は口に出さない方が身の為だ。黙って頷くと、制服の袖を下ろした。
「これで身体検査は終わりっと。特筆すべき事はないね。去年僕が検診を手伝った子とは大違い。至って健康だよ。まぁ、見た感じ少し痩せすぎかとも思ったけど……これなら標準の範囲内かな」
 タブレット内の電子カルテを読み上げながら、日野川は上機嫌に呟く。ひとまず異常は無いようで、光希はホッと安堵のため息をついた。くるくると回る椅子を足でいじっている彼は、最初に会った時よりも随分リラックスしているようだった。


(番号を埋め込む為の注射には、緊張緩和の効果がある薬剤も入っているから、当然といえば当然か)


 身体検査は殆どがタブレットの専用アプリで管理されており、医療従事者では無い日野川でも容易に行う事ができるようになってはいるが、その際に使われる薬品の使用目的については何一つ知らされていない。この辺りも調査が必要だなと日野川が眉を寄せていると、それまでずっと黙っていた光希が「あの」と声を上げた。
「ん? どうしたの?」
「検査はこれで終わりなんですよね? 戦士の事を、教えてください」
「あぁ、そうだね。そろそろ本題に移ろうか。焦らせてしまってすまない」
 日野川は机にタブレットを置くと、くるりと椅子を回して光希と向き合った。
「君の持つ【異能】の発現は、およそ十二年程前に遡る。ある日を境に、突然不特定多数の少年たちに分け与えられた力なんだけれど……君は、『集団機能消失事件』を知っているかい?」
「集団、機能……あ、昔テレビのミステリー番組で見たことがあります。確か、同じ場所にいた人達が、同時に手足を失ったり、狂ってしまう様な、不思議な現象が続いたんですよね? 凄く怖いなと思っていたので、覚えてます」
 数年前のテレビの特集を思い出す。アメリカのとあるライブ会場で、一瞬にして複数の人間の足が『消失』したと、おどろおどろしい口調でアナウンサーが語っていた。当時は殺人鬼や通り魔の仕業ではないか、地球滅亡が近づいているのでは、等と騒がれていたらしいが、ある日を境に怪奇現象はぱたりと止み、結局事件は未解決のまま幕を閉じたと、その番組では締めくくられていた。
「その事件と、僕らの力と、何か関係があるんですか?」
「ああ。……世間には公にされていないけれど、『集団機能消失事件』を引き起こしたのは、【略奪者(マローダーズ)】という化け物なんだ」
「【略奪者】?」
 聞きなれぬ言葉に、光希は首を傾げる。日野川は再び机の上のタブレットを持つと、ある画像を表示させた。画像を見せられた光希は、思わずあっ!と声を上げる。
 画面の中には、動画の中で少年達に危害を加えていた、黒い人影のような生物が映っていた。
「これが【略奪者】。正体不明の謎の生命体だ。これらは、人のあらゆる性質を奪って生き長らえている。……被害にあった人々が手足を無くしたり、精神に異常をきたしたのは、【略奪者】によってそれぞれ体の機能を奪われてしまったからなんだ」
 日野川は一呼吸おいてから、厳かに続けた。
「そして、【略奪者】という存在が唯一奪う事が出来ないもの、それが君たちの持つ力──【声の能力(ウォークス)】なんだ。事件は幕を閉じたんじゃない。世界が平穏を取り戻したのは、絶対的な力を持つ選ばれた子どもたちが、平和の影で戦っていたから」
 何もかもを飲み込んでしまいそうな漆黒。そんな恐ろしい怪異と戦わなければならないのかと、光希は絶句した。だが、自分で夢を諦めないと決めたのだ。前に進むより他に道は無かった。
「僕達は、この化け物と戦う為に生まれてきたって事ですか……?」
 点と点を結び、幼い頭で、考えたくも無かった結論に辿り着く。どうか否定して欲しいと願う光希の心も虚しく、日野川はその答えを「正解」という全肯定の言葉で迎え入れた。
「百パーセント確証があるわけでは無いけれどね。現段階では、そうでは無いかと言われてる。事件が起こった時期と、【声の能力】を持つ少年たちが各地で発見され始めた時期は、ほぼ一致しているから」
 光希は震える唇でゆっくりと、日野川の言葉を噛み砕いていった。
 それでは。日野川の話が本当ならば。自分の存在等、まるで使い捨ての機械のようではないか。
「絶望したかい?」
 聞こえてきた日野川の声は昨日のように単調で、けれども怖さは感じなかった。
「承諾して番号を埋め込まれた君には、もう拒否権なんてないけれど」
 やるせない思いを腹に隠しながら、日野川は敢えて優しく尋ねる。その事を察したのか、光希は今度は俯く事はせず、唇を引き締めて大きく首を横に振った。
「大丈夫です。僕、きっとやれます」
 日野川はそっと目を伏せる。やはり、強い。十歳の頃、自分はこんなに強くあれただろうか。この子ならば、例外なく閉ざされる筈の運命を、切り開く事が出来るかもしれない。予感は確信に変わりつつあった。
「分かった。それじゃあ今から早速、君の所属するグループのメンバーに会いに行こう。新しいアイドル候補と戦士を紹介しに行かなくちゃね」
 殊更に明るい声に引っ張られるように、光希はそっと頷いた。

──────────

「あっ! 新人ちゃんだ!」
 長い廊下を抜けた先。ボールルームのような部屋に通された光希は、そこで見知った顔と声を見つけた。とは言っても、直哉や他の同級生達ではない。動画に映っていた少年のうち、最後に銃で撃たれてしまった少年がそこにはいた。あの苦しそうな悲鳴が嘘だったかのように、少年は部屋に入ってきた光希を見るなり底抜けに明るい声を発した。だが、その腕は肩から手首にかけて三角巾で吊るされており、その光景を見た光希に、画面の向こうの出来事は紛れもなく事実であったと叩きつける。
「ひびっきー、なんかこの子怖がってるんだけど。虐めてないよね? 」
「まさか。『最終試験』にも真実にも耐えてきた子だよ」
「じゃあなんか不安なのかな? どうしたの新人ちゃん」
 吊るされていない方の手をパタパタと振られ、光希はわたわたと慌てふためく。
「あの、怪我、大丈夫ですか? 撃たれた時、結構痛そうに見えました」
「へ? 何で知ってるの?」
 少年は数秒間コミカルな動きでぱちぱちと瞬きを繰り返した後、急に「あー!」と叫び声を上げた。
「まさか、『最終試験』で僕の事使った!? さいっあく、あんなかっこ悪いところ見せなくても良かったのに! ひびっきーのバカ! 鬼! 童貞!」
「先生に向かって何て事を。名誉毀損だよ」
「否定しないってことはそういう事なんだろ!」
「君もでしょ」
 日野川は、あんまり大人をからかうとろくな事が無いよ、と何故だか不満げに呟くと、わぁわぁと煩い少年を押しのけようとする。しかし、突っかかりそうになっていた少年は、日野川に触れられそうになった途端、まるで何事も無かったかのようにスッと身を引いて距離を取った。
(……? やっぱり、傷が痛むのかな)
 その不自然な動きに、一瞬にきょとんと首を傾げたものの、今まで既に何度も非常識な事態に遭遇してきたのだ。おちおち気にして等いられない。そういう物なのだと思う事にし、光希は改めて少年を見た。さらりとした水色の髪に、表情がコロコロと変わる幼い顔、丸く美しいエメラルドグリーンの瞳。先程意味の分からない暴言(?)を吐いてはいたが、やはりアイドルコースの先輩なだけあってその容姿はとても優れていた。
「初めまして。僕、10期生の騎島光希と言います。よろしくお願いします」
 丁寧に礼をした光希と、彼の胸元に留められた名札をまじまじと見つめていた少年は、やがてニカッと唇を引き、花のような笑顔を見せた。
「僕は7期生の早乙女永遠。今年でちゅーに! 永遠って書いてトワって読むんだよ。かっこいいでしょ」
 そう言うと彼は、アカウントを教えあったばかりのメッセージアプリのチャット画面に、握手代わりのスタンプを送り付けた。キラキラと光る目で、可愛らしくデフォルメされた犬がこちらを見ている。その顔が何となく永遠に似ているような気がして、光希は微笑んだ。永遠はそれを見て、満足気にピースサインをする。
「君、笑った顔は名前の通りだね。これからよろしくね、ひかりん!」
 昨日、絶望のさ中にいた筈の少年は、光希の目の前で、まるでステージの上に立つ憧れの父のように、輝く笑顔を見せていた。

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