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第50楽章『終止符』

 剣を掴んだ手から、徐々に力が抜けていく。暗転した視界のまま、身体が地面に向かって倒れる感覚だけがあった。
 西棟の炎上と命の安否に気を取られた光希は、その一瞬の隙を【略奪者】に突かれてしまったのだ。彼が黒い影に目にも止まらぬ速さで衝突され、地面に叩きつけられるさまが目に入った瞬間、翼は考える間もなく足を踏み出していた。光希が取り落とした短剣を素早く掴み、彼を庇うように立ち上がると、影に向かって大きく剣を振り被った。翼の目は異様な光を帯び、いつもの朗らかな冷静さは完全に欠けてしまっていた。彼は俊敏な動きで【略奪者】の動きを封じ込めると、我を忘れて次々と屠っていく。やがてヴィクトリアと翼の間に何も隔てるものが無くなると、翼はヴィクトリア自身にも真っ直ぐに剣先を向けた。
「貴方、そんな顔も出来たのね」
 ヴィクトリアはまるで翼を褒めるかのように穏やかに微笑むと、逃げるどころか自ら彼に歩み寄っていった。
「刺したければ刺しなさい。それでわたくしを殺せるとお思いならばね」
 その声に、翼の中で何かが切れた。もう話をしても何も届かないのだ。どんなに強力な【略奪者】よりも、彼女の方がいっとう恐ろしい。翼の前にいるのは、先生でも一人の女でもない。人に良く似た化け物だ。
「ボク達の全てを壊しておいて、どうして笑っていられるんだ。あなたのせいで、皆は……!」
 怒りに震える手をゆっくりと上げ、鋭利な切っ先をヴィクトリアに向かって降り下ろす。これで全てが終わるなら、いくら汚い血を浴びたって良い。そう思った。彼の持った鉛色は、少しも躊躇することなく、容易くヴィクトリアの体を切り裂いた。しかし──
「なんで……血が、出ない……?」
「ふふ、だから言ったのに。その剣ではわたくしは倒せない」
 確かにこの手に感触はあった。肉を切り裂く嫌な音も。それなのに、鎖骨から腹にかけて深く切られたはずのヴィクトリアの体は、まるで最初から何も無かったと言わんばかりに、全くの無傷だった。目を見開いたまま硬直した翼に向かって、ヴィクトリアは口の端を歪めて高笑いする。
「あはははは! 訳が分からないと言ったような顔ね。良いわ、教えてあげる。わたくしはね、貴方達が【略奪者】と呼ぶ物質を体内に取り込んで、一体化させたの。……だかラ、そんな武器じゃわタくしは殺せなィ」
 翼の眼前で、彼女の姿が徐々に人の形を崩していく。言葉を歌うような美しい声は、少しずつ少しずつ、ノイズがかかったように歪みはじめる。
「わタくしは、失敗作ヲ消去シなきゃいけナいの。だかラ、消えテ消エて。未来のタめに、消えろッ……!!!」
 かつてヴィクトリアだった化け物の、幾重にも重なる腕が、動けない翼目掛けて振り降ろされた。彼は一瞬の後に自らの死を覚悟し反射的に目を瞑る。しかし、幾ら待っても痛みも苦しみも襲ってこなかった。彼が恐る恐る目を開けると、そこには刃こぼれした短剣を盾に、必死で黒い腕を押さえつけている光希の姿があった。
「光希……! 怪我は……」
「大丈夫。まだ動けるよ」
 光希は芯の通った強い眼差しで翼に応えると、すぐさま前に向き直り、ヴィクトリアの腕をはね返した。
「一人にしちゃってごめん。学園長を元に戻して、一緒に命さんの所まで帰ろう」
「……! うん、そうだね。二人で帰ろう」
 翼が大きく頷くと、それを合図に光希は手に持っていた短剣を捨てた。物理的な武器で彼女を殺せないならば、光希達のすることはただひとつ。【声の能力】でヴィクトリアを救うのだ。今度こそ、この苦しみに終止符を打つために。

 二人が覚悟を決めた時、明けの三日月が煌めく東の空に一つの光が瞬いた。光は、彼らのよく知っている歌声を伴って、二人に加勢するかのようにこちらへ向かってやって来る。それは、飛び立って行った【救世主】たちの思いを乗せた、一点の曇りもない希望の光だった。

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 燃え盛る西棟の中で、それぞれ火傷を負った命と月夜は、それでも尚互いを睨みつけながら対峙していた。
「なるほど。学園の秘密を暴けないならば、それごと全て燃やしてしまおうという算段か。単純な考えだが、判断は悪くない」
「……何がおかしい。降参しねぇとこの火はどんどん大きくなるぞ。お前ごと燃やすくらいにな」
「流石、孤児院を全焼させただけはある。強い威力だ。だがね、死をちらつかせて私を説得しようとするのは、全くもって無意味だよ」
 月夜は目を伏せて自嘲気味に笑うと、こちらを警戒している命に向かって肩をすくめてみせた。
「私はヴィクトリア様の為ならば、地獄の果てにだって臆することなく堕ちてゆける。あの方が君たちを消すことを正義とするのなら、例えそれが本意で無かったとしても、私はあの方に付き従うまでだよ」
「……本意じゃない?」
 命が眉をひそめて繰り返すと、月夜はそっと目を閉じて壁にもたれかかった。彼女から、戦う意思は微塵も感じられなかった。
「記憶操作の装置も、薬の類も、燃やしてしまえば全て無になる。……どうか、あの方の内に潜む苦しみごと、全てを壊してはくれないか」
 その声があまりにも悲しそうに響くものだから、命は炎の球体を繰り出そうとしていた手を瞬時に下ろしてしまった。情に深い彼には、今の月夜を攻撃することなど出来なかった。
「どういう事だ。お前らの過去に、一体何があったんだよ。お前は全ての始まりを知ってるんだろ。教えろよ」
 【声の能力】を解除し、武器を捨てた命は、ただ真っ直ぐに月夜の方へと歩いていく。彼女は一瞬だけ驚いたような表情になったが、次の瞬間には今まで見せたこともない柔らかな微笑みを浮かべていた。
「ありがとう。聞いてくれるか、私達の後悔を」

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