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第51楽章『先生』

12年前の後悔

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 ヴィクトリアが三人の子供を教えるようになってから一年近くが過ぎ、季節はすっかり冬へと姿を変えていた。日々降り積もる真っ白な雪にも負けず楽しげに野原を走り回る子供たちを、窓の中から見つめながら、ヴィクトリアはそっと隣に座る父に視線を移した。
「どうしたんですか、お父様。今まであの子達に興味も示さなかったのに、急に預かりたいだなんて」
「いや、何。たまには私も子供たちと触れ合っておかなければと思ったまでだよ。それに、研究所の様子を見せてあげるのは子供たちにとっても良い経験になると思うんだが……どうかね?」
「どうって、それはとてもありがたい話だけれど、本当にいいの? お仕事、忙しいんじゃない?」
 眉をひそめながらヴィクトリアが尋ねると、父は普段の彼からは想像もつかないほど表情豊かに、大きく口を引いて笑ってみせた。
「それがね、ようやく研究していた薬が完成したんだよ。何度か試行実験をすれば、本格的に世に出せる」
「まぁ、おめでとうお父様。ねぇ、それはどんな病気を治す薬なの?」
 父の嬉しそうな様子を見て、ヴィクトリアの口調もやや彩りを含んだものに変わった。父は、そんなヴィクトリアにすまなさそうな顔を向け、小さく首を横に振る。
「残念だが、これ以上は情報漏洩になりかねないのでね。ヴィクトリアにも秘密だ。けれど、きっと世界を変える、素晴らしい成果になったと思うよ」
 真っ直ぐにそう言い放った父の、誇り高きを横顔を、ヴィクトリアは尊敬の眼差しで見つめた。まさかこの先に、どうしようも無い絶望が身を潜めていようとは、ヴィクトリアには知る由も無かったのだった。

 


 父の計画を知ったのは、全てが狂ってしまった後だった。人間の声のエネルギーと薬剤を反応させ、全知全能の力を与えるというその実験は、月夜・リク・ソラの三人を対象に、ヴィクトリアのあずかり知らぬ所で執行された。月夜に投与された薬剤は無害の反応を示したが、二人の少年達は身体の中で反発する新たな力に悶え苦しみ始めた。
「この子達に何をした……!」
 声を荒らげた月夜が、ヴィクトリアの父から二人を庇うように抱きしめる。しかし、その時には既に遅かった。
「あぁ、ついに、我らが悲願が叶ったぞ! 神をも超える、完璧な新人類の誕生だ!」
 取り乱し、気が触れたように途切れぬ笑い声を浴びせる彼。その声に比例するようにして、最初に壊れたのはソラだった。ズキズキと痛む頭を抱え苦しげに唸っていた彼は、ある瞬間ぴたりと動きを止めた。すると、まるでその時を待っていたと言わんばかりに、彼の皮膚の内側から、蠢く黒い影たちが皮膚を突き破って飛び出してきた。
「なっ……同調に失敗しただと……?」
 突然変異を目にし明らかに声色を変えた父は、一度悔しげに舌打ちをすると、白衣の内側からナイフを取り出しソラへと向けた。
 月夜とリクは、あまりの恐ろしさに動くことすら出来ず、ただ震えながら友が怪物になっていく姿を凝視していた。

「先生、助けて……」

 たった一瞬で砕け散った幸せな世界。その真ん中で、いつも太陽のように笑っていた彼女の名前を、月夜は何度も何度も呼んだ。出口の見えぬ暗闇の中で、その声だけは、確かに彼女の元まで届いた。

「月夜ちゃん、リクくん……!」
「ヴィクトリア先生!」
 研究所に帰ってきたばかりのヴィクトリアは、月夜の叫び声を聞いて死に物狂いで二人の所へ駆け込んだ。もう大丈夫とばかりに強く抱きしめると、ヴィクトリアは不意をつかれ驚いている父の手元からナイフを奪い取った。
「な、何をするんだヴィクトリア……! そいつは同調に失敗した出来損ないの化け物だ。早く始末しなければ、どうなることか!」
「皆のことを騙して、苦しめて、こんな姿にまでして。私の大事な生徒たちを、よくも……!」
 ヴィクトリアの掴んだナイフが、白衣を真っ赤に染め上げた。一瞬の出来事だった。父は大きく目を見開き、復讐に燃える娘の姿を捉えた後、力なくその場に崩れ落ちる。
「先生!」
「ごめんね、皆。お父様の異変に、気がつけなくてごめんなさい。ソラくんの事は、私が命に替えてでも元に戻してみせるから」
 実の父親の血で濡れたナイフを捨て、ヴィクトリアは無防備なまま、黒い影に飲み込まれたソラの元へと歩いて行く。怖くなどなかった。彼を救えるのなら、このまま死んでしまっても構わない。ヴィクトリアは影に身を委ねるように、そっとソラに手を伸ばした。
──その時。
 彼女のすぐ側を、閃光が駆け抜けた。それは全身に不思議な光を帯びたリクの姿だった。
「先生、駄目だよ。先生みたいな優しくて凄い人が、死んじゃうなんて嫌だよ。なぁ、ソラ。お前もそうだろ? 先生を殺したくなんかないだろ?」
 柔らかな口調で影に語りかけるリクは、そのまま身体中を包む光ごとソラに触れる。二人が重なった場所から、目も眩むような純白の光線が溢れ出す。
「先生、俺何だか不思議なんだ。ソラと比べたら、出来の悪い俺だったけどさ、今なら何でも出来そうな気がする」


 最後の最後、そう言ってこちらを向いたリクは、満足そうに微笑んで光の中に消えていった。

 次の瞬間、辺りは彼らを爆心地とした爆発に巻き込まれ、ヴィクトリアに静寂が訪れた。

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「目を覚ました時には、私とヴィクトリア様を除いて、研究所にいた人は皆死亡していた。爆発によって薬剤──お前たちの【力】の元となったウイルスは地球上に蔓延し、その後十数年に渡り気づかぬうちに人々を侵し続けた。それが、私たちの背負ってきた罪。……だからヴィクトリア様は、罪の残り香である君たちを集めて閉じ込めて、【力】を持つ人間がいなくなるその日まで、虚しい殺戮を続けようとしている」
 燃え盛る部屋の中から微動だにせず、月夜は淡々とそう語った。命もまたその場から動けないまま、彼女から目を逸らさずにいた。
「殺す以外に、方法は無かったのか?」
「今まではね。……でも、今はもう違う。日野川響希に使用した薬を更に改良して、【力】を完全に消す解毒剤を作ったんだ」
 月夜はそこで言葉を途切らせ、ふっと寂しげに微笑むと、静かにため息をついた。
「もっとも、完成した時にはもう、引き返せないところまで来てしまっていたけれどね。……私はいつもそうだ。肝心なところで何も出来ない。あの日だって、あの子たちの一番傍に居たのは私なのに、先生に助けを乞うことしか出来なかった。私は弱い、弱い存在だ」
「……そんなことねぇよ」
 炎の爆ぜる音の隙間、ぽつりと発せられた声に、月夜はハッと顔を上げた。彼女を捉えて離さない赤い瞳は、まるで月夜を受け入れるかのようにゆっくりと細められる。
「その薬、俺含め欲しい奴まだすげぇ残ってんだけど。今からでも遅かねぇだろ、せんせ」
 差し出された手は、まだ小さく不恰好だったけれど、月夜をあの日の暗闇から救い上げるには十分すぎるほどの光だった。
「……君は、救世主と呼ぶに相応しい子だ」
 東の空に向かって、二つの影が走り出す。もう少しで、彼らにも朝が来る。

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