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第49楽章『星が落ちたあと

 東の空が色を変え、草木が朝露を灯している。門に向かって駆け出した光希と翼は、前方からゆっくりと歩いてくる影と、優しい歌声に気がついてふと足を止めた。二人の視線の向こう側には、風に髪を靡かせた理沙子の姿がある。呟くように音を紡いでいた彼女は、こちらに気がつくと顔を上げ、哀しみと安堵が混ざりあったような微笑みを浮かべた。その見た目が──正確に言えば、彼女の左目が、今まで見たことのない色に染まっていることに気がついた光希は、理沙子を凝視したまま息を飲み込んだ。
「先生、その目……」
 見慣れた桃色の隣は、まるで空に昇って行った彼のような色合いに変化していた。だが、理沙子は驚くどころか納得したように小さく首を降る。
「あの子が、私に力を遺してくれたのよ」
 噛み締めるようにそう言って、理沙子はおもむろに片手を上げる。そして、いつの間にか小さな切り傷が出来ていた光希の頬を、そっと包み込んだ。理沙子が再び歌い出すと、声に連動するようにして彼女の掌から小さな光が溢れ出す。その輝きは、少しずつ光希の傷を癒してゆき、あっという間に跡形もなく消え去った。魔法のようなその光景をただ眺めていた翼は、理沙子が手を離したと同時に我に返ったように声を上げた。
「傷が消えた……? どうして、先生は【救世主】じゃないのに……」
「私にも分からないわ。どうしてあの子から力を受け取ることが出来たのか。でも今は、理由を考えるより、この力で少しでも多くの子どもたちを助けてあげなくちゃ」
 目を細めて、理沙子は今度こそ顔いっぱいに笑みを深めてみせた。未だ藍が落ちる西の空の下、今も尚傷に苦しんでいる沢山の少年たちがいる方角に足を向け、理沙子は二人を振り返る。
「大丈夫。あなた達ならやれるわ。……子どもたちを助けたら、必ず私も向かうから」
 昇り始めた太陽の光が、理沙子の目を宝石のように照らしている。光希と翼は互いに顔を見合せた後、理沙子に向かって力強く頷いた。
「ありがとう。先生も、気をつけて」
「行ってきます」
 冷たい空気をはらうように大きく手を振って、二人は更に光待つ方へ進んで行く。明けの三日月が薄らと浮かぶ天の下で、二人は遂に彼女と対峙した。黒いヴェールの下で怪しげに吊り上がる真っ赤な唇と、彼女の背後でモヤのように蠢く【略奪者】の闇色が、強いコントラストを放っていて、今にも目が眩みそうだ。
 でも、光希はひとりじゃない。支えてくれる温もりをすぐ側で感じながら、彼は怯む足を奮い立たせ、ヴィクトリアの目の前にしっかりと立ちはだかった。
「……僕たちの明日を、返してください」
「あら、随分と威勢が良い事ね」
 戦場の中だと言うのに、ヴィクトリアはやはり涼しげに微笑んだまま。小さな子どもの戯言だと生暖かくからかうように、口元に手をあてて首を傾げた。
「駄目よ。わたくしは過ちを、貴方たちという間違った存在を消し去って、今度こそ前に進まなくてはならないの。だから、ごめんなさいね」
 優雅な手つきでヴィクトリアが腕を振ると同時に、ゆらゆらと漂っていた【略奪者】が一斉に襲いかかってきた。咄嗟のことに足が動かなくなった光希だが、間一髪のところで何かに操られたような感覚がして、影を避けることが出来た。思わず隣を見ると、やはり翼が力を使って光希を助けてくれていた。
「ありがとう、翼くん」
「良いんだよ。ボクはその為にいるんだから。……次が来る。今度は気をつけて」
「うん!」
 休む暇も与えずに飛びかかってくる影を次々に避けながら、光希は少しずつ前に進んでいく。やがて、暴れ回る【略奪者】の根元を見つけた彼は、手に持った短剣を勢い良く突き刺した。その瞬間、当たりを覆っていた黒は途端に崩れ、数秒と経たぬうちに灰になって消え去っていく。しかし、そのやり方で消すことが出来たのは、ヴィクトリアが飼い慣らしている【略奪者】のほんの一部。彼女の後ろでは、先程倒した化け物の何倍もの質量を持つ影が、変わらず蠢いている。
「これは、体力勝負になりそうだね。取りこぼしたのはボクが片付けるから、光希は前に進むことだけを考えて」
「分かった」
 もう一度気を引き締めて、光希はヴィクトリア目がけて地面を蹴る。その時だった。何処かで爆発音が聞こえた。顔を上げると、西棟の一角が燃えていた。
「命さん……」
 龍のように舞い襲る炎を見つめながら、思わず光希はそう呟いていた。その口に出したところで、予感は確信に変わった。あの人だ。爆発を起こしたのはあの人で間違いない。光希はぎゅっと服の裾を握りしめると、嫌な想像が頭中を支配してしまう前に踵を返した。
「彼は随分とお転婆なのね」
 ヴィクトリアは尚も落ち着いた素振りで声を上げると、動きが鈍った光希にも容赦なく怪物の群れをぶつけた。永久に晴れぬことは無いと思ってしまいそうな絶望の色が、彼の眼前いっぱいに広がっている。
「光希! 一旦引いて! 戻ってくるんだ!」
 耳鳴りの向こうで、翼が叫ぶ声が聞こえて来た。しかし、その声はどんどん靄がかっていき、遂に光希の視界は真っ暗になった。

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