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第47楽章『赦しの時間

 あの日のことを、忘れたことなど無かった。
 五年前、監獄のようなこの場所で使役されていること拒み声をあげた響希は、仲間たちから見れば英雄に映っただろう。だが、実際に彼に憑依したのは死神だった。あまりに純粋無垢過ぎるが故に、何もかもが甘い判断と杜撰な計画で構築された作戦は、あっという間に仲間を殺してしまった。笑顔の教師たちは、何も厭わずに叛逆者を次々に屠っていった。響希を信じ、彼を庇い亡くなった仲間もいた。運良く生き残った者も皆意識を失い、響希を学園から逃がさない為の人質として地下に囚われた。そうして残ったのは、真っ先に責任を負わねばならないはずの響希だけだった。
 歪な羽に支えられ、上空の風に運ばれながら、響希は無意識に唇を噛み締める。自分を信じたせいで目を閉じた仲間たち、そして、彼らを救い出す為の過程で死に追いやってしまった子どもたち。今こそ、その全てに対して響希の出来る最後の贖罪を果たす時だ。
「もう少しだけ、僕を人でいさせてくれる? 奴らの中心に届くまで」
 響希の中で蠢くものが、こくりと頷いたような気がした。勿論、中に潜む怪物の種を見ることは出来なかったけれど、【彼ら】は響希を侵食するスピードを少しばかり緩めてくれるようだった。
「……ありがとう」
 響希は小さく呟くと、眼下で戦う少年たちをいとも容易く乗り越えて、かつて仲間の姿をしていた怪物たちがひしめく黒煙の中心へと落ちていった。落下していくそのさなか、響希は身体の内から自身の力を全て解放した。それは、【略奪者】を封じて無に帰す力。そして、【略奪者】に侵食された自分自身をも殺す力。

 音が、止まった。

 奏で続けられてきた最悪の交響曲が、見えぬ壁にぶつかったかの如くぴたりと凪いだ。怪物は動きを止め、少年たちの攻撃が黒々とした塊を包み込む。【略奪者】は、触れられたところからじわりと空気に溶けるようにして消えていく。朧気になっていく意識の中で、響希の瞳に仲間たちの顔が次々と映っては霞んでいった。
「行こうか、皆」
 今度こそ、本当にここから逃げられる。皆で手を取って、誰一人欠けることなく、仲間の元へ。
 数多の少年たちが見守る中で響希と【彼ら】は淡い光となって掻き消えた。

 

 優しく体を揺り動かされ、響希はそっと目を開けた。ふわふわと心地の良い空気が周りを取り囲む視線の先には、あの時の姿のままの仲間たちが揃っていた。
「ありがとう、響希」
「僕らの為に、戦ってくれて」
「たくさん辛い思いをさせたね」
「だけどもう、安心していいんだよ」
 柔くあたたかな言葉に、響希は喉が熱くなる感触を覚えた。
「うん……ごめん、皆……ありがとう」
 嗚咽混じりに涙を拭う彼に、仲間たちは次々と手を差し出す。ひとりぼっちで戦ってきた小さな勇者は、その日希望の扉の先へと迎えられたのだった。

 

 白み出す空、髪が解けるのも構わず陽が昇る方角へ向かって走っていた理沙子は、幾つもの光の線が空へと舞い上がる様を見ていた。それが何なのかを知っている彼女は、途切れる息を整えながら、必死で空へと手を伸ばす。
「……頑張ったわね」
 震えた声が白い息と共に宙へ広がる。この声が届きますようにと願いながら、星に近づく光を讃えた。
「私の自慢の弟。大好きよ」
 泣かないと決めていたはずなのに、途中から言葉は崩れ、息が浅くなっていく。すると、火照る目元を覆いながら地面に座り込んでしまった理沙子の元に、光の一筋がすぅっと寄って来た。それは静かに理沙子の周りを旋回した後、もう一度空へと昇っていった。
「最後に、私の所へ来てくれたのね」 
 そう呟いた彼女の声に、答えてくれる音はもう存在しない。けれど、顔を上げた彼女の片目には、確かに彼がいた証として、眩い月の色が宿っていた。それは彼が伝えてくれた、理沙子に贈ってくれた、新しい力。
「あの子達のことは、私に任せて。ゆっくりお休みなさい」
 灯篭のように魂が昇っていく。美しい生命が天に還っていく。それを見守りながら、理沙子は再び歩き出した。彼の好きだった歌を口ずさみながら。

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