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第46楽章『残された僕ら』

 命は、一度も後ろを振り返らずに歩き続けていた。たった一度でも寮の方を向いてしまえば、後悔の念が押し寄せて動けなくなってしまいそうだった。だから、前を行く響希の背中を追いかけながら、ただ戦場に向かって歩いていた。
(……こいつは、仲間を失ってから5年間も、ずっとひとりで生きて来たんだな)
 線の細い小さな身体だった。見た目だけならば、命よりずっと幼い。そんな頃からずっと、彼はひとりだったのだ。もし命が同じ状況に置かれていたならば、彼は耐えられただろうか? 気丈に振る舞えただろうか? 言葉にするまでもなく、答えはNoだ。
 響希がしてきたことを肯定するつもりは毛頭ないが、命は彼の強さに、少しだけ救われたような気がしていた。もう誰の肩にも縋れない、自分が支えていかなければならないと思っていたが、彼になら、この勇敢な大人になら、少しは甘えても良いのだろうか。
 命はほんの僅かに肩の力を抜くと、白み始めた空の向こうに、黒い化け物の姿を捉えた。大丈夫。これを倒したら、きっと元の日常に戻れる。
「僕が着いてこれるのはここまでだ。地上は君たちに任せたよ」
 響希は立ち止まり、静かに呟いた。命が頷くその横で、彼は幼い少年の姿から徐々に青年の容姿へと変貌を遂げる。それはまるで、失った5年間を埋め合わせる為、時計の針を無理やり指で回しているかのような、歪な成長だった。やがて、命の隣にすらりとした長身の男が隣に現れると、今度はその背中を突き破って、黒く大きな羽が伸び始める。内側から身体を切り裂く嫌な音と、その度に軋む彼の悲鳴が、命の耳にもはっきりと届いた。
 ほんの数秒間である筈の出来事が、何時間にも感じられる。命は響希が叫ぶ度に、思わず駆け寄りそうになる心をグッと堪えて拳を握りしめた。
 響希は、自分がどうなっても止めないで欲しいと命に懇願していた。これは報いだから、とも言っていた。けれどそれを、とても晴れやかな顔で言うものだから、命は何一つ言い返すことが出来なかった。こうしている間にも、響希の中に潜んでいた【化け物】の種は、体の中をぐるぐると旋回しては、抑えきれなくなって外へと飛び出す。鴉のような羽になり、或いは枯れ枝のような鳥の足になり。その身に悍ましいものを背負った響希は、汗の滲む顔を命に向け、やはり笑っていた。
「早く行きな。僕も、この身体に慣れたらすぐ……」
「まだ、諦めるなよ。あんたも」
 彼は、自分と違って命は未来を選べるのだと言ってくれた。だから、命は響希の未来も、そうであって欲しいと願わずにはいられなかった。堪えていたものが溢れ出すように、泣きそうな声で叫んだ命の姿を見て、響希はもう一度嬉しそうに口の端をあげた。
「君に、そんな風に言って貰えるなんてね」
 それだけを言い残し、彼は空へ舞い上がった。満月のような双眸は、もう命のことなど見てはいなかった。それは憎しみの色を宿らせて、真っ直ぐに【同族】の元へと飛び立っていく。命は必死で涙を堪えると、彼の飛翔を辿って走り出した。

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 周囲の音は、もう随分前から聞こえていない。悲しみも苦しみも怒りも、この場所ではすっと遠のいていく。翼の頭の中にあるのは、まず第一に死なないこと。それから、目の前の黒を一つでも多く倒すこと。終わりの見えない戦いの中では、そうして感情をシャットアウトしていなければ、とてもじゃないがやり切れなかった。
(案外、一番薄情なのはボクだったりして)
 紫乃がまだ目を開けていた頃、彼が良く言っていた言葉。自分は薄情だから、と、冷めた瞳で呟いていた。けれど、蓋を開けて見れば彼の原動力は紛れも無い愛だった。紫乃だけでは無い、京も郁も永遠も命も統也も光希も、いつだって主軸は誰かのために、愛するもののために。彼らはいつだって無条件に救世の心を持っている。
 それに比べ翼はどうか。もちろん、皆を守りたいと思う気持ちはある。しかしそれは、仲間ならば誰にでも等しく抱く感情に過ぎなかった。愛で全てが変わるのならば、自分は今頃ここには居ない。愛したからこそ上手くいかず、それ故に失うものだってあることを、一番よく知っているのは翼だった。
(それならボクは、感情で動くのは嫌)
 泣くのは、仇を討ち取ってからでも遅くはない。それよりも今は、誰でも良いから一人でも多くの生命を無駄にしないことだ。視界の端に、ふわりと茶色の髪が舞い、小さな体が懸命に声をあげている。
 翼は彼を強く信頼していた。だからこそ、盲目になって彼だけを庇うことはしなかった。薄情な行為だろうか。否、これこそが彼の愛だった。退場が許されない背水の陣で、それでも前に進み続けなければならない時、心動かされる行動は枷になりかねない。
 ふとした油断で離れ離れになってしまうこと、共に消え去ってしまうこと、一人だけ取り残されること、その全ての結末を見てきた翼には、これ以上何処にも踏み込むことは出来なかった。
 もし、この愛情に出来ることがまだあるならば。彼はきっと、彼ならきっと、最善を選べるはずだ。

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