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第45楽章『記憶』─後

 扉を閉めた瞬間、体の力が一気に抜けていくような感覚が命を襲った。今は永遠が生きている事を第一に喜ばなければならないのに、強い哀しみが心の奥にこびりついて離れない。
「結局言わなかったの? 忘れてしまったとしても、彼なら受け入れてくれると思うよ」
「……ここに来る前のことは、なんとなく覚えてるみたいだったんだよ。施設にいた頃、あいつには好きなやつがいて、そいつのことを一番に思い出してた。言えるわけねぇだろ?」
 掠れた声の届く先には、白い壁にもたれかかって目を伏せる響希がいた。彼は命の話を黙って聞いていたが、やがてゆっくりと目を開けると、深い息とともに言葉を吐き出した。
「本当、見かけによらず繊細で優しいね。僕は心配だよ。君は君自身を大切にしてないように見える」
「そりゃあんただって一緒じゃねぇか」
 吐き捨てるように命が言うと、響希は心外だと言わんばかりにぱちぱちと瞬きをした。そして、まるで幼い子どもに言い聞かせるかのように眉を下げて微笑む。
「全然違うよ。僕と違って、君はまだ選べるじゃないか。これから先、永遠くんの記憶が元に戻る日が来るかもしれない。その時に君が隣にいなかったから、それこそ彼は悲しむよ」
 自分を大切にすることは、永遠を大切にすることと同じなのだと、そう響希は言った。今まで散々こちらを振り回してきた人間にそんな事を言われるのは些か不服だったが、その言葉は命の鬱屈とした心の靄をいくらか晴らしてくれた。
「わかったよ。センセーの言うことは聞いとけば良いんだろ。あんたに心配されなくても、俺は生き続けてやるぜ」
「うん、満点」
 響希は心底可笑しそうに肩を揺らしながら笑うと、不意に琥珀色の瞳を窓の外に向けた。丑三つ時もとうに過ぎ、もう少しで日が昇る。先程まで戦っていた少年たちは一度寮に引き、休んでいた少年たちと交代したばかりだった。翼も光希も今頃黒煙の傍にいるだろう。命を部屋まで送り続けた後、響希もそこに合流するつもりだった。しかし、その事を告げると、命は小さく首を振った。
「俺はまだ戦える。連れて行け」
「君……さっきまでの話をちゃんと聞いてたら、そんな答えは出てこないと思うんだけど」
「違う。あんたが思ってるような無理な戦いはしねぇよ。……夜明けまでに終わらせる」
「勝率は? 本当に出来るの」
「100だ。勝てる」
 命の頭に、明確な計算式が敷かれているとは到底思えなかった。だが、彼の発する言葉からただならぬ熱気を感じた響希の思考は、その『勘』に賭けてはみないかと囁き始める。少し前までの自分ならば絶対に考えられないことだったが、どんな力でも使わなければ太刀打ち出来ない今の状況で、彼の奇跡を信じてみるのは、案外悪くない策だと思った。
「そこまで言うなら任せるよ。言っておくけど、僕が手伝える時間はもうほとんどない。泣きたい時に泣きついてきなよ」
 澄ました顔を崩し、にやっと口角を上げた彼を見て、命はようやく初めて響希という人間に出会えた気がした。彼のことを、てっきり京のようなしっかり者で穏やかな人物だと思っていたのだが、実は案外そうでは無かったのかもしれない。例えば、命のように無鉄砲で言う事聞かずの少年だったことが、彼にもあったのかもしれない。
 命はそっと息を飲んで、彼について尋ねる代わりに、性悪そうな笑みを返すことにした。
「んなことするわけねぇだろ。バカかよ」
「バカにバカって言われたくないね」
 二人は肩を並べ愚痴愚痴言い合いながら、再び戦場へと戻る。隣に立った時、響希は、一年前は同じくらいだった命の身長が、もう随分と高くなっていることに気がついた。だが、敢えて何も言わずに目を逸らし、代わりに彼を送り出すような形で大きく背中を叩いてみせたのだった。

 

 

 窓の外に見える二つの影を、永遠はぼうっとした表情で見送っていた。様子を見に来た理沙子が声をかけても、気がついていない様子だった。いつ見ても騒がしい彼のを、手に負えない子どもだと思ったこともあったが、いざこんな姿を見せられると、胸が痛くて堪らない。
「もう少し、休んでいた方が良いわ」
「……! ごめんなさい、気づかなくて。えーと、先生?」
「ふふ、そうね。先生。あなたからそんな風に呼ばれたことは無かったけどね」
 あんなに先生と呼んで欲しいと言ったのに、彼が我先に『りっちゃん』なんて言うから、今では学校全体でも先生と呼んでくれている子の方が少ないじゃない。可愛らしく文句を言う理沙子に、永遠も少しだけ楽しそうに頬をあげた。
「でも、そっちの方が嬉しそうだよ。……ここに来てから、僕にはいっぱい友達が出来てたんだね」
「そうよ。さっきここに来てくれた子は、特にね。あなたにとっても大切な人」
「……そっか。それなのに忘れちゃったなんて、僕あいつを傷つけちゃったかも。ねぇりっちゃん、いつか思い出せるかな」
 そう言ってこちらを向いた、縋るようなその目の奥に、かつてのやんちゃな彼の姿が見えたような気がして、理沙子は深く深く頷いた。
「思い出せるわ。思い出せるまで、私もあの子たちも、ずっとあなたの傍にいるわよ」
 大切なものを失った、或いはこれから失う二人は、この夜が明けるのを、寄り添いあいながら待っている。

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