top of page

第44楽章『記憶』─前編

 微睡みの中で、永遠は妙な違和感を覚えた。心はどこまでも清々しく、心配事など何一つ無いはずなのに、得体の知れぬ澱みが奥底に残っている。そんな気分だ。
「施設から出て、それで……」
 全寮制の音楽学校に進学したことまでは覚えているが、その事実が脳にこびりついているだけで、記憶はあやふやなままだ。施設にいた頃の事は、まだ少しは覚えているのだが。
 永遠は、あまり同性の子と仲良くなれなかったから、男友達の顔は誰一人として思い出せなかった。しかし、よく遊んだ少女たちの顔は、何人か脳裏に浮かんできた。
「いのりちゃんに、のんちゃん、あと、早紀ちゃん。……そうだ、僕、早紀ちゃんに力を使っちゃったんだ。あの子を守ってここに来たんだ。だったら、また見つけなきゃ。もう一度会って、僕のこと思い出してもらわないと……」
 そこまで呟いたところで、永遠はふとこちらに降り注ぐ視線を感じとった。慌てて顔を上げると、彼をここまで運んで来てくれた目つきの悪い少年がじっと永遠を見下ろしていた。そういえば、付き添ってくれたのに、まだお礼も言っていなかった。誰だかは分からないが、きっとクラスメイトか何かなのだろう。永遠はパッと人懐っこい笑顔を作ると、少年の方に向き直った。
「ごめん。助けてくれたのに、お礼言ってなかった。本当にありがとうね。えと、君は僕の、クラスメイト、かな?」
「そうだ」
「あぁ、やっぱり! 僕、男友達なんてほとんど居なかったから、なんか嬉しいや。えーと、それで、申し訳ないんだけど、名前……」
「時雨 命」
「時雨くん。これでいい?」
「そんな風には呼んでなかった」
 少年は、いちいち不機嫌そうに眉を寄せながら、永遠の問いにぶっきらぼうに答えた。もしかすると、あまり仲の良い間柄ではなかったのかもしれない。それなのに、体を張って助けてくれたのだとしたら、彼は見かけによらず優しいんだな、と永遠は思った。
「あはは、ごめん。えーとじゃあ、みこ……ってのはどう? 男の子なのに、可愛すぎる、かな?」
 睨まれやしないかとビクビクしながら永遠が尋ねると、意外にも少年は目を丸くした。数秒、信じられないと言わんばかりに永遠を凝視した後、なんと初めて笑顔を見せてくれた。
「いや……それでいい」
 笑顔と言っても、口の端を変に歪ませただけの表情で、見る人によっては怖い顔に見えたかもしれない。けれど、永遠には何故か、それが彼なりの笑顔なのだとすぐに分かった。それだから永遠は途端に嬉しくなってしまって、傷を負ったばかりだというのに、思わず彼に向かって手を差し出していた。
「じゃあみこって呼ぶね。僕たち、前はそんなに仲良くなかったかもしんないけどさ、これからは仲良くしようぜ」
「……お前ってやつは」
 命はそうぽつりと零すと、何かを堪えるように唇をかみ締めて、強く永遠の手を握った。記憶が無くなっても、体は覚えているのだろうか、その温もりは、何だかとても懐かしかった。
「君たちの『任務』が落ち着いたらで、いいんだけど」
 永遠は、少年たちの会話の端々から聞き取った会話を思い出しながら、ゆっくりと話し出す。
「この学校のことや、ここに来てからの僕のこと、教えて欲しいんだ。ちょっとずつ、思い出していきたいから」
「そんなの、幾らでも話してやるよ」
 だからあと少しだけ待ってろ、と、命は永遠の手を離す。すっかり安堵した永遠は、小さく首を降って、つけ加えるように口を開いた。
「あとさ……女の子を探すのを手伝って欲しいんだ。早紀ちゃんって言うんだけど、僕にとって一番大切で、一番好きな子。その子に会えば、記憶を取り戻す手がかりが見つかるかもしれない」
 彼女の事を、こんな風にはっきりというのは初めてだ。からかわれたりするのだろうか、と思って頬をかいていると、命はしばらく立ち止まり、何かを考え込むように下を向いた。
「みこ……?」
「あぁ、悪い。……分かった。手伝う」
 どうしてだろう、そう言って立ち去る命の背中は、少しだけ寂しそうに見えた。永遠は、彼のことは何も覚えていなかったけれど、その瞬間、早紀の話をしてしまったことを後悔した。気付かぬうちに溢れた涙がひと粒、真っ白なシーツの上にぽたりと落ちる。
 永遠は、忘れてはいけないものを忘れてしまったのだと、静かに悟ったのだった。

「キ……」
 どこまでも闇の広がる外と、暖かい中を隔てた硝子の窓に寄りかかり、水色の丸い鳥が永遠を見つめている。しかし、彼の目にその姿が映ることは、もう一生無いだろう。
「きゅ……」
 悲哀に満ちた鳴き声を最後に、鳥はすぅっと姿を消す。主の力が衰え使命を失った鳥達はやがて、遠く遠く遥か先の、あちらの世界へと還って行くのだろう。早乙女 永遠は、その夜を境に【救世主】としての役目を終えた。

bottom of page