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第40楽章『   』

12年前・記憶の断片

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 研究所の職員達と共に昼食を終え、いつも通り二階の教室へと戻ったところで、ヴィクトリアは教室の中がやけに静かであることに気がついた。慌てて扉を開けると、そこはもぬけの殻。休憩時間はとっくに過ぎているというのに、あの二匹のお転婆小僧は一体どこへ行ってしまったのだろう。
「……全く、あの子たちは」
 ヴィクトリアはそう呟くと、怒りと笑いを丁度半分ずつ混ぜたような表情で一気に階段を駆け下りた。その音に驚いたのか、研究所から複数人が何事かと顔を覗かせる。
「ヴィクトリア、どうしたの?」
「子どもたちがいないの。もう、きっとまた外でサボっているんだわ。呼び戻してくる!」
 黒いスカートをはためかせながら、風のように走っていくその姿は、二十過ぎの教師とは到底思えぬほどに軽やかで、見送る人々は互いに微笑ましく顔を見合せる。
「すっかり先生の顔になったと思っていたけれど、こうして見るとまだまだ若いわね」
「あの雰囲気じゃあ、きっとミイラ取りがミイラになるな」
 彼らは口々にそう言い合うと、風に舞う花弁のように自由な後ろ姿を満足気に眺めた。
 そして、そんな視線を向けられているとは露知らず、ヴィクトリアは一度も足を止めることなく建物の裏手にある野原へと駆けていく。彼女の読み通り、そこには手足を広げて草むらに寝転ぶ二人の少年の姿があった。目を閉じ胸を上下している様子から、二人とも夢の中にいることは明白だ。心地良さそうで無垢な寝顔を眺めていると、途端に怒る気も失せてしまって、ヴィクトリアは小さくため息を吐きながら彼らの隣に腰を下ろした。
「食べてからすぐ寝ると、体に良くないわよ」
 独り言のようにポツリと呟くと、隣で掠れたような呻き声が聞こえ、ついで草と布が擦れるような音がした。少年たちが目を覚ましたのだ。
「うぅん、誰……?」
 瞼を擦りながら各々のペースで起き上がる二人を見て、ヴィクトリアはこれみよがしに声をあげる。
「休憩時間はとっくに終わっているのに、まだのんびり眠っているのはどこのネズミさんたちかしらね?」
「え……っうわっ! 先生!? なんでいるんだよ! って言うか、時間……あぁっ!」
 栗毛の少年──リクが飛び上がるように叫ぶと、ワンテンポ遅れて彼の隣にいた紺色の髪の少年──ソラもサッと顔を青ざめた。ヴィクトリアは、そんな二人の様子に心の中ではくすりと笑いつつも、顔だけは厳しい光を絶やさなかった。
「ご、ごめんなさい先生。いつの間にか寝ちゃってた」
「僕も、ちゃんと時計を見ていませんでした。すみません」
「ちゃんと謝れるのは良いことね。でも、遅刻は遅刻。罰として今日の宿題をひとつ増やします」
「「えぇっ!?」」
 少年たちは、あからさまに不服そうな表情で叫ぶ。すると、その反応を待ちわびていたかのように、ヴィクトリアは咄嗟に手を広げて見せた。
「なんてね、冗談よ。せっかくだから、今日はここで授業にしちゃいましょう」
「良かったぁ。でも、ここで授業って?」
 胸を撫で下ろしたあと、きょとんと首を傾げるリクに、ヴィクトリアはにやりと笑って返す。
「今日の授業は虹を作るわよ」
「虹? 七色の? すげ、作れんの!?」
 目を満月のように丸くして感嘆するリクの隣で、ソラは呆れたように肩を竦めた。
「この前授業でやっただろ。光の屈折って。……授業の復習も兼ねた実践ってことですよね、先生」
「ソラくん、大正解」
 ヴィクトリアは大袈裟に口角をあげてソラの頭を撫でる。ソラは少し照れくさそうに、けれど満更でもなさそうに、上からリクを見下ろした。
「お前ももっと勉強しろよ」
「なっ! た、たまたま忘れてただけだ! 先生、俺も今度はちゃんと覚える」
「そうね、リクくんも頭は良い子だから、真面目に聞いていたら直ぐに覚えられるわ。……それじゃあ二人とも、研究所の裏からホースを引っ張ってきて。太陽がよく当たる場所を選ぶのよ」
 ヴィクトリアがそう言うやいなや、少年たちはパッと立ち上がり我先にと駆けていってしまった。たった二人だけのクラスメイトだけれど、ヴィクトリアはこの二人以上に深い絆で結ばれている子どもたちを見たことがなかった。社交的で活発だが少しいい加減なところのあるリクと、真面目で冷静だが積極性に欠けるところのあるソラは、性格こそ正反対なものの、互いを助け合い高めあえる良き友人にして良きライバルだ。
 ヴィクトリアが感傷的な気分に浸りながら、競い合うようにして走っていく二つの足音を聞いていると、不意に頭上に影が落ちた。ついで、ややハスキーな少女の声が降ってくる。
「先生、なんか楽しそうだ」
「あら、月夜ちゃん、おかえりなさい」
 ぱちりと目を開けて返すと、目の前の端正な顔立ちがそっと微笑んだ。ピシッと綺麗に着こなされたセーラー服に、これまたひとつの後れ毛も無い完璧なポニーテール。少女とは思えないほど覇気のある勇ましい立ち姿。研究所にいるもう一人の子ども、禎 月夜である。だが、子どもとは言っても、彼女はもう高校生。丘を下った先にある電車で隣町の高校まで通っているから、ヴィクトリアが直接教えているわけではない。帰宅した彼女の宿題を見たり、テスト前に苦手科目を教えたりする、彼女にとってヴィクトリアは、言わば家庭教師のような存在だった。
「先生に教えてもらった微積の応用、テストに出たよ。ばっちり解けた」
「良かったわ。って言っても、月夜ちゃんは元から優秀だから、私が教えたことなんてほとんど無かったけれど」
「そんな事ないよ。先生の説明はすごく分かりやすい」
 青空に負けないくらい爽やかな口ぶりで、月夜はサラッとそう返す。見目はクールだが、こうして笑うととても可愛らしく見える彼女のことが、ヴィクトリアは本当の妹のように好きだった。
「テストは今日で終わり?」
「うん。これから三者面談に入るから、もうしばらく昼までで帰れるよ」
「本当? 嬉しいわ」
「……私が手伝ったら、あいつらを教える手間が省けるから?」
「ふふ、バレた?」
 大袈裟な口調で小芝居を広げ、二人は目を合わせて笑いあった。と、ちょうどその時、道の向こうからホースを引き伸ばしてくる少年たちの姿が見えた。
「あいつら、何やってんの?」
「今から虹を作るのよ。月夜ちゃんも一緒にやる?」
「うん。懐かしいなぁ。私も小学生の時お父さんとやったよ」
 パラパラとスカートについた草をはらい、ヴィクトリアと月夜は少年たちの呼ぶ方へと歩いていく。
「上手くできるかな」
「快晴だもの。綺麗で大きな虹ができるわ」
 空を仰いで、ヴィクトリアは陽光に目を細める。太陽と水をめいいっぱい浴びた子どもたちも、その光に負けず劣らずきらきら輝いて見えた。
「皆が喜ぶなら、たまには外での授業も悪くないわね」
 呟いて、ヴィクトリアはまた一歩新緑を踏みしめた。

 全てを失った冬が来る前の、幸せだった夏の物語。

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12年前・記憶の断片・終

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