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第39楽章『起源』

 初めて彼女の姿を見た時、なんて凛々しく、美しい人だろうと思った。それはもちろん、容姿に限った話ではけして無く、彼女の内面から滲み出た、不可思議な眩さによるものだった。と、今になっては思う。その頃の月夜はまだほんの十七の娘に過ぎなかったが、それでもこの出会いを運命だと信じて疑わなかった。この人になら何でも打ち明けられるのだと、ロマンティックにひたむきに信仰していた。彼女に近づく度、陶器のような胸は密やかな胸の高鳴りを呼び寄せた。そうして、夜色の瞳に映る彼女を、より一層輝かせて魅せたのだった。

(……つまりは、私の一目惚れ)

 あの時の面影を残しながらも、もうすっかりやつれてしまった白い顔を見下ろし、月夜は静かに口を開いた。
「ヴィクトリア様。これからどうなさるおつもりで」
「止められないのですもの。どうしようもないわ。計画の通り、全ての【救世主】が消える迄、ここで見届けています」
 そう言い放った彼女の双眸は、はるか遠くの遠雷を見ているようで、実際には何一つ映してなどいなかった。彼女の道は後にも先にもこの一本しか残されておらず、月夜をもってしても横に並ぶことは叶わない。
 ヴィクトリアは、月夜が何とも言えぬ表情で自身を見つめていることに気がついているようだったが、敢えて何も言わずそっと目を逸らした。月夜は、理沙子を逃がしたことを咎められたかった月夜は、そこで初めて動揺の色を見せた。
 あの女を解放したという失態を知れば、ヴィクトリアは彼女を叱るだろう。だが、月夜にとってそれは愉悦だった。ヴィクトリアの注意が彼女に向く瞬間、そこに理沙子の姿は無いからだ。薄いフィルムをぴったりと貼り付けたように、ヴィクトリアと月夜の間を隔てるものが無くなるから。だから月夜は理沙子を逃がした。小娘には、ヴィクトリアに気にかけられる価値もない。その後彼女が何をしようと、ヴィクトリアには叶わないのだから、逃がすも殺すも結果に差異はない。
 だから月夜は理沙子から手を引いた。ヴィクトリアの視線を一人浴びる為。視界という名の舞台で踊る為。なのに、それなのに。
「ヴィクトリア様は、私を叱らないのですね」
「貴女は昔から、大人しいふりをして人の気を引くのが得意な子どもでしたから」
 一瞬、幼い子の悪戯を見るような目が月夜を貫いた。月夜の表情が僅かに赤らむ。しかし、次の瞬間にはもう、ヴィクトリアは冷徹な死神に姿を戻していた。
「叱ることなら後でも存分に出来ます。今は目の前のことに集中なさい。……彼女以外の外部講師を逃せば、今度は『外』に知れ渡る。叱責だけでは済みませんよ」
「……肝に銘じておきます」
 深い暗闇の眼は、またしても月夜を捉えてはいない。俯きながら、月夜はグッと拳握りしめると、その不満を悟られぬよう、ゆっくりとヴィクトリアから離れていった。

─────────────

 尖った不揃いな石ころが、容赦無く足元をすくう。だが、ヒールであることも構わずに、理沙子は必死で走り続けた。まるで、足を止めたら死んでしまうと言わんばかりに、少しでもあの建物から離れるように、東へ、東へと走り続けた。
 やがて、誰もいない裏庭の木々の隙間に入り込むと、理沙子はそこで初めて後ろを振り返った。彼女の視線の先には、息を切らしながらも、驚いた顔のままこちらを凝視している日野川の姿がある。
「どう、して」
 その一言を絞り出すのがやっとだったのか、彼は息を整えるとその場に座り込んでしまった。体力はまだ自分の方があるらしいと場違いなことを思いながらも、理沙子はスカートの内ポケットから小さなペットボトルを取りだした。
「積もる話はあるけれど……まずは飲んで。もたなくなるわよ」
「うん、ありがと」
 威圧されるような、それでいて安堵をもたらす優しさは、もう随分前に失ってしまったものだと思っていた。喉を伝って身体の中に水が染み渡ると同時に、日野川の心も少しずつ解れはじめていく。
「……僕は、ひどいやつだよ。姉さんは弟を助けたつもりかもしれないけど、僕はもう、」
「いいえ、変わらないわ」
 凛と高い声が日野川の言葉を制した。彼の口から無意識に息が漏れる。見上げた先にある理沙子の表情は、逆光の中であれど晴れやかだった。
「響希ちゃんは響希ちゃんよ。ちょっぴり寂しがり屋なあなたも、皆を引っ張って行けるあなたも、子どもたちに酷いことをしてしまったあなたも。全部私の大切なあなた。その一部を切り取って、『悪者だから助けない』なんて寂しいわ」
 風に揺れた黒髪を柔く押さえるように、理沙子の手のひらが項垂れた日野川の頭上に触れる。
「ずっとひとりで、お友達を守ろうとしてきたんでしょう? 頑張ったわね」
 地面から少し離れたところで、小さく息を吸い込む音がした。日野川は、僅かに肩を震わせながら、嗚咽混じりに拙い呼吸を繰り返していた。
「でも、皆消えてしまった。僕が上手く動けなかったせいで、守りたかった皆は死んで、僕が皆を守ろうとしたことで、何十人もの子どもたちが犠牲になった」
 だから、そう簡単に許されてはいけないのだ。結果として、日野川響希はただの人殺しにすぎない。それが明らかにされてしまったからには、もうこの先一秒だって息をしていてはいけないのだ。
 自分を責め続ける彼の姿は深い切り傷のように痛ましく、理沙子は一瞬彼のオーラに飲み込まれそうになる。だが、ここで同調してしまえば未来は無い。黒い靄に霞んでしまう前に、理沙子は整った手のひらを思い切り振り降ろした。
 辺りに乾いた音が鳴り響く。ついで、日野川がゆっくりと右頬を押さえ、顔を上げた。
「……?」
 濃い琥珀色の瞳孔は、何が起こったのか理解しようとして理沙子を凝視している。叩かれたのだ、と体が事実を受け入れると同時に、今度は憤怒の表情が目に入った。
「責任を自己犠牲で埋めるのはもうやめなさい!」
 今まで聞いたこともないような大声に、日野川は目を瞬かせ言葉を失った。目の前にいる姉は、目の奥に炎を宿すが如く怒っていて、そして涙を流していた。
「あなたは分かってないんだわ。自分がどれだけ周りに愛されているのか」
 こんな姉の姿を見るのは初めてだった。わがままな少女のように髪を振り乱しながら、彼女は強く、鋭く叫ぶ。
「あなたが自分の自由を差し出してまで仲間を守る子だって、その優しさを知っている友達が、あなたの事を恨むわけがないでしょう!」
 声の出ない日野川の前で、理沙子は紅い唇を噛み締めて両膝をついた。そのまま日野川を抱きしめるように、ゆっくりと彼にもたれ掛かる。
「生徒達も、本気で憎んでなんかいないのよ。あなたが【救世主】だと知って、助けたいと言ってくれる子達だった」
 理沙子は彼等からの返信を思い出す。彼女が案ずる間も無くあっさりと、あの子どもたちは日野川を受け入れてくれた。
 大丈夫。きっと、想像するより悪い方には、物語の舵は切れないだろう。
「……だから、ねえ、一緒に帰ろう」
 辺りはもうすっかり暗くなり、薄闇のヴェールに包まれた視界に彼の表情は映らない。けれど、立ち上がった彼の息づかいから、答えは明白に照らされていた。
「帰り、たい」
 涙で濡れた瞳は、理沙子の知らない綺麗な満月の色をしている。だが、きゅっと細められたその微笑み方は、理沙子がよく知る響希の姿だ。
「僕も皆と、姉さんと、帰りたいよ」
「じゃあ、決まりね。道は長くなるから、しっかり歩くのよ」
 差し出された手を、今度こそは迷わずに取った。その時、響希の脳に直接語りかけるような形で、いつしかの声が届く。
『響希、おかえり』
 それは、幻聴などでは無かった。消えた彼らの声たちは、理沙子の耳にもはっきりと聴こえた。
『ありがとう』
 涙声で何度も頷く彼を見て、理沙子も唇を震わせながら言った。
「ね、言ったでしょ? 恨んでなんかいないって」
 その日、星の瞬きはじめた宵の口に、日野川響希はようやく自分自身を赦すことが出来たのだった。

─────────────

 少し離れた棟で、何人もの少年たちが響希に語りかけるさまを、リクは微笑みながら見つめていた。彼らは、たった一人だけを残してこの世界にやってきた代で、ずっとその一人を気にかけていた。彼が責任を感じて死んでしまうのではないか、どうすればこの声が彼に届くのだろう。そう何度も嘆いていたのを知っているから、リクはこの繋がりが、自分の事のように嬉しかった。
「やっと、伝わったみたいだな」
「あぁ。良かった」
 隣に座るソラも、安心したように頷く。そして、少し自嘲気味に鼻を鳴らすと、力なく椅子の背もたれに体を乗せた。
「僕達も、早く先生に伝えられたら良いのに」
「……きっともうすぐだ。向こうの皆も頑張ってくれている」
 亡霊にも等しい存在となってしまったリク達には、そうして心を鎮めることしか出来ない。叶うならば、いたいけな少年たちの代わりに今すぐにでも戦場に立ちたかった。だが、その為にはまだ待たねばならない。
 彼らの『神様』が成るまでには、まだ幾らかの猶予がいる。

 

 

 

 


 さくり、と雪を踏む音がして、久しぶりに我に返った。鳥を抱え、途方もない時を指示された機械のように進んでいた紫乃は、突如目の前に現れた村のような場所に目を丸くした。
「ここ、どこ? さっきまで、雪なんて降ってなかったよね?」
「キ?」
 どうやら鳥にも覚えは無いらしい。二人して、いや、一人と一匹して首を傾げていると、不意に聞きなれた声が紫乃の鼓膜を揺らした。
「紫乃くん? どうして君が……」
 それはこちらが聞きたい話だった。だって彼は、彼はあの瞬間に消えたのでは無かったか。
「京先輩」
 戸惑いと畏怖に満ちた声が、雪原の中に弱々しく散った。

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