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第38楽章『sleeping diary』

『あの子の調子はどうだ』
 草木も寝静まる頃、建物周りの雪かきから帰ってきた男は、霜の降りた手袋を外しながら、暖炉の傍に腰掛けている仲間に尋ねた。仲間の男は、保護した少年を寝かせてある部屋の扉をちらりと一瞥した後、微小を浮かべて頷いた。
『深く眠っているよ。呼吸も安定しているし、命に別状は無いようだ。……だが、まだ言葉を喋れる状態ではないようだな。日本語で問いかけてみても、うわ言のように【シノ】と呟くばかりで、何も話してはくれなかった』
 声のトーンを落として俯いた彼。その口から意外な言葉が聞こえてきて、男は思わず目を丸くして詰め寄る。
『お前、日本語話せたのか!?』
『ああ。言ってなかったか? 昔、数年間日本に住んでいたことがあるんだ。先代様──ヴィクトリア様のお父上のところで働いていてな』
『そうだったのか……通りで詳しいと思ったよ。と、話が逸れてしまったな。とりあえずは命が無事なら安心したぜ』
『ああ。恐らくだが、【シノ】というのは人名のような気がする。彼の名前なのではないかと思うんだ』
『へえ、変わった発音だな。かっけえ名前だ』
 男はそう言うと、ニッと歯を見せて笑った。
『俺ぁこう見えてガキが好きなんだ。目が覚めたら、寂しくないように【シノ】にいっぱい話しかけてやろう。通訳は頼むぜ』
 キラキラと眩しい相方の笑顔を見ながら、仲間の男は眉を寄せて可笑しそうに口を開いた。
『ああ、そうだな』
 彼らが少年の本当の名を知るのは、もう少し先の話である。

─────────────

 何が起こったのか分からなかった。それは息を飲む間に過ぎ去った一瞬の出来事で、光希が駆け寄った時にはもう、地面に空いた大きな穴も、統也自身もきれいさっぱり姿を消していた。そして、その空間を埋めるように座り込んでいたのは、まるで糸が切れた人形のように目を閉じた紫乃と、彼をだき抱える翼の姿だった。
「翼くん……」
「大丈夫。大丈夫だよ」
 憔悴しきった顔で、けれどもはっきりとした口調で、翼は空いた方の腕をあげて光希の手を握った。
「統也があの空間に飲まれる直前、紫乃くんに【声の能力】を使った。紫乃くんの中の時間を、止めた」
「どうして、そんなことを」
 ようやく絞り出したといったような掠れた声で尋ねた光希に、翼は困ったような顔で口の端だけを引き上げた。
「あいつは、紫乃くんに少しでも長く生きていて欲しかったんだよ。時間を止めて、眠らせて、戦えなくして。そうして自分が戻ってきた時に、魔法を解く。ほんと傲慢だね、自分だけヒーローになるつもりでいるんだよ」
 心に張り付いたやるせない気持ちを吐き捨てるように、翼はつとめて明るく呟いた。何も言うことが出来ず唇を噛み締める光希に向かって、彼は尚一層柔らかく目を細める。
「統也は生きてるよ。絶対、紫乃くんを目覚めさせに戻ってくる。あいつはそう言う奴なんだ」
 だから大丈夫だよ、と宥めるような優しい声。明らかに気を使わせてしまっていると肌で感じるのに、光希は翼のように気丈な振る舞いを返すことが出来なかった。力を制御する術を知らぬまま、時間だけが嵐のように流れ、瞬く間に拠り所が消えていく。幾ら正義感に溢れた少年といえど、彼が直面した真実は、受け止めきるにはあまりに過酷なものだった。
「……でも僕たち、半分になっちゃったよ」
 もうこの世の何処にも居ない京と郁。世界のどこかに攫われてしまった統也。時を止めて眠り続ける紫乃。永遠と命はまだ傍にいるものの、心の距離は遥か遠くの果てに行ってしまった。最後に八人で笑ったのは、一体いつの事だったか。そう遠くない日のことであったはずなのに、今は星よりも彼方にある記憶だ。
「翼くんは、いなくならない、よね?」
 弱々しく聞こえた声に、翼はハッと顔を上げる。勢いのままに頷くことが優しさではないと、それはよく分かっていたけれど、透明な水滴で潤む桃色の瞳を見た時、次に発するべき言葉はたったひとつしか残っていなかった。
「いなくならないよ。絶対、何があっても」
 紫乃を抱える腕に力を込めて、翼はゆっくりと立ち上がった。本校舎の辺りからは、未だ少年たちの声と地響きが聞こえてくる。彼は数秒間戦場の方向を見つめると、そのままくるりと踵を返して寮の中へと向かっていった。
「紫乃くんを安全なところに寝かせたら、ボクも向こうに加勢する。光希は、どうする?」
「僕は……」
 本音を言うなら、ずっとこのまま寮の中に隠れていたかった。けれど今この時、仲間の思いを継げるのは光希たちしかいない。守ってもらった【力】は、守ってくれた人の為に使いたかった。
「僕も、戦うよ」
 先輩たちが豪語したようにはかっこ良く言えなかったけれど、翼は受け入れてくれた。
「そう言ってくれると思ってた」
 光希が恐怖に耐えていることも、全てお見通しといった口調だった。彼は、隠せない弱さを知った上で、それでも光希と共にありたいと思ってくれていたのだ。ならば、この手を絶対に離したくない。震える指先でそう願った。
 視線を空に向ければ、黒煙はすぐ近くで燻っていた。あの中心にある物を淘汰して、光希は必ず未来へ行くのだ。そうすればきっと、きっと皆の思いも報われる。闇夜の中で月光が冴えわたるように、光希も早く光を照らさなければ。漆黒の怪物が、世界の全てを覆ってしまう前に。

─────────────

 瞼の裏が眩い白に包まれて、紫乃は意識がゆっくりと浮上していく感覚に襲われた。先程までの耳が痛くなる喧騒は何処へやら、今は何の音も聞こえない空間にいるようだ。
「ここは……?」
 目を開けてみても、真っ白な世界が広がっているだけ。上も下も、右も左も分からない状態に、紫乃は眉間に皺を寄せて口を曲げた。
「おかしな夢だ」
「キ」
 頷くように独り零すと、隣から相槌を打つかのように奇妙な鳴き声が聞こえてきた。眉を潜めたままゆっくりと首を横に向けると、そこには若干灰色がかった白い餅のような物体が座っていた。丸々とした質量から生えている足と嘴だけが、それが鳥の仲間だと判断できる材料だった。
「うわ、不細工な鳥……」
「キィ!?」
 紫乃の声に、鳥はふざけるなとばかりに細い足をだんっ!と振り下ろした。どうやらこの生き物は、人の言葉を完全に理解しているらしい。それならばと、紫乃は鳥の怒りを完璧に無視して、ぐっと身を乗り出した。
「ここは僕の夢の中なの?」
「キ~?」
「分かんないの? 使えないね」
「キーッ!?」
 使えないと言われたことにまたイラッと来たのか、鳥はだんっだんっ!と更に足を踏み鳴らす。その様子があまりに可笑しくて、紫乃は口元に手を当ててけらけらと声をあげた。誰かと共にいる時にはけっして見せない彼の一面だ。
 すると、紫乃の笑い声を聞いた鳥は途端に怒るのをやめ、丸くつぶらなエメラルドグリーンの瞳でしげしげと彼の顔を覗き込んだ。そして次の瞬間、何かを思い出したかのようにぽろぽろと涙を零し始めたのだった。突然のことに紫乃は狼狽えて、慌てて小さな鳥をだき抱える。
「な、なんだよ急に。どっか痛いの……?」
「キ……キ……」
 紫乃に鳥の言葉は分からない。分からないけれど、何故か彼にはこの鳥が誰かに謝っているように感じられた。きっとここには居ない誰かの為に泣いているんだろう。
 ふと、統也のことを思い出した。また迎えに来るとドヤ顔で言っていたあいつは、今頃何処で何をしているんだろう。まさか、死んだりしていないだろうな。そう思うと無性に心がざわついて、思わず貰い泣きしてしまいそうになる。だが、紫乃はけっして泣かなかった。鳥を抱えたまま立ち上がると、紫乃は今見ている方角に向けて真っ直ぐに歩き出した。この道が正しいのか、そもそもこの空間に道なんてものが存在しているのか、何も知り得なかったけれど、動かないよりはマシだった。
「統也に文句を言うまでは、おちおち死んでなんかいられないよ」
 そう口にすると、紫乃は一点に向けて歩幅を早めていく。いつの間にか白い空間は消え失せ、一面に続く青空と野原に姿を変えていた。足をくるりと回し、太陽の方角に焦点を定めながら、軽い足取りで駆けていく。例えこれが夢だったとしても、自ら進めばいつか会いに行けるはずだ。妙に楽天的で根拠の無い思考は、まるで隣を歩いてきた彼のようで。晴天の下、紫乃は思わず苦笑した。その顔がとても優しく見えたことは、彼の腕の中で蹲った鳥だけが知っている。
「いくら歩いても疲れないって、結構良いもんだね」
「キ!」
 止まった時間の中で、彼がくれたセカイの中で、時空を超える旅が始まる。いつか目を覚ますその時まで、紫乃は彼に飛ばす文句について考えながら、道を明るく照らす太陽に目を細めたのだった。

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