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​第37楽章『never say never』

 全てが黒に変わった世界で、彼女だけが普遍のままだった。ヴィクトリアという名を恣に掲げた彼女は、白い顔でその場に座り込む少年の成れの果てを見つめる。
「わたくしは平気ですけれど、貴方は直ぐにここを退かなければ、この黒に呑まれますよ」
 無論、ここから逃げたとて、彼が人として生きていられるのは後ほんの僅かな時間しかない。それが分かっているからこその、慈悲めいた戯言のつもりだ。案の定、彼はその場に張りついたまま動こうとしなかった。彼の事だから、仲間と共に最期を迎えようとでもしているのだろう。在り来りなお涙頂戴の結末は少しばかりつまらないが、まあ致し方ない。ヴィクトリアは、人形のようになった彼に話しかけるのは早々に辞め、優雅にその場を後にしようとした。しかしその時、ここで聞くはずのない声が、彼女の向かう方向とは真逆から聞こえてきた。
「響希ちゃん、走って!」
「姉、さん……?」
 一瞬のことだった。突如現れた理沙子が、蹲る彼、日野川の手を強く引いて走り出す。ヴィクトリアの想定外から飛び込んできた存在に、彼女は僅かに動揺した。その隙をつかれ、瞬く間に二人の背中が遠くなる。残されたヴィクトリアがやっとのことで我に返ったのは、彼らがすっかり去ってしまった後のことだった。真っ赤な唇が、じわりと可笑しそうに引き上げられる様は、まるでこの世の者とは思えぬ恐ろしさを孕んでいた。
「良いわ。それでこそ楽しみがいがあるというもの。それにしても……外部講師の管轄は全て月夜に任せていたのに、一体どうやって抜け出して来れたのでしょうね」
 そう言って漏れたため息には、ほんの少しだけ切なさの色が溶けていた。声に出したことで、予感は確信に近づいた。
「ねえ、わたくしは間違っていたのかしら」
 その問いに答えてくれる者は、何処にもいなかった。ヴィクトリアは深く息を吸って、再び不敵な笑みを浮かべる。手に取った選択が正しくとも、間違いであろうとも、ここまで来たからには進むしかないのだ。ヴィクトリアは、黒い影が少年たちを喰らいに行く様をただ眺めていた。それはまるで、何も出来なかったあの時のように。

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 幾つもの影が混ざり合い、巨大化した【略奪者】は、そこから更に枝分かれし、不気味な四肢のようなものを作り出した。そして、長く伸びたそれらを何度も地面に振り降ろすことで、地を這うようにして少しずつ統也たちの方角へと向かっているようだった。【略奪者】が歩き去った後がぼこぼこと泡立ち、転位室にある空間を繋ぐ穴のような物が無数に広がる様を見て、統也は思わず顔をしかめた。
「一先ずは様子を見た方が良さそうだな。下手に前線で【声の能力】を使うよりも、まずは遠くから攻撃を入れて様子を見た方がいい」
「そうだね。ボクと光希は反対方向に回る。統也と紫乃は寮付近をお願い」
 焦りを含んだ声で短く言葉を交わし、四人は二つに分かれた。もしかしたらこれが最後の会話になるのかもしれないと、互いに不安を過ぎらせつつも、けっして誰も弱音を吐くことは無かった。走り出す瞬間、統也はちらりと紫乃を見下ろしてみた。強大な敵を目の前にしていると言うのに、その顔には汗ひとつ浮かんでおらず、涼し気なエメラルドの瞳は、いつものように淡々と前だけを見据えていた。
「それでこそお前だな」
「え? なんか言った?」
「いや……何でもない」
「そう。理沙子先生がここに来れるまでどれくらいかかるか分からないし、なるべく早く片付けとこう」
 平坦な声で述べる彼は、あくまでも作業的な態度を崩すつもりは無いようだった。一見すると薄情に見えるかもしれないが、統也には、彼がそうすることで苦しみや悲しみから己を護っているように見えた。痛々しさを全く感じさせずにそれをやってのけてしまうのだから、やはりお前は凄いと、口には出さずに噛み締める。
「少し近づいてみようか」
「そうだね。ここまではまだ安全みたい」
 切り替えて言葉を投げかけた統也に、紫乃は流れるような動作で頷く。まだ遠くにいる影に専用の銃弾を打ち込みながら、二人は徐々に【略奪者】との距離を詰めていく。敵に近づけば近づくほど、少しずつ他の仲間たちの姿も見えてきて、脅威に立ち向かっているはずなのに、何故か安心してしまいそうな心地になった。これでは駄目だとばかりに、統也は周囲に視線を巡らせ、周りに聞こえるように大声をあげた。
「上ばかりに気を取られるな!この先は【略奪者】が開けた穴が無数に散らばっているぞ!」
 彼の声を聞いた少年たちは、すぐ様下を向いて息を呑んだ。彼らの中には、もう少しで暗闇に落ちてしまいそうな場所に立っていた者もいた。
「ありがとう、助かった!」
「何、お互い様だ」
 軽く言葉を交わしたあとは、話を続ける暇など無い。穴の位置を正確に避けながら、頭上の【略奪者】と対峙するのは、相当な体力と注意力を要した。数十分もすれば、元々の力があるとはいえ体力的に不利な紫乃は、苦しそうに肩を上下させていた。
「僕は、足でまといになる。寮に戻ってるから統也は先に行って」
「駄目だ。一人では危ない。俺様も寮までついて行こう」
 しかし、共に歩こうと差し伸べた統也の手を、紫乃は素早く振り払った。彼の瞳は鋭く細められていて、まるで統也を睨みつけているように見えた。
「見れば、分かるでしょ。力になれない僕について行くより、少しでも早くあの化け物を倒すべきだ。統也にはそれが出来る。皆を指揮することが出来る。皆も統也がいるから安心して戦える」
 大きく息をして赤くなった顔で、彼は少し億劫そうに目を伏せた。
「僕なら大丈夫。一人で戻れる。だから統也は皆のところに行って」
 そんな事を言う割に、紫乃の顔は名残惜しそうで、不安そうだった。彼の言うとおり、今この状況下で統也がしなければならない最善のことは、前線で指示を出し戦い続けることだろう。だが、その道を選んでしまったら、例え五体満足で戻れようとも、統也は一生納得することが出来ないような気がした。この強がりな正義感の塊から、目を逸らしてはいけないと、統也の心が強く訴えかける。

(もし【統也】なら、強く頼もしいあいつなら、正論に振り回される選択はしない)

 統也は何も言わぬまま紫乃の手を取ると、黒に覆われた空とは反対方向に駆け出した。紫乃が辛くないスピードで、けれど一刻も早くその場から逃げ出した。予想通り、背中には紫乃の罵倒にも近い呆れ声が投げつけられる。
「何してんの! 戦えって、言ったのに!」
「そんな悲しい顔で言われても説得力など無い!」
 間髪入れずに、統也は叫ぶように言い放った。思惑通りだ。声の後には、二人の走る音以外何も聞こえなくなった。だが、紫乃は一向に足を止めようとはしなかった。それが無言の合意であることに気づき、統也は内心勝ったと笑う。
「お前はもっと素直になれ」
「……うるさい」
 パタパタと駆ける音に混ざり、バシッと背中を叩かれた。統也は何も言わず苦笑して、少しだけ速度を落とす。寮はもう目前に見えていて、紫乃同様体力が尽きたり、怪我をしたりした少年たちが、固まって休息をとっている姿が見えた。
「結構いるみたいだな。翼たちも戻ってきている。やはり強がらずに引いてきて良かっ……」
 良かっただろう? と皮肉を混じらせ呟こうとした統也は、そこで言葉を無くした。いや、無くさずにはいられなかった。突如物凄い勢いで後ろに引っ張られ、振り返った先には、地面にぽっかりと空いた闇に吸い込まれそうになる紫乃の姿だった。
 どうして。さっきまでここには何も。跡をつけられた? それとも別の【略奪者】か?
 一瞬にして、統也の頭の中に様々な憶測が飛び交った。しかし、それを言葉にする前に、身体の方が先に動いていた。僅かに触れていた地面を思い切り蹴りあげ、その反動で紫乃を穴の外へと突き飛ばす。一秒にも満たない時間の中で、彼は一瞬、自身の【力】を使って周りの時を止めるべきかと考えた。しかし、この得体の知れない闇に【力】が通用すると断定することは出来ない。そこに賭けるくらいならば、統也は守るべきものを確実に守れる道を選びたかった。
 弾き飛ばされた紫乃が、反動に抗うかのようにこちらに向かって手を伸ばしている。その少し向こうからは、翼が走ってくる姿も見えた。
 その瞬間、「ああ、大丈夫だ」と強く思えた。ずっと前から、こうしようと決めていた。それが今だっただけ。最後に【力】を使う相手を、統也はけっして迷いはしなかった。
「紫乃、諦めるな」
 統也の手から真っ直ぐに伸びた光が、紫乃の身体全体を包み込む。それは、彼の命のカウントダウンを、大人にはなれないと突き刺された彼の呪いを食い止めるために、統也が出来る唯一のこと。
「生きることを諦めるな」
 そう口にした瞬間、まるで耳が麻痺したかのように、一切の音が遠く曇って聞こえた。視界もだんだんぼやけて、闇に引っ張られて行くのが分かる。もしかしたら、この声はもう届かないかもしれない。一番言いたかった言葉すら、伝えられないかもしれない。それでも統也は晴れやかな顔をしていた。きっと、これで終わりにはならない、巡り巡って必ず伝わると、そう信じていたから。
「待ってろ、おれが必ず、迎えに来てやるから」
 言葉が天に昇った瞬間、統也の視界はブラックアウトした。

 

 

 いつか、こんな話をしたことがあった。

「紫乃は、人より長く生きられないことを、怖いとか、嫌だとか、思ったりしたことは無いのか?」
「随分直球だね。……まあ、あんまり無いかも」
「何故だ?」
「それが僕にとっての普通だったし、そもそも、生きることが好きではなかったし」
「『なかった』ってことは、今は違うのか?」
「ねえ、なんでそんな変なところばっかり突いてくるわけ?」
「ということは、図星だな」
「はぁ……。今はね、生きる時間を変えられないのなら、その中で少しでも充実した時を過ごせたらって、そう思ってるよ」
「ほう、お前にしてはいいこと言うな」
「人がせっかく答えてやったのに、一言余計なんだよ……!あー、ムカつく」

 そうやって愚痴を飛ばしながらも、心底嬉しそうに笑っていた横顔を見て、おれはこの【力】を、お前の為に使おうと決めたんだ。

 おれの力はきっと、今この時の為にあった。最後この目に映った、泣きそうな顔で手を伸ばすお前の姿を見て、ふとそう思ったんだ。

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 紫乃はその時、魔法をかけられた。

 統也と目が合った途端、目を開けていられない程に強い目眩がして、気がつくと、ブラックホールのような穴も、統也の姿もそこには無かった。ただ、呆然とする紫乃の後ろで、手を震わせながら彼の肩を支える翼の姿が、ことの全てを物語っていた。
「……ねえ、聞こえた? 声」
 けして泣くまいと、必死に涙を堪えているような声で、翼は紫乃に語りかける。紫乃は、きつく唇を噛み締めて、深く首を降った。
「生きることを、諦めるなって。迎えに来るって、言った」
 ぐらぐらと視界が揺らぐ中、少しずつ統也にかけられた【力】の呪いが全身を巡っている感覚を覚えた。きっとあと数分もすれば、紫乃は意識を失い、止まった時間の中で長い長い眠りにつくだろう。
「翼、ひとつお願いしてもいい?」
「うん、何でも」
 紫乃の曖昧な言葉にも躊躇なく頷いた翼は、きっと全部を理解してくれたのだろう。
 統也は、自分が担うはずだった役割を、翼に託そうとしていた。本当にどこまでも自分勝手で、ひたすらに我が道を突き進む、どうしようもない奴だ。けれど、そのどうしようもなさに幾度となく救われてきたことを、翼も紫乃も良く分かっていた。
「あいつが迎えに来るまで、僕のこと、死なせないようにしといてくれる?」
 口から出た言葉は、笑ってしまうほどに他人行儀で。でもそれが何よりも紫乃らしいと、翼は微笑んだ。
「分かったよ。約束」
 そう呟いた瞬間、紫乃は安心したようにゆっくりと目を閉じた。何日、何ヶ月、何年越しの約束になるかは分からなかったが、この呪いが解けない以上、彼の生きた痕跡が消えない以上、翼も紫乃も信じることを諦めなかった。
 夜月統也は生きている、と。

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 とある北の国の外れ。森の入口にぽつんと建った研究所の前で、研究員の男二人は奇妙なものを見た。空に突如、黒い穴のような物が出現し、何か小さな物体を吐き出して消えていったのだ。男たちが慌てて駆け寄ってみると、吐き出されたものはどうやら、水色の襟の洋服を身にまとった少年のようだった。
『顔立ちはアジア系か……?』
『日本人だな。この制服は、ヴィクトリア様直属の組織のものだったはずだ』
『ヴィクトリア様?』
『お前、馬鹿か。俺たちの上司の名前だよ』
『ああ、そうだった。会ったことなんてねえから忘れちまってたよ。……ところでこのガキ、死んじまってないよな……?』
 恐る恐る尋ねる男。もう一人の男は、張りつめた表情で少年の口元と心臓付近に手を当てていたが、やがてホッとしたように息を吐いた。
『大丈夫だ。息はある。ただ、結構高いところから落とされていたから、脳震盪を起こしていたり、骨折していたりするかもしれない。とにかく早く建物の中へ運ぼう』
『あぁ』
 一人の男が少年を担ぐと、彼の頭に乗っていた王冠を模した髪飾りが雪の中に落ちた。もう一人の男は、それを拾い上げてまじまじと見つめる。
『【救世主】……噂には聞いていたが、本当にいたとはな』
 男の声に答えるようにして、王冠に繋がれた紫のリボンがひらりと舞った。

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