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​第36楽章『彼等の喪失』

 背中に柔らかいシーツの感触を覚えながら、翼は遠くで鳴り響く決戦の音を聞いていた。昂った熱は今やすっかり冷め、しんとした部屋の中で規則的な心臓の音だけが響いている。
「もういないんだね」
 敢えて主語を抜かしたのか、はたまたそんな意図は微塵も無いのか。ぼんやりとした表情で、隣の彼が呟いた。翼は静かに頷いて、空を閉じ込めたような瞳を彼へと向ける。
 二人を、いや、六人を導いてくれたあの光は、もう誰の目にも映らない世界へと旅立っていってしまった。残された翼たちは、どれだけ苦しくとも、それを真正面から受け入れなくてはならない。それが彼らに対する最大の敬意の評し方だと、信じて疑わなかった。信じていないと狂いそうだった。
 だから翼は許せなかった。本当なら誰よりも人の痛みを悲しめるはずの人間が、あんな風に心を閉ざす姿を、許すことが出来なかった。
「でも」
 随分長い間黙りこくっていたから、声がひどく掠れている。それでもお構い無しに、翼は続けた。
「ボクらは仲間だから。これ以上誰もいなくなって欲しくない」
 その声は、まだ熱い怒りを秘めてはいたけれど、確かに前に歩む為の誓いの言葉を紡いでいた。隣から、小さく息を呑む音が聞こえる。翼は、こわばった顔を無理矢理崩して、何ともいえない苦笑いの表情を作って見せた。
「ついてきてくれる? ボク、自分から謝るのって苦手なんだ」
「……! うん、ついていってあげる」
 頼りなく震えた音をそれでも精一杯振り絞って、彼は翼の手を取った。京と郁が守ってくれたこの居場所を、仲間を、失くすわけにはいかなかった。
 扉の向こうでは、今も尚多くの仲間たちが闇と対峙している。その列に加わればきっと、今のように軽口を叩くことすらままならないだろう。けれどその先に、少しでも未来へ行ける可能性が残っているならば。
 それを信じて、扉を開くしかないのだ。


「統也」
 名前を呼ばれたのは、紫乃の部屋を出てすぐの事だった。普段の彼には似合わない、罰の悪そうな声色で呼び止められ、統也は驚いて振り返った。彼の先には、誰より早く部屋に戻ったはずの翼と光希が立っていた。それも、しっかりと制服を着て。頭に輝く王冠の存在が、どういうことを意味するのか、同じく【救世主】の正装を身にまとった統也に分からない筈がなかった。
「一緒に来るか?」
 まるで、食事でもどうだと言わんばかりに、統也は混沌の地へと指を指す。翼は無言で僅かに口角をあげると、頷く代わりに肩を竦めて答えて見せた。素直になろうと出てきたは良いものの、やはりまだ意地を捨てきれていないような様子に、統也は思わず微笑を浮かべた。
「永遠と命は既に戦場だ」
「誰も二人の居場所なんて聞いてない」
 呆れたようにそう言いつつも、翼の足は誰よりも早く彼らの元へと進み出している。その背中に続いて、統也も紫乃と光希を連れて彼のあとを追おうとした。
 その刹那。
 大地を揺るがす地響きが辺り一体を包み、西棟から濃い黒煙が立ち上った。咄嗟に足を止める統也たちの眼の先で、煙は徐々に空を喰い殺していく。そして、視界に映る景色が半分ほど漆黒で埋め尽くされた時、統也は気がついたのだった。
 空に広がるそれが、煙ではなく【略奪者】であったことに。

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 必死に耐えようとも、体の震えは止まらない。日野川響希は、どす黒い空気を放つ女の前で浅い息を繰り返していた。
「逃がしたのですね?」
 女はつとめて穏やかに、笑みさえ浮かべて問うたが、その声から発せられる音波は糸のように張りつめていて、日野川の首を少しずつ絞めていく。
「次、は、必ず……」
「次?」
 笑劇を観覧しているような面持ちで、女は非常に可笑しげに口元へ手を当てた。こつりとヒールの音が反響し、女が立ち上がったのが分かった。
「次などあるわけが無いでしょう。仕事を果たせなかった無能との約束を、叶えてあげる義理はありません」
 硬い床にヒールを打ちつけながら、女はいつかのように日野川の側へとやって来る。しかし、彼女は以前とは別の結末に駒を進めるようだ。立ち止まることなく彼の元を通り過ぎ去ると、その後ろに隠された地下へと続く扉を開けた。
「……!」
 これから彼女が何をするのか、はっきりと理解した日野川の口からは、嗚咽とも悲鳴ともつかない乾いた音だけが漏れた。だが、女はそれに構わず悠々と地下へ降りてゆく。日野川は、悪寒に支配された身体をがむしゃらに動かして彼女を止めようとヒールの音を追いかけた。しかし──
「お友達と一緒に、貴方もここで朽ちるといいわ」
 仄かな蝋の明かりに照らされた地下室。日野川はそこで初めて女の顔を見た。輝かしい金色の髪の下には、墨を塗りたくったような深いオニキスの瞳が覗いていた。
「お勤めご苦労様」
 そう告げて、何の光も通さない黒曜の宝石がじわりと細められた時、彼女の後ろにあった全ての棺桶が一瞬にして砕け散った。かつて少年だった【モノ】達は、外の空気に触れてみるみるうちに黒い霧へと姿を変える。そのエネルギーから生じた炎が、ただ一人無傷な女の美しい額を照らし出す。 
「あ、ああぁぁぁ……っ!!!」
 ともだちが目の前で消える瞬間を見るのは、これで二度目。その時、日野川は死神の誕生を悟ったのだった。

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