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​第34楽章『神曲』─天国篇

 カップの中身が程よく冷めて来た頃、場の雰囲気も少しばかり落ち着きを取り戻していた。ポットからお茶のお代わりを注ぎながら、ソラはふと顔を上げる。
「君たちには、まず学園の外の人間に、この惨状を伝えて欲しいと思っている」
 水滴を零さぬよう、ゆっくりと琥珀色の液体を注ぎ終え、彼は京と郁をじっと見つめた。
「二人のうちどちらか、家族に会ってきてくれないか? 血の繋がった者同士なら、魂の色は濃く見えやすい」
 少しだけ寂しげに、だが後戻りは許さないと言った口振りで、ソラは言葉を続ける。
「一度会いに行けば、きっと二度三度と会いたくなる。大切な人の元へ戻りたくなるだろう。だけどお前たちは、もうあの世界に帰ることは出来ない。酷なことを言うが、それを承知で、外の人間に会える最後の機会を俺たち皆の為に使って欲しい」
 ここで断れば、なんていう事は考えもしなかった。おそらく、京は家族に情など微塵も持っていないだろう。感情の面を考えれば、彼が出戻るのが適任かと思われた。だが、話に聞いていただけでも分かるほど、彼の両親は信用ならない。実の息子に得体の知れぬ存在を投影し、ソレを心酔しきっている夫妻に、果たして学園のことが正しく伝わるのだろうか。郁はちらりと京を見やる。彼もまた、苦い顔をして郁を見ていた。優しい彼のことだから、叶うことなら自分が行くべきだと思っているに違いない。だが、これから先のことを考えれば、今動かなければならないのは紛れもなく郁の方だった。
「俺が行きます」
 間髪入れずにそう言うと、隣から小さく息を呑む音が聞こえた。見れば、すぐ側にある顔は、唇を噛み締めて何かを言いたそうこちらを凝視している。だが郁は、それをいとも容易くあしらってみせた。
「何て顔してるんだよ。俺は大丈夫だから」
「……僕、君の家族が好きだよ」
 郁の宥める口調を遮って、京は震える声で彼の肘を掴んだ。
「皆あたたかくて、良い人達だ。僕のことも本当の家族みたいに扱ってくれた。だから、」
 湖畔に浮かぶ月のように、綺麗な瞳が揺れる。気づけばリクもソラもこちらを見ていて、苦しげな視線が幾つも郁に降り注いだ。
「だから、君が家族のことで悩んで、苦しむのは嫌だ」
「…………」
 郁は、黙って京の訴えを聞いていた。そしてその声が途切れると、すぐ様自らの両手で彼の両手を握りしめた。
「大丈夫、俺は後悔しない」
 紫水晶を閉じ込めたかのような切れ長の双眸は、鋭くて優しい、矛盾した印象を放っている。郁は語るように言葉を積み重ねて、慎重に話し始めた。
「ソラさんに話を切り出されるまで、俺は家族のことを忘れかけていた。多分、この世界にいると、学園の外のこと──【救世主】で無かった日々のことを、少しずつ忘れていってしまうんだと思う。これからここで過ごすなら、きっとその方が楽だろう。……だけど俺は、大事なものを忘れてしまうより、悲しみごと覚えていたいよ」
 全てを安心させてしまうような、深く心地良い声。それに一体何度救われてきただろうと、京は俯きながら考える。
 傍から見た彼は、いつも誰かを優先してばかりで、自分を押し殺しているように見える。彼自身が何度大丈夫だと言っても、京がいつも彼を気にかけてしまうのはそのせいだ。だが、この瞬間京は、本当の意味で郁の本心を知ることとなった。
「郁は、強いね。やっぱり君には敵わない」
 いつかどこかで聞いた、羨望するようなその言葉。当時の郁からしてみれば、そっくりそのまま返してやりたい一言だと思っていたが、今は違う。その賛美はいつだって郁の背中を支え、押してくれる。気遣い屋で控えめで、どこか卑屈な二人は似ている。けれど、永遠に相手に憧れ続け、互いに互いを追いかけ続けている二人だからこそ、相手から投げかけられたたった一言で、何倍もの勇気を貰えるのだ。
「俺を強くなれたのは、京みたいになりたいと思ったからだよ」
「それ、何回も聞いた気がする」
 脱力したようにそう言って笑った後、京は真剣な面持ちでこちらを見据える。
「……分かった、託す」
「任せろ」
 京の心が郁を送り出したからだろうか、次の瞬間、まるでその時を待っていたかのように郁の体が薄れ始めた。突然のことに目を見開く二人とは対照的に、ソラたちは落ち着き払った動作で郁の前へとやって来る。
「俺たちからも、よろしく頼む」
「はい。行ってきます」
 その言葉を最後に、郁の体はこちらの世界から姿を消した。

──────────────

「キ~」
 少し耳障りな甲高い声が、郁の耳元でしきりになっている。スヌーズをかけた目覚ましのようにしつこいそれは、郁が目覚めると同時にピタリと止んだ。気づけば郁は、自宅のベッドに横になっていた。一瞬、今までのことが全て夢だったのではないかという錯覚に陥ったが、枕元に例の黒い鳥を見つけ、次いで自分の体が僅かに透き通っていること認識すると、一息に現実まで引き戻される。
「この姿を見たら、皆驚くかな」
「キ?」
 一応鳥に問いかけてみるも、彼は何も分かっていないような顔で首を傾げるばかり。何の為についてきたのだろうか、と呆れ半分に一瞥して、郁は部屋の扉を開く。階段を降りていくと、眼前に見える扉の向こうから、ぼんやりとピアノの音色が聞こえ始めた。拙い指使いで精一杯鍵盤を叩いているような音には、嫌という程聞き覚えがある。途端に懐かしさの波紋が体全体に広がり、郁は一瞬ドアノブに手をかけるのを躊躇した。だが、鳥の方はそんな郁の事など気にもかけない様子で、扉にタックルを続けている。
「キィ~!」
「分かった分かった、開けるから」
 鳥に急かされるようにして、郁はゆっくりと扉を押す。すると、それに呼応してピアノの音がぴたりと止んだ。
「……お兄ちゃん?」
 次いで聞こえてきたのは、あどけなく可愛らしい少女の声。驚きと喜びが混じったような表情でこちらを見つめていたのは、妹の茉奈だった。
「お兄ちゃんだ! 学校お休みになったの? 嬉しい!」
 何も知らない彼女の目には、少し前に学園に戻ったはずの兄がまた帰ってきてくれたという嬉しさしか映っていないのだろう。ぴょんぴょんと飛び跳ねる茉奈を見て、郁の心は圧迫されたように痛む。
 どうやら家の中には彼女しかいないようで、いつまでこの場にいられるかも分からない以上、必然的に郁が『伝える』相手は彼女一人に限定されてしまった。だが、自分の帰りを心から喜んでくれる幼い少女に、もう二度と会えないことを、一体どんな風に伝えれば良いのだろう。
 黙りこくってしまった郁を見て、茉奈は不思議そうな表情で傍へ近寄った。そして、おずおずと兄の手を取ろうとした所で、彼女は兄が実態を持っていないことに、初めて気がついた。繋がれないまますり抜けてしまった手を見つめ、茉奈の声が徐々に震える。
「お兄、ちゃん……?」
「……っ、ごめん、ごめんな」
 兄の姿であるからだろうか、信じられない光景を目にしても、茉奈は郁から目を離さなかった。ただ悲しげな瞳が、郁の次の言葉を待っている。
「茉奈、お願いがあるんだ」
「お願い?」
「あぁ。父さんか母さんが帰ってきたら、お兄ちゃん達の学校が危ないって、伝えて欲しいんだ。なるべく多くの人に、今お兄ちゃんの学校で起こっていることを、知ってもらいたい。……お願い、きいてくれるか?」
 座り込んで目線を合わせ、郁は自分とよく似た眼を見つめ続けた。茉奈は、最初こそ震えていたものの、徐々に落ち着きを取り戻し、やがては小さな拳を握りしめて深く頷いた。
「うん、マナ、ちゃんとお願いきける」
「ありがとう。茉奈は偉いな」
 そう言って、郁は反射的に彼女の頭を撫でようとする。しかし、その手は虚しくも少女の体を通り抜けてしまった。哀愁と虚空を掴んだ大きな手を見て、茉奈は切羽詰まったように勢いよく顔を上げた。
「お願い、きけるから。お兄ちゃん、また帰ってきて、くれる?」
 少女はその小さな頭で、どれだけ多くのことを考えたのだろうか。察しの良い彼女のことだから、きっと、もう郁が戻ってこないことに薄々感づき始めてはいるだろう。でも、それでも、彼女は郁に肯定を求めていた。優しい言葉を求めていた。
 だから、郁は迷わなかった。
「戻って来るよ。絶対」
 世界で一番優しい、偽りだった。郁の言葉を聞いた茉奈は、今にも泣き出しそうな顔を一生懸命抑えて笑ってみせる。結べないと分かっていても、小さな小指を差し出すその姿は、郁の脳裏に強く焼きついた。
「約束ね、お兄ちゃん、絶対約束よ」
 その時にはもう、指切りしようと差し出した手の先に、郁の姿は無かった。行き場の無くなってしまった手をそっと下ろし、茉奈はその場にぺたりと座り込む。やがて、大きな部屋の中に、少女の啜り泣く声がこだました。

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