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​第33楽章『神曲』─煉獄篇

 どのくらい歩いただろうか。疲労も寒さも感じない雪山の中、京は珍妙な案内役に誘われるがままに足を動かしている。時折郁と他愛も無いことを話しては、小さく笑い合う、穏やかな時間が過ぎていった。
 不思議だった。ほんの少し前まで衝動と苦しさの渦に抗っていたことが、もう遠い昔のことのように感じる。皆は無事だろうか。それを知る術は自分自身で潰してしまったけれど、いたいけな少年たちの幸福を願わずにはいられない。どういう経緯であれ、彼らを置いてあの場から逃げてきてしまったことに変わりは無いのだから。
「京」
 ひんやりと落ち着いた声に名を呼ばれ、京はそこで初めて自分が立ち止まっていたことに気がついた。顔を上げると、郁と鳥たちも立ち止まり、こちらを見つめている。
「何でも……」
 無い、と言おうとして、京は言葉を止めた。ここまで来てしまったのだから、もう心を隠す理由なんて存在しないに等しいでは無いか。苦笑して、彼はつとめて明るく口を開いた。
「皆のことを考えてたんだ。僕らがいなくても大丈夫かなって」
「大丈夫。俺たちがいなくなったくらいで負けるような、弱い奴らじゃない」
 即答だった。慰みでも後悔でもなく、彼は真実を答えた。それが京には少し意外で、けれど直ぐに、彼の口からその言葉を聞けて良かったと心から思った。おかしな話だが、いなくても大丈夫と言われることが、純粋に嬉しかったのだ。生まれた時から縛られていた、あの縋るような幾多の眼差しから、依存の柵から、ようやく解放されたような気がした。
「……そう、だよね。うん、あの子たちはそうだった」
 京は、言葉を噛み締めるように頷いた。その様子を見ていた丸い鳥たちは、まるで彼らを慰めるかのように、二人の周りをぐるぐると周回し出す。
「キ! キ! 」
「キィ~!」
 パタパタと小気味よい音を立て、鳥たちは走り続ける。二人は穏やかにその様子を見ていたが、暫くすると徐々に違和感を覚え始めた。彼らの頭上が少しずつ暗くなり、今まで白一色だった筈の雪原に、いつの間にか大きな影が出来ていたのだ。その事に気づき瞬時に顔を上げた二人は、そこで言葉を失った。
「これって……」
 真っ直ぐに前を見据えた二人の視界には、先程までの何も無いまっさらな風景は映っていなかった。そこにあったのは、煉瓦の家々が立ち並ぶ小さな村のような場所だったのである。
「キー!」
「ここが、君たちが案内したかった場所なの?」
「キィ~!」
 京が尋ねると、鳥はもっちりとした体をゆっくりと動かして頷いた(ような動作を見せた)。そしてそのまま眼前の家の一つに突進すると、扉は彼を迎え入れるように自然と開き、丸々とした体は家の中へと消えていった。残った黒い方の鳥も、すぐに消えたもう一匹を追いかけてぺたぺたと扉を目指す。
「ついて行ってみよう」
「あぁ。これだけ沢山家があるんだ。一人くらい、何か手がかりを知っている人間がいてもおかしくない」
 どちらからともなく足を踏み出し、二人は鳥の後を追った。扉の内側は薄暗く、その内装は少しだけが学園のそれと似ているような気がした。ぼんやりと鈍く光る頼りない照明だけを伝って、長い長い廊下を歩いて行くと、突如道が途切れ大きな扉が現れた。
「キー」
 扉の前でぴたりと足を止めた鳥は、まるで部屋への入室許可を願うかのように律儀に一声をあげた。すると、彼の鳴き声を鍵にして、扉が少しずつ軋みながら開いていく。その中から姿を現したのは、暖かそうな暖炉が鎮座する、過ごしやすそうなこじんまりとした部屋。そして、煌々と灯る火に照らされた、二人の少年の姿だった。
 少年はどちらも光希くらいの背格好で、共に美しい容姿をしている。片方は栗毛に赤い目の人懐っこそうな見た目、もう片方は紺色の髪にパールのような瞳を持っていた。少年達は二人と二匹の来訪に一瞬目を丸くしたが、すぐ様微笑んで椅子から立ち上がった。紺色の髪の少年はそのまま後ろの書棚へ、そして栗毛の少年は真っ直ぐに京達の方へと向かってくる。彼は、鳥たちの前で立ち止まると、しゃがみこんで変わるがわる二匹を撫でた。
「無事帰ってこれて偉いぞ。案内お疲れ様」
「キ!」
「隣のキッチンにご褒美のホットケーキがあるよ」
「キィ~!」
 少年の囁きに、鳥たちはきらりと瞳を輝かせ、あっという間に部屋を飛び出して行ってしまった。鳥ってホットケーキ食べられるんだ……と唖然としていると、少年が不意に立ち上がり、今度は京達を交互に眺め始めた。
「で、お前たちが新しい【救世主】だね」
 光を良く通す赤い瞳を細め、少年はスっと両手を差し出した。
「自己紹介しようぜ。俺はリク。世界で初めて【救世主】になった人間だよ」
 少年──リクの言葉に、京と郁は困惑したように目を見合せた。彼の容姿はどう見ても十歳程度。とても二人より歳上には見えなかった。リクは、きっとそんな疑問を想定していたのだろう、無理やり二人の手を取ると、にっこり笑いながら部屋の中心へと導いた。
「びっくりしたよな。こんな小さな子どもがどうしてって。まあ、とりあえずは座りなよ。長い話になるから」
 そう言われ、引かれるがままに椅子に座ると、奥から黒い革の書物を抱えた紺色の髪の少年がそっと口を開いた。
「僕はソラ。よろしく。……僕は残念だけど【救世主】では無い。でも、君たちと同じウイルスを体の中に抱えてる」
 ソラと名乗った少年は、書物をぱらりと捲りながら、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「リクの言葉を借りるなら、僕は、世界で初めて【略奪者】になった存在だ」
 雪の結晶のようにひんやりとした声が辺りに響く。次いで、暖炉の火が爆ぜる音と、息を呑む音が同時に聞こえた。何かを言いたげにこちらを見つめている少年たちを一瞥し、ソラは苦笑して書物を閉じた。
「聞きたいことは山ほどあるだろうが、今は少し待ってくれ。君たちは、御沢京と杜若郁で間違いないか?」
「は、はい……どうして、僕らのことを」
 京がぎこち無い声音で答えると、ソラは手にした書物を持ち上げ、此処に全て書いてある、と穏やかに述べた。そして、しみじみと浸る様に息を吐く。
「6期の子たちがここに来るのは久しぶりだ。……君たちのおかげで、学園に現れた【略奪者】の凡そ三分の一が消えた。これにより、多くの命が救われただろう。君たちは、仲間を守った。よく頑張ったな」
 ソラはゆっくりと歩みを進めると、京と郁それぞれの頭に手を伸ばす。相手は幼い見目の少年である筈なのに、優しく撫でられた感触は、安心出来る大人の手のひらのようだった。京は、静かに涙ぐみながらその温もりを受けた。
 ソラは、京のように人のまま生を終えることすら叶わなかった人なのだ。あの世界で力を暴発させ、脅威の怪物になってしまった後、ここへやってきた。おそらく、仲間の【救世主】達に殺されて。
 きっとこの場所では、姿形はやってきた頃のまま固定され、変わらないようになっているのだろう。だとしたら、彼はまだほんの幼い時に酷な消え方をしたことになる。辛い、なんて言葉じゃ済まされない恐怖と葛藤が、強く彼を苦しめたに違いない。京は自分と彼を重ねるようにして、ぐっと嗚咽を堪えた。
「君は、僕のことを哀れんでくれているんだな」
 頭から手を離し、ソラは優しい口調で口角をあげた。まるで眠れなくなってしまった幼子をあやすかのように、彼は伸びやかに柔らかな言葉を紡ぐ。
「確かに僕は、怪物になってしまったけれど。僕の人生は不幸じゃなかったよ。リクと、月夜姉さんと、ヴィクトリア先生と過ごした時間は、すごく幸せだった」
「月夜姉さんと、ヴィクトリア、先生……?」
 聞きなれた名前に、京はハッと瞼をあげる。【略奪者】とは別の、もう一つの敵である彼女らの名前を、ソラは実に愛おしそうに口にしていた。
「あなた達は、一体」
「ヴィクトリア先生の一番最初の生徒」
 不意に聞こえてきた声に二人が目を転じると、そこには、湯気の立ちのぼる四つ分のティーカップを乗せた盆を持ったリクの姿があった。
「お茶が入ったよ。飲みながら話そうぜ?」
「ありがとう、ございます」
 明るく振舞ってはいるが、有無を言わさぬ雰囲気を身にまとったリクの声に、京は慌てて口を噤んだ。彼らは味方だとばかり思っていたが、そうでは無いのかもしれない。日野川のように、同じ【救世主】ではあれど、京達に害をなす存在なのでは無いだろうか。だが、そんな一抹の不安は、次の瞬間リクの一言によって消し飛んだ。彼は、ソラと目配せをすると、バツの悪そうな顔で小さく息を漏らす。
「ヴィクトリア先生は、すごく良い先生だったんだ。……いや、今だって本当は優しい先生なはず。先生はね、俺たちがあの世界から消えた日から、どんどんおかしくなってしまったんだ」
 ゆらゆらと揺れるカップの波紋を見つめながら、リクは太ももに乗せた拳をぎゅっと握りしめ、悔しそうに呟いた。
「先生は、全ての元凶になったウイルスを、この世から完全に消そうとしてる。【略奪者】だけじゃなくて、【略奪者】になる可能性を秘めた【救世主】も含めて、全部」
 リクの声は波となり、他三つのカップの中身もゆらゆらと共鳴した。それに比例するようにして、京と郁の瞳も、夢現の中から次第にはっきりと濃い輝きを取り戻してゆく。
「俺は、元の優しくて明るい先生に戻って欲しい。だから、協力してくれないか。この世界に来てしまう哀れな【救世主】の連鎖を、ここで断ち切るために」
 リクはカップを置いた机に手をつき、二人の方へと身を乗り出した。
「何年もこの場所に縛られている俺たちは、もうあの世界に干渉することが、殆ど難しくなっている。半透明の幽霊みたいな姿を現すので精一杯で、残された子どもたちにしてやれることは、何もないんだ」
 もう、ずっと前に亡霊になっていたはずの彼。しかしその頬には赤みがさし、額には焦燥の汗が浮かんでいる。その姿を見た時、京はふと理解した。自分達は、この世界にやってきた少年たちは、まだ完全に死んだわけではないのだ。肉体は滅びゆけど、彼らの魂は還る場所を無くして、未だ吹雪の中をさ迷っている。救われないまま地上から姿を消した【救世主】達は、いつか天国に掬われる日を夢見て、この世界で、この緩やかな地獄で、人の形を保ちながら何年も待ち続けてる。だから──
「だから、お前達に力を貸してほしい。ここに来たばかりのお前たちなら、きっとまだあの世界と繋がれるはずだ。……俺たち皆を救う為の、先生たちを救う為の、最後の作戦に、協力して欲しい」
 机に置いた両手に力を込めて、リクは精一杯頭を下げる。そんな必死な姿を目にして、この二人の少年が目を逸らすはずが無かった。
「リクさん。顔を上げてください」
「俺達も、出来ることなら全ての報われない仲間たちを、解放してあげたいです。もちろん、俺達自身のことも」
「教えてください。僕らはこの新しい世界で、どうすれば良いのか」
 投げかけられたのは、ひどくあたたかで自信に満ちた眼差し。幼い頃の、まだあの世界で生きていた頃の自分そっくりだと、リクはそう思った。
「ありがとう、二人とも」
 彼はそう言うと、もう一度同胞達の手を取り、力強く握った。雪に閉ざされた【地獄】には不釣り合いなほど大きな希望を、彼らは今なお持ち続けている。そしてその時、世界の枠組みから外れた場所で、小さな絆の結び目が、新たに生まれたのだった。

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