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​第32楽章『神曲』─地獄篇

 本当に良いの? 泣きそうな顔でそう呟いた京に、郁は表情を変えることの無いまま首を縦に降った。
「京が望むことが、俺の望むことだから。言いなりになっているわけじゃないし、自分を蔑ろにしたいわけでもない。俺は俺の意思で、こう答えている」
 だから心配するな。そうつけ加えると、京は泣き笑いのような変な顔で、やっぱり君には適わない、と零す。
「君とずっと一緒にいたいから、道連れにしたいなんて、最低な僕のエゴなのに」
「お前についていきたいって言う俺のエゴでもあるんだ」
 真面目くさった顔でそう念押しをすると、郁はそのまま少しだけ表情を和らげた。
「それに、あの巨大な暗闇を閉じることが出来れば、命たちのことも守ることが出来るかもしれない。京の判断は間違ってない」
「でも、命くんの言葉を、裏切ることになる」
「そうだな。まあ怒りはするだろうけど」
 食い下がる京を面白がるように見つめ、郁はふっと微笑んで見せた。
「でもあいつは、俺たちのことを軽蔑しないよ。そういう人間だっただろ」


 記憶の中の眼差しと、目の前に見える紫水晶の瞳が重なった瞬間、走馬灯のような映像はプツリと途切れた。彼らの世界はこうして終わっていく。次に目を覚ました時には、悲鳴も怒号も何も聞こえない、安らかな場所にいることを願いながら、二人は天高く声を重ねた。

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 時雨命はその時を、寮の自室で迎えた。京と郁の帰りが遅いことを心配し、永遠と共に外に出ようと準備をしていた時のことだった。不意に眩い閃光が視界を覆い、数秒後には何事も無かったかのように凪いだ。その光は、見間違いで無ければ【略奪者】が湧き出てきた校庭の方から発されていたように思う。そして、その白く仄かな感覚を、命はよく知っていた。戦場で何度も助けられてきた、あの人の盾の中にいる時のような感覚だった。
 光が消えた後の世界で、命は瞬時に、失われた物語のことを悟った。二人が今この場に居ないこと、それが何よりの証明で。自分が手を下しさえしなければ先輩は死を選んだりなんかしないと、何の根拠もなく信じきっていた自分を今すぐ殴りたかった。
「あいつら……っ」
 命は騙されていた。優しく複雑な嘘の網目で守られていた。京はきっと、命を裏切ることに心を痛めながら、それでも彼の手を汚させない道を選んだ。郁はきっと、苦しむ京に寄り添って、命たちに全てを託すことを選んだ。とんでもなくわがままで自分勝手で、仲間思いのすぎる人達だ。
「みこ、きょーちゃんたちは」
 少し遅れて、永遠も真実に気がついたようだった。大きく開かれたエメラルドの瞳だけが、光がやってきた方向から動かないまま、薄く揺れた唇だけが、悲痛な声を運んでくる。
「助けに、行こう。今ならまだ、間に合うよ」
「……分かった」
 きっと、あの場所に向かっても、何も無い更地が広がっているだけ。【略奪者】の姿も、ブラックホールのような転移陣も、全て自分の体ごと、先輩たちが持っていってくれたから。後は、学園に残った【略奪者】を全て倒しさえすれば、続いていくはずだった彼らの未来と引き換えに、命たちの将来は開かれる。
 その道を振り返らずに走り抜くことが、彼らへの最大の恩返しだと知っていても、命は振り返らずにはいられなかった。
「何も無い」
 小さな【略奪者】を何体か倒して向かった先には、想像していたのと大差無い、まっさらで広大な砂場が広がっているばかり。遺体すら、何処にも見当たらなかった。ぽつりと呟いた永遠は、さくさくと心地良い音を鳴らしながら、何かに導かれるように校庭の真ん中まで歩いていく。そして、おもむろにその場に座り込むと、小さく細い指で、力無く地面をかき分け始めた。
「おい、永遠」
「服とか、骨の、一部でも……」
 制止しようとかけた声は、涙混じりの言葉にかき消された。顔を上げた永遠は、じわじわと目に雫を溜めながら、それでも泣くまいと必死で堪えていた。
「何も見つからないのに、死んじゃったなんて信じたくないよ。ほんの少し前まで、一緒に居たのに……!」
 朝ごはんが美味しいとか、今日の授業は疲れるとか、最近注目されてきて嬉しいだとか、ここを出たら何がしたいだとか。そういう普通のことが、たった数時間の異質の後に普通で無くなってしまった。ふざけ合う二人に、呆れたような生温い視線を向けてくれる人達は、もう居ない。
「僕ね、僕の周りの仲間だけは、絶対に居なくならないと思ってた。きょーちゃんといくたんと、最後に話した言葉が何だったか、もう忘れちゃったよ。……全部、夢だったら良かったのに」
 涙の代わりに、それよりもずっと思い言葉が、乾いた地面にこぼれ落ちる。夢だったら良かった。本当にその通りだ。今すぐ目が覚めて、【声の能力】も【略奪者】も何も無い、平穏な世界の住人になれたなら。こえー夢だったって笑いながら、皆で食卓を囲むことが出来たなら、どんなに幸せだろう。でも、どれだけ現実から目を背けても、この事実は変わらない。消えてしまった彼らは、もう命たちに前には姿を現さない。ならば、どんなに辛くても、自分たちがしなければならないことは、たったひとつだ。
「永遠。立て。戦うぞ」
「みこ……」
「先輩たちが自分を盾にして守ってくれた世界に、最後まで向き合うのが、オレたちの使命だ」
 地獄の果てまで落ちきったかのような、最悪の気分だった。でも、ここから後は我武者羅に這い上がるだけ。気持ち悪い結末なんかにさせてたまるか。傾き始めた陽光の下、命はそっと永遠に手を差し伸べた。
 記すべきは後悔じゃない。前に進む為の物語だ。
「そうだね。僕らがいつまでもめそめそしてたら、二人に笑われちゃうね」
 託された世界の中には、まだ幼い仲間たちがいる。京と郁が二人を信じ守ってくれたように、今度は命たちが彼らを導いていく番なのだ。
 二人は連れ立って校庭から出ると、敷地内を彷徨く黒い影に向かって、同時に走り出した。

───────────────

 見知らぬ雪山の中で目を覚ました。体に薄らと積もった雪を落としながら、京は全く冷たさを感じない己の手をしげしげと見つめる。
「やっぱり、死んじゃったのかなぁ」
 のんびりとしたその声は、学園にいた時のような緊迫感を一切感じさせず、眠りから覚めたばかりの微睡みを伴っていた。その横でワンテンポ遅れてむくりと起き上がった郁も、やはり焦点の定まっていないような目で辺りを見渡している。
「ここは、どこだ? 京は知ってるか」
「ううん、こんなところ見た事も無い」
 二人して首を傾げていると、不意に少し離れたところからガサリと大きな音がした。それは、二人を夢の世界から追い出すには十分すぎるほどの音で、すぐ様薄い膜のような緊張感が二人の間に走った。
 音のした方は僅かに盛り上がっていて、どうやら雪の下に何かが埋まっているようだった。
「……あの大きさだと、うさぎ、とか? 助けに行った方が良いかも」
「可愛いものだったら良いけどな。【略奪者】だったらどうする」
 郁の言葉に、京はうっと息に詰まる。だが、雪の下はもぞもぞと苦しげに蠢いていて、どう見ても化け物が潜んでいるようには見えなかった。
「や、やっぱり助けてあげようよ。何だか可哀想」
「……そうだな。少し疑いすぎたかもしれない」
 顔を見合わせ、二人は恐る恐る蠢くものに近づいていく。両側から雪をかき分け始めると、数秒もしないうちに、黄色く細い足のようなものが四本、雪山から突き出した。形状から見るに、おそらく鳥のような生き物だろう。【略奪者】では無いことが分かり、二人は安堵した。
「良かった。……でも、この子達何だろう、キジ? 鶴?」
 咄嗟に絵本に出てくるような鳥類をあげてはみたものの、足の長さからしてそこまで大きな動物とも思えない。考えるより確認だとばかりに、勢い良く雪を取り除いた京は、そこに埋まっていたものを目にし、言葉を無くした。
「京? どうし……」
 慌てて穴を覗き込んだ郁もまた、同じ様に言葉を途切らせる。そして──
「あははっ、何これ!? 何この丸い生き物!」
「……っ! これは……ふふ……」
 二人の視線の先にいたのは、ボールを二つくっつけて潰したような形状の、もっちりと太った二匹の鳥だった。とは言え、長いくちばしと独特の形の足から辛うじて鳥類だと理解出来た程度で、その珍妙な姿は今まで二人が見てきたどの動物とも似ても似つかないものだった。ひとしきり笑い転げた後、京は二匹の中で大きな方──赤茶色の体毛に、黄色の瞳──をもちもちと触りながら、笑いの残る声で問いかける。
「ここは何処? 君たちは何なの? 僕らはどうなっちゃったの?」
「……キー?」
 鳥は、京に合わせるようにして、甲高い声をあげながら首を傾げる。それに合わせるようにして、もう一匹──黒い体毛に、紫色の瞳──も首を傾けた。そうしてしばらくその体勢を保った後、鳥たちは京に興味を無くしたかのように丸まってそっぽを向いてしまった。
「分かんない、か……」
 京はため息をついてがくりと肩を落とした。何の情報も得られない鳥を見つけたところで、現状が良くなるわけがない。こちら側も首を傾げ続けるより他無かった。
「まあ、この子達はいざと言う時の非常食ってことで」
「キ!? キーッ!」
 ふざけ半分にそう言ったところで、突如赤茶色の方の鳥が叫び声を上げた。そのまま京の腹部に黄色いくちばしを何度も突き刺し、攻撃を始める。
「わ、ご、ごめん! 冗談だから!」
 咄嗟に謝ると、鳥は渋々と言った具合にくちばしの動きを止めた。人の言葉を完全に理解しているような一連の仕草に、京と郁は驚いたように顔を見合わせる。
「この子達、僕らの言っていることが分かるんだ」
「さっきの質問は、答えを俺たちに伝えることが出来なかったから首を傾げていたのか」
 そうと分かれば、この奇妙な生き物はかなり役に立つかもしれない。京は不貞腐れたように雪の中に寝そべる鳥を、宥めるように抱えあげ、もう一度優しく尋ねてみた。
「ねぇ、僕達はこれから、どうしたらいい?」
 小さな問いかけに、つぶらな瞳がきらりと輝く。鳥は、その体からは想像もつかないほど俊敏に京の腕を抜け出すと、ある方角に向かってぺたぺたと歩き始めた。
「キ!」
 まるでついて来いと言わんばかりの強い鳴き声に、二人は目配せをしてくすりと笑う。
「ありがとう。案内してね」
 そうして二人と二匹の一行は、全ての音を吸収する銀世界へと進んでいった。

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