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第30楽章『救世主』

 談話室は、重苦しい空気に包まれていた。そうさせている原因は自分である事を、痛いほどに理解している京は、早々に淀みを断ち切ろうと無理をして笑う。
「皆、今日はもう遅いし、とりあえず部屋に戻ろう。僕のことは、また後で考えれば良いよ」
「そんなこと出来るわけ無いだろう? 一人で何もかも背負わせる訳にはいかない」
 京の考えていることなど、容易く見通せるのだろう。立ち上がろうとした彼の手を、郁はけっして離そうとはしなかった。きっと、まだ撃たれた時の光景が鮮明に残っているのだろう。当事者とはいえ、痛みを感じることは無かった京よりも、傍にいたせいで流れゆく血の熱さを知ってしまった郁の方が、ずっとずっと辛いはずだ。微かに震えている指先を撫でるようにして、京はゆっくりと彼の手を取った。
「簡単に、消えることを選ぶな」
「うん……ごめん、ありがとう」
 浅はかだった。自分の命と仲間の命が天秤にかけられていたならば、考える間もなく自己犠牲を厭わない京の性格を、この場にいる人間たちが知らないはずが無い。少しだけ恥ずかしそうに、京が俯いた。ひとまずは彼の心が繋ぎ止められたのを確認して、次に声を上げたのは紫乃だった。
「今考えすぎるのは良くない。理沙子先生も協力してくれるし、薬を持って逃げるのが一番いい、と思う」
 深く悩み過ぎなくても良いと、紫乃は言った。それは、普段の彼からしてみれば想像もつかないような反応だったかもしれないが、いのちの期限を誰よりもよく知っている彼の言葉には、否定出来ない重みが含まれていた。
「響希先生の言い方だと、投薬すれば五年は生きられるはずでしょ。なら僕と同じだよ。残り時間を最大限に使って、生き延びる方法を考えればいい。……一緒に」
 目を逸らしながらそう口走ると、紫乃は誰よりも先に勢いよく立ち上がった。そのまますたすたと部屋の方へ消えていく彼を、一同は唖然としたように見つめ、やがて火がついたように笑いだした。
「まさか、しののに空気壊されるとは思わなかったよ」
「でもあいつの言う通りだぜ。日野川の言う通りに待ってるより、学園の警備が手薄なうちにとっとと逃げちまった方がいいな」
「そうだね。理沙子先生も動いてくれているみたいだし、善は急げだ」
 すっかりいつもの顔色を取り戻した京は、皆を鼓舞するように殊更明るい声をあげる。それを見て安堵した面々は、それぞれの部屋へ向かってバラバラの方角へと歩いていった。

 

 


 午前二時を少し過ぎる頃。暗く冷え冷えとした談話室に、ひとつの明かりが灯った。見れば、そこにはランプを手にした命の姿がある。そして彼の対極には、まるで彼がやってくることを知っていたかのように、穏やかな表情でソファに腰掛ける京がいた。
「やっぱりここにいる」
「命くんもね」
「……先輩、納得してなかったんだな」
 カシャ、という小さな金属が擦れる音と共に、ランタンが机の上に置かれた。柔い光に下から照らされた二人の表情は、状況に似合わずとても落ち着き払っている。京は、命の発言に僅かに苦笑を浮かべて頷いた。
「言えないよ。あんなに僕を思ってくれている、郁や皆の前じゃ」
 その声は、苦々しい後悔を含んでいた。出来ることなら、皆の言葉に寄り添いたかった。けれども京の決断は、日野川に選択肢を与えられたその時から変わってなどいなかった。
「でも、少しでも人を傷つけるリスクがあるのなら、僕が僕であるうちに、この身体は消さなきゃいけないと思ってる。【略奪者】と同じにはなりたくないんだ。僕という敵から、皆を守りたい」
 京は、息を詰まらせながら言った。
「命くん、学園を出ていく前に、僕を殺して欲しい。……頼まれてくれないかな」
 目の前に腰掛けている命は、その声を黙って聞いているだけだった。だが、京が顔をあげて懇願するように彼を見つめると、彼は苦虫を噛み潰したような、何とも言えない表情を見せた。
「なるほどね。郁先輩には手を汚させたくないと。で、オレならいいんだ。そんな薄情に見えるかよ」
「はは、そういうわけじゃ無いよ」
 挑発的な命の返答に、京はホッと胸を撫で下ろす。こうは言っているものの、彼の瞳は嘘をつかなかった。真剣な眼差しでこちらを見つめる命は、京の願いを叶える覚悟を決めてくれたのだろう。やがて、彼は長い前髪をぐしゃっと掻き乱すと小さく息を吐いた。
「わーったよ。殺してやるよ。……でも、それは最終手段。アイツらも、リスクがあることは十分分かってると思うぜ。その上であんたを救いたいって言ったんだ。だからさ、すぐ殺せだなんて言わないで、生きようとしてみろよ」
「…………」
「先輩?」
 いつもの口調で近寄った命は、そこで言葉をなくした。京が泣いていた。喚くでもなく、嗚咽を漏らすでもなく、ただただ静かに。両の眼から勝手に涙が零れ落ちているのだ、とでも言いたげな泣き方だった。
「怖い」
 閉じ込められなくなった言葉が溢れ出す瞬間を、命は口を閉ざしたまま見守っていた。
「死ぬの、嫌だな。悔しいよ。なんで僕なんだろう、なんで、僕らだったんだろう」
 選ばれた理不尽に、見て見ぬふりを繰り返してきた。それが自分の生まれた理由だと、そう思って耐えてきた。だが、自身の運命を突きつけられたことで、皮肉にも京は、そんなセカイをようやく否定する事が出来たのだ。
 命はその叫びを黙って聞いていた。彼の絶望に同調して、命の瞼も微かに動く。瞳に溜め込んだ液体にランプの光がキラキラと舞った。大きく見えた先輩の背中は、今ではどうしようもないほどにか弱く震えていた。
 特別なんかじゃない。彼も命も、ここにいる全ての子どもたちは、皆普通の少年だ。普通の、優しい少年達だ。命は乾いた唇を噛み締めてぎゅっと拳を握りしめる。この優しくて強い人は、この夜が終われば元通りになるだろう。逃げられなくなっても、仲間に殺される運命に手を引かれても、文句のひとつも零すことなく最期まで笑っているはずだ。そうする為に、今泣いているのだ。
 それはきっと、物語ならば美談として頁を埋めることが出来るような話。けれどそんなリアルは、反吐が出るほど大嫌いだった。
「だったら、俺たちの手を取れよ」
 鬱屈としたもどかしさを燃料にして、命は再び魂を燃やす。
「泣いていい。弱音を吐いたっていい。でも、絶対諦めんな。足掻け」
 真っ直ぐに伸ばされた指。いつも後ろで馬鹿な事ばかりしていた後輩が、いつの間にかしっかりと前を見据えていた。呼吸を整えるように一度目を閉じて、再び開いた京は、命と同じ未来に焦点を合わせる。
「多分オレたちは、互いを救う為に生まれてきたんだと思うぜ」
 呟くと、命はまるで悪戯がバレた時のように無邪気に笑った。
 復讐でも侵略でも無い、大切な仲間を守る為の戦いが、今幕を開ける。

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 再演が始まる。その予兆を、ヴィクトリアは静かに察知していた。ひんやりとした地下の空気を感じながら、彼女は口の端だけでにやりと嗤う。
「言ったでしょう。誰一人逃がさない、と」

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