top of page

第29楽章『姉弟』

 光希が再び目覚めた時、窓の外はもうすっかり夜の闇で充ちていた。瞬きをして、ぼうっとする頭を抑えながら起き上がると、そこには黒いワンピースの女性──理沙子の姿があった。
「帰ってくる途中で、熱を出したそうね」
 優しく語りかける彼女の言葉を聞いて、光希は瞬時に表情を作り変える。【救世主】のシステムを知らない彼女に対し、学園は、光希は発熱で倒れたのだと説明していたらしい。
「はい、でももう平気です。丸一日眠っていたし」
「そう。それなら良かったわ」
 理沙子は何も疑わぬような人のいい笑顔を浮かべると、おもむろに床に置いていた紙袋を持ち上げた。
「ゼリーとか、果物とか、学園に許可を貰って持ってきたの。食べられそうなものだけでも食べて、栄養をつけてね」
 ガサリと中身がぶつかる音がして、パステルカラーのゼリー達が袋から顔を覗かせる。そのころんと丸い色とりどりの菓子は、まるで理沙子の人柄そのものだと光希は思った。明るくて優しくて、心がじわりとあたたかくなる。
「ありがとうございます。いただきます」
 ほわっと微笑んでゼリーを受け取った光希は、こころなしかうっすらと顔に赤みが戻ってきたようだ。理沙子は安心したように息をつくと、ベッドの傍に椅子を置き腰掛けた。それはちょうど、光希と顔の位置が合う高さ。窓の外を眺めるふりをしながら、理沙子はゆっくりとした口調で口を開く。
「昔もねぇ、こうしてあげた事があるのよ。弟に」
「理沙子先生、弟さんがいるんですか?」
「ええ。小さい頃はこんな風に、しょっちゅう熱を出してたわ」
 脳裏に焼き付いた光景を、地下へと下る二人の背中をかき消すように、理沙子は過去の温い思い出の底に逃げ込んでいく。
 そうだ、あの子はあんなに冷たい顔はしなかった。あれではまるで蝋人形だ。操られる為だけに生まれた、鬱くしく生気のない顔。理沙子の知っている彼とは、何もかもが違う。
「しっかり者で頭も良くて、何でも出来るけれど、根はとっても繊細で臆病。私が傍にいないと眠ることも出来ないくらい、甘えん坊だったのよ」
 表向きには光希相手に語らっているように 見える言の葉の数々。だが、理沙子の目には光希の輪郭はあやふやにしか写っていなかった。彼女は光希を通して、はるか昔に失ってしまった愛の欠片を見つめていた。
「理沙子先生は、弟さん思いの良いお姉さんなんですね」
 不意に聞こえてきた穏やかな声に、理沙子はハッと顔を上げる。平行線上に、彼女のものより幾らか淡い色の瞳があった。いつもあどけない表情でこちらを見上げてくる瞳だ。容姿は全く違うはずなのに、理沙子にはまるで、光希とかつての彼が重なったように見えた。
 だから、後ろめたくて、逃げ出してしまいたいくらいに申し訳なかった。
「そんなこと、無いわ。肝心な時に、守ってあげられなかったんだもの」
「守って……?」
 唯ならぬ雰囲気を感じとったのか、光希の声が少しだけ曇る。その変化を悟り、理沙子はそっと息を吐く。煌々と灯る人工的な光の下、彼女は遂に、今まで渡らぬよう堪えていた一線を飛び越えた。
「光希くん、本当は熱なんて出していないんでしょ」
「え?」
 突然すり替えられた話題に、光希は一瞬素直に首を傾げた。だが、問われた内容の意味が染み込むうちに、徐々にその顔が緊張を帯びていく。彼は今、理沙子のことを敵と認識しているのだろうか、それとも──。
 これからの事を考えると、どうにも憂鬱だったけれど、全て自分から選びとって飛び込んだ道だ。理沙子は再び深呼吸をすると、静かに次の言葉を待っている光希に向かって、困ったような複雑な笑みを見せた。
「君が……君たちが私に伏せていることを、私が全て知っていると言ったら、どうする?」

──────────

 どこかから吹き込んできた風が、微動だにしない京の髪をそっと揺らした。未だ状況を理解出来ない彼の肩には、いつの間にかしっかりとした手の感覚が伝わり、そこだけが仄かにあたたかい。だが、その温もりを与えてくれた張本人は、京には目もくれず、ただ眼前の男を睨みつけているだけだった。対峙する男、日野川の顔には一切の血の気がなく、京のとよく似た梔子色の瞳は冷ややかにこちらを見下ろしている。
 つい先程、京は日野川の手に光る銃によって、生命の危機に晒された。その筈だった。しかし、気づいた時には京は無傷でその場に座り込んでいた。打たれた感触と衝撃、目の前が真っ白になる感覚は確かに残っているのに、服に空いた僅かな穴の他は、彼の体が壊された証拠は何一つ残らなかった。
「君自身がそうしたんだよ」と日野川は言った。まるで、自分を庇っている郁が見当違いであるとでも言いたげに、彼は不機嫌そうに眉を寄せる。
「せっかくだから教えてあげるよ。君たち能力者と【略奪者】はね、元々は同じものなんだ。同じウイルスから発生した異質な存在。……どうしてそうなるのか、僕にも分からないんだけれど、力が肥大しすぎて抑えられなくなると、人間の体は段々と力に侵食されていく。人では無くなっていく」
 おとぎ話を語るかのように、日野川の口調は淡々と他人事の節を奏でている。けれど、それが紛れもない事実であることは、京に分からぬはずがなかった。自覚はあった。自分が自分で無くなっていくような感覚は、それこそ一年近く前から。あの礼拝堂で郁に泣きついた時から、疑問に思っていたことだった。自分はこんなにも相手に執着する人間だっただろうか? 郁のことは大好きで、信頼していて、大切な人だけれど、その感情とは違うもっと本能的なものが、彼の中でぐるぐると渦巻き続けていた。
「それが、僕……」
「そう。君はもう、人を殺す方法では死ねなくなっている。何れ近いうちに、普段君たちが倒している怪物のようになるだろうね。そうなったら君は、【声の能力】で殺してもらうしか無くなる。仲間たちに、命を刈り取らせる事になる」
 嫌だよね。僅かに微笑みを混ぜ込み、小さな唇がそんな風に素早く動いた。問いかけに従うままに京が頷くと、日野川は満足しきったように銃をしまい込む。無機質な床をコツコツと鳴らしながら、彼はこちらに一歩ずつ近づいてくる。自分を撃った相手がやって来るというのに、京が一切抵抗の様子を見せていないことに気がついた郁は、咄嗟に彼の前に立ちはだかった。
「あんた、京を助けてくれるんじゃなかったのか? 京が危ないと言ったあんたの言葉は真実だ。だから俺は、裏切り者と呼ばれる覚悟であんたに協力してきた。でも、こんなの、救うどころか傷つけているじゃないか……!」
「救う? 僕が?」
 日野川は、まるで聞き分けの悪い子供を馬鹿にしているかのように、小さく鼻で笑った。
「君だって薄々気づいていた癖に。僕、学園側の講師だよ? そんなの口実に決まっているじゃないか。……でも、京くんの体に異変が起きていることを知ってしまった君は、もう後戻り出来なかった。学園の根幹に関わる僕に、一縷の望みをかけて頼るしか無くなった」
 日野川は心底可笑しそうに唇を歪めて、真珠色の手袋の中でくしゃりと指を折り曲げた。郁の呼吸が浅くなり、加速していくのを感じながら、日野川は労いの口調で彼に語りかける。
「君はいい子だ。素直で優しくて仲間思い。友の為に危険を顧みず、藁にも縋り付いて足掻く。ほんと、僕にとってこれほど都合のいい子は居ないよ」
 静寂。それは彼が打ちのめされた証拠だった。郁は京の袖をぎゅっと握りしめ、項垂れながら懺悔の言葉を漏らす。
「ごめん、ごめん……俺、こんな奴に、京を……」
「大丈夫。郁は悪くない」
 涙ながらにしがみつく郁と、それを包み込む京。礼拝堂にいた時とは真逆だ。依然として危険な状況であることには変わりないはずなのに、京は何故だかとても満たされた気持ちだった。彼が自分の為に動いてくれたことが、やっぱり何よりも嬉しかった。だから、これ以上彼を苦しめることは許さない。
「僕は、これからどうなるんですか」
「あれ、感動的なシーンはもう良いの?」
 日野川はあくまでも、からかいの風体を変えるつもりは無いようだ。挑発するように両手の指を絡め、次の一声を待っている。
「はぐらかさないでください」
「……分かったよ。冗談だって、冗談」
 浮ついた声とは裏腹に、そう言った時にはもう、日野川の顔は笑っていなかった。長くしなやかな指を伸ばし、日野川は京に選択肢を与える。
「選べ。ひと月後までに【略奪者】予備軍として仲間たちに殺されるか、投薬で延命して、少しでも長い間生き長らえるか。その二択だよ」
「そんなの、生きるに決まって……」
「郁」
 逆上して食いかかるように叫んだ郁を、京は静かに名前を呼ぶことで制した。単純に考えれば、少しでも長く生きられた方が良いに決まっている。だが、そんなに分かりやすい選択肢を、この男が出すとは思えなかった。
「延命したとして、僕は今までのように生きられますか」
「鋭いね。ま、そんなに心配しなくてもいいよ。簡単に言えば、今の僕と同じような暮らしだ。……僕も君と同じ、怪物になりかけの少年だったんだよ」
 とん、と軽やかな手つきで自身の胸に手を置いて、日野川は自嘲気味に目を伏せる。今度は反撃する声も、冷静な声も聞こえてこなかった。彼らは優しいから、きっとこの事を聞いて、憎む気持ちが怯んだのだろう。可哀想なくらい善意に振り回されている。彼らのそういう所が、羨ましくもあり恨めしくもあった。
 僕らはもう引き返せない。それならばせめて、さっさと己の運命を決めてしまえ。離れてしまえよ。そうすればきっと、大切な人を傷つけずに済むから。少しの犠牲で済むからさ。日野川は、一音一音にとぐろを巻く悪意を閉じ込めて、そのありったけを吐き出した。
「生きる道を選べば、人としての生活はちゃんと保証されるよ。でも、どちらを選んでも最後は同じさ。友に殺されるか、教え子に殺されるか、そのどちらかなんだからね」
 君が納得出来る方を選べ。最後に念を押すように呟くと、日野川は返事も待たずに踵を返した。だがその足は、背後から聞こえてきた声を感知して、その後すぐに静止することになる。彼を止めた声の持ち主は、京でも郁でもなく、悲痛な女性の声だった。
「響希ちゃん、やめて」
 髪が乱れるのも気にせず必死で走ってきた理沙子は、やっとのことでそう振り絞ると、膝に手を置いて大きく肩を上下させる。彼女の後ろには、日野川に敵意と哀れみの目を向けた六人の少年達が立っていた。だが、少年達の姿は日野川の目には入っていない。彼が真っ直ぐに見ていたのは、理沙子の姿だけだった。沈黙が辺りに流れる。実際は数秒間だったのだろうが、この場にいる全員にとっては、永遠とも思える長い時間が過ぎ去った。空間が凪いだ後、日野川はにっこりと目を細めて、小さく頭を下げた。
「東先生、ですね。【初めまして】」
 何の曇りも無い澄んだ眼差しが、理沙子を捉えてそう言った。その愛らしい笑顔は、こんなシチュエーションでさえ無ければ、理沙子をひどく安心させただろう。けれど今は、理沙子の不安を掻き立てる悪魔の微笑みだ。
「何……言ってるの? 私よ、姉さんよ? 覚えていないの!?」
「理沙子先生!」
 光希が制止する声を振り切って、理沙子は日野川の両手を掴んだ。涙で潤んだ瞳が、彼を見上げている。
「あなたも、この子達と同じだったはずでしょ? どうしてこんな酷いことをするの。学園に脅されてるの? それなら私は……」
 あなたを助けたい。笑顔を崩さぬまま黙って理沙子の話を聞いていた日野川は、彼女がそう零した瞬間に、一瞬で表情を消した。
「……ら…………だよ」
「え……」
「だったら何で、何であの時助けに来てくれなかったんだよ!」
 日野川の中で、渦巻いていた物がぷつりと途切れる音がした。もう遅い。何もかも今更だ。救済の予兆は、運命には抗えないと悟った後で現れても意味が無い。嫉妬なのか怒りなのか絶望なのか、最早自分がどこに行こうとしているのかも分からないまま、日野川は理沙子の手を思い切り振りほどいた。
「僕はもう、あなたを姉とは呼ばない。だからあなたも、忘れてください。……僕の名前は日野川響希だ。あなたの弟じゃない」
 鋭く言い放ち、彼はくるりと京を振り返る。
「与えられる時間はひと月だ。その日までに君の運命を決めろ」
 彼に言葉を返せる者はいなかった。日野川の姿が見えなくなるまで、誰もその場を動こうとはせず、ただ静かに啜り泣く理沙子の声だけが、か細く痛ましく空気に溶け込んでいった。

bottom of page