top of page

第25楽章『内と外』

 冬の空は澄んでいて高い。久しぶりに感じる開けた空気に、翼は思い切り息を吸い込んで満足気に微笑んだ。
「凄い、裏山の奥にこんな所があったんだ」
「こっち側には来たこと無かったから、気づかなかったね」
 一足遅れて登ってきた光希も、傍から見てすぐに分かるほど高揚していた。丘から見下ろす町の景色に、キラキラとその目を輝かせながら見入っている。そのあどけない様子を見守りながら、翼はポケットから一片の紙切れを取り出した。そこに書かれた文章を不思議そうに読み返しながら、翼は首を傾げる。
「それにしても、永遠くん達変なこと頼むなぁ。今まで帰った事の無い方向から帰って見てほしい、とか、その道の写真を出来るだけたくさん撮ってきて欲しいとか」
「僕たちと違って、永遠さん達は学園の外に出ることも少ないし、色んな景色を見てみたかったんじゃないかな」
 メモを覗き込みながら、光希も同じように不思議そうな顔をして呟いた。そして、顔を見合わせて、あの人のやりそうな事だと苦笑を交わす。冬の厳しさと春の柔らかさを含んだ晩冬の風が、二人の間をゆっくりと駆け抜けてゆく。
 外に出た事で一時的な記憶を失った彼らは、そのメッセージが伝える本当の意図も、自らが約束したことも、全て忘れてしまっていた。けれど、記憶は残らずとも、書き記した言葉は残る。永遠が二人にこの要求を託したのは、彼なりの優しさからだった。

──────────

 時は数日前に遡り、いつもの放課後。
「はい! 僕から一個提案があります!」
 その日、代わり映えのない日常のサイクルを壊したのは、永遠の発した一言だった。厳しいレッスンを終えた直後、肩で大きく息をしながら、少年達は何事かと永遠の方を向く。
「あ? 何だ急に」
「あのね、『作戦』の事なんだけど……」
 最初の鶴の一声とは裏腹に、声を潜めた永遠の様子を見て、一瞬にして部屋の空気が変わった。扉の外に人の気配がいないのを確認すると、命は永遠を促す。
「何か思いついたのか?」
「うん、外に出た後……逃走経路のこと、考えとかなきゃ行けないのかなって思って」
 いつもの面影はすっかり消えうせた真剣な顔つきの永遠の言葉を受けて、誰からともなく息を呑む音が聞こえた。だが、永遠の意図する真意はそこには無いようだ。誰かが口を挟む前にと、勢いよく次の声を繋げた。
「それでね、学園の周りのこと調べるの、いくたんとつーちゃんとひかりんの三人に任せたいと思うんだ」
 そう言って顔を上げた永遠の瞳は、何故かとても思い詰めたような、悲しげな色を纏っていた。名を呼ばれた三人が不思議そうにこちらを見つめる中、永遠は引きずり出すように本音を漏らす。
「だって、これから僕ら、どうなるか分からないんだよ。家族が待ってる、帰りたい家のある子は、作戦が始まってしまう前に会ってくるべきだよ」
「永遠くん……」
 裏なんて一切無いような、心そのままの呟きに、翼はふといつかの夜のことを思い出す。そう言えば、あの時統也にも同じような事を言われたっけ。目線だけを彼の方に移してみると、彼もまたこちらを見つめていた。永遠の提案に深く頷きながら、統也はこっそりと翼に向かって微笑みかけた。
「そうだな。俺様も賛成だ。……俺様としては、翼達にはそもそも家族が悲しむようなリスクを負って欲しくは無いのだが」
「それは……」
「あぁ、分かってる。お前達の覚悟を無下にするつもりは無い」
 これから歩む先に未知が待ち受けていること、生命の危険が潜んでいるかもしれないこと、全て承知の上で名を連ねているのだ。今更そんなことを言うなんて、と非難しかけた翼を、統也は右手で静かに制止、少しだけ寂しそうに唇を引いた。
「だからせめて、引き返せなくなる前に、大切な人達との時間を過ごして欲しい。……愛を享受できなかった、或いは亡くしてしまったおれたちからの、お願いだ」
 空のように澄んだ瞳に、彼らの願いが降り注ぐ。思わず涙が込み上げて来るような気がして、翼は無理やり笑顔を作った。アイドルとしては失格の、けれど、心の底から愛を叫んでいる、そんな笑顔を。
「分かったよ。行ってくる。…………ありがとう」
 随分と小さくなってしまったその言葉は、けれどもきちんと届いていた。少年達はそんな不器用な仲間にニヤリと顔を歪めて不器用なエールを返す。そして翼の後ろから、志を共にした二人がぽんと彼の肩を叩く。
「翼くん、任されたからにはしっかり頑張ろう」
「そんなに泣くな」
「な、泣いてないですから……!」
 微笑みながらわしゃわしゃと頭を撫でてくる郁に、にこにこと純朴な表情を向けてくる光希。この二人相手に意地になっても仕方が無いと分かってはいたが、むず痒いようなあたたかい空気がどうにも照れくさくて、翼は火照る顔を隠さずには居られなかった。

(間違いなく、ここがボクの居場所だったんだな)

 母と二人身を寄せあって暮らしていた時より、随分と世界は広がった。この世に二人きりでいた時より、苦しみや悲しみは増えたけど、同時に満たされることも増えた。

(統也達は、あんなフラグみたいな事を言ったけれど……)

 孤高の美しさを求めていたはずの自分は、随分と欲深くなったものだ。けれど、今の自分は嫌いじゃなかった。

(絶対にこんな所で、終わりたくないなぁ)

 幸福と涙とを噛み締めて、翼はそう心に誓った。

──────────

「それじゃあ、つーちゃんとひかりんは、裏山から町に続く道を調べてきて。あの辺、狭い一本道が続いているみたいだし、危険じゃなければ、身一つの僕らには最適な経路になると思う」
 タブレット端末の地図アプリを開き、永遠は辿るべき場所を的確にメモしていく。その様子を隣で見ていた命は、ぎょっとしたように左目を開いて苦々しく口を開けた。
「永遠、お前もしかして結構頭いい?」
「え? いや、みこよりはふっつーに良いけど」
「あぁ!?」
 煽る様な口調で返され、命は勢い余って永遠の胸ぐらを掴む。永遠も永遠で、そら来たとばかりに楽しげに火に油を注いでいるようだ。翼は、その様子を眺めながら呆れたように肩を竦めると、隣のテーブルで別の任務について話している京と郁に耳を傾けた。
「郁先輩は何をするんですか?」
「あぁ、郁には、出来るだけ近場で逃げ込めそうな所を探しておいてもらうことにしたよ。それから、君たちよりも少し早めに帰ってもらって、西棟を調査することも考えてる」
 西棟。講師達の部屋や職員のみが出入り出来る施設のある棟のことだ。京と郁は、どうやらそこで記憶操作を解除する為の情報を得に行くらしい。
「俺たち最上級生は、進路のことなんかで西棟に赴くことも多いからな。お前たちが行くよりも、安全性は高いと思う」
 だから心配するな、と郁はこちらに向かって優しい顔を向ける。そんなに不安げな顔をしていたのだろうか?と自身の頬を抑える翼に向かって、郁は更に深く目を細めた。
「俺たちは大丈夫。学園の内側の事は任せろ」
 その代わり、と含みのある声で、郁は翼の肩に手を置いた。
「外の世界のことは、頼んだぞ」

──────────

 そして翼達が学園を去る日、正門の前には、非常に不服そうな顔の紫乃一人だけが立っていた。他の先輩達は?と尋ねた翼に対し、紫乃は眉間のシワを深めながらぶっきらぼうに答える。
「京先輩は舞台の稽古、郁先輩は一足先に帰ったよ。……バカ共のことは知らない」
 最後に付け加えるように小さく告げた紫乃であったが、彼がその『バカ共』の事を何より信頼していることは明白だった。翼と光希はバレないようにこっそり目配せをすると、素直になりきれない少年の手を取った。
「そっかそっか、統也達に見送って来いって言われて来たんだね」
「はぁ? そんなんじゃ、ないし……」
 ふいっと目を逸らした紫乃は、けれども手だけは離さない。言葉少なな彼の事を、面白いとつけ回す統也の気持ちが、少しだけ分かったような気がする。翼は最後にグッと両手に力を込めると、温もりを逃がさないようにしっかり握った。
「ありがと。じゃあ、行ってきます」
「先輩達のこと、よろしくお願いします」
「…………あのさ、」
 踵を返した所で、遠慮がちな紫乃の声が予想外に響いた。二人は驚いて振り返ろうとするも、直後に聞こえた「振り返らないで」という言葉が耳に入った瞬間、即座に動きを止める。
「そのままで、聞いて」
 紫乃の声は、どこか怒っているようで、それでいて優しかった。顔が見えないからか、言の葉の雫が一滴ずつ染み込んでいくように、強く伝わってくる。
「僕は、あんまり君たちと話したり、遊んだり、出来なかったけど、二人のこと、今はちゃんと信頼してるから。……それだけ」
 きっと、今振り返ったら彼は、恥ずかしさで顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけているだろう。そんな表情が読めてしまうくらいには、翼も光希も、この少年のことをずっと想っていた。
「ありがとう。僕も、信頼してますよ」
「帰ってきたら何して遊ぶ? あ、永遠くん達も誘おうか?」
「!? 余計なことはいいから!は、話はこれで終わり! じゃあね!」
 返事が返ってくることを予想していなかったのだろうか、明らかに焦った声と共に、バタバタと駆ける足音が遠ざかっていく。翼と光希は好奇心に煌めく瞳で合図をし合うと、せーので振り返った。その視線の先には、高くそびえ立つ校舎とどこまでも続く砂の地面。そして、その間を不格好に走っていく小さな後ろ姿。
「ふふっ、この門を潜ったら、紫乃くんと一緒に戦った時の事も忘れちゃうのか。残念だな」
「大丈夫。帰ってきたらまた思い出せるよ。少しの間別行動するだけ。目指してる道は、皆一緒だよ」
 不意に二人を包んだそよ風にさらわれ、光希の髪がふわっと揺れる。守ってあげたいと思っていた小さな存在が、今では確かな安心を抱えて隣に立っていた。その事が翼には妙に嬉しかった。だから、だろうか。前を向いていこうとする彼の目が、一際美しく見えたのは。

bottom of page