top of page

第22楽章『憤怒』

 命たち『菜の花子ども園』の子どもたちにとって、施設長は唯一の頼れる大人だった。彼らは施設長のことを「祖父」の呼称で呼び、まるで本当の孫のように慕っていた。もちろん命もその一人で、物心ついた時から、毎日彼の周りに居座っては、じいちゃんじいちゃんと親しげに呼びかけた。そうすると、決まって彼は、好々爺の微笑みで頭を撫でてくれたのだ。
 元々目つきが鋭く第一印象で誤解されやすい上に、厄介な【異能】持ちの命は、ただでさえ周りから浮いていた。そんな中で、態度を変える事無く自分に優しさを与えてくれた彼の事が、命は心から大好きだった。

「私たちは、血の繋がりはなくとも、絆で繋がっている家族だから」

 彼はよく、口癖のようにそう呟いていて、その声と大きくてあたたかい手のひらの感触は、命をどうしようも無く安心させた。彼──否、祖父は、命の【異能】についても親身になって向き合ってくれた。過去の症例を片っ端から調べ、能力者の受け入れ体制が整っている学校を探し、同時に里親の募集も行っていた。三十人以上の子どもを抱えながら、それでも命の為にと時間を割いてくれたのだ。祖父のそんな姿を見て、命はいつしか彼のようになりたいと強く思うようになった。彼のように優しく、思いやりに溢れた強い大人になって、そうしたら、今度は自分が彼を助けてあげるのだ。
「だから、オレが大人になるまで、絶対死ぬなよ、じいちゃん」
「分かったよ。大事な孫の頼みだからね。約束だ」
 その当時、祖父が幾つだったのかは分からないが、少なくとも七十はゆうに越えていたはずだ。きっと、寿命を全うして亡くなっていたにせよ、命が成人するまで生きている保証は五分五分だったに違いない。けれど、あの声を思い出す度に命は思わずにはいられない。もし自分が、【異能】が、【略奪者】が、【救世主】が、居なければ。祖父は今もまだ変わらぬ笑顔を見せてくれていたのかもしれない、と。

 


 それは、命が小学校に上がったばかりの頃だった。祖父に買ってもらった新品の赤いランドセルを揺らしながら、命はいつものように駆け足で施設への道を踏みしめていた。「男なのに赤のランドセルなんて、変なの」通り過ぎる通学路に、そんな時代遅れの言葉が散りばめられている事もあったが、命には関係の無い話だった。自分が好きな色で、じいちゃんが認めてくれた色なら、例え何色だって誇りを持って背負っていられる。だから命の足取りはいつも軽い。同級生の中で誰よりも早く施設へと帰ってきた命は、がらんとした共同部屋にランドセルを置くと、祖父の待つ別館へと足を急がせる。祖父は大抵施設長室の椅子に腰かけていて、そこでにこやかに命達が帰って来るのを待っているのだ。だが、その日はいつもとは違っていた。一階の施設長に祖父の姿は無く、その代わり、応接室のある二階から何やら話し声が聞こえてくるのだ。二階はお客様の来る場所だから、むやみに上がってはならないと言いつけられてはいたが、そんな些細な注意は、その時の命にとってはどうでもいい事だった。好奇心に引っ張られるまま、ゆっくりと階段を上っていく。やがて、応接室の扉の前にたどり着くと、命はそっとその場にしゃがみこみ、ドラマで探偵やスパイがそうするように、そっと耳を壁に押し当てた。当然、ドラマのように部屋の中の声がはっきり聞こえることはなく、終始くぐもった音声が届くばかりだったが、祖父が誰かと二人きりで話していることだけは分かった。
(若い女の人の声……? 誰かの里親か?)
 どうやら、対談相手は女のようだ。時折ころころと鈴のなるような笑い声を含ませながら、落ち着いた調子で話している。祖父の声は、女よりも低くこもりがちの為、声のトーンすらも聞き取りづらかったが、特別な事はなく、至って平常心であるように感じられた。
(ちぇっ、やっぱ里親だな。なんか面白い話でもしてるかと思ったのに。……あーあ、そんじゃあ、また誰かいなくなんのかぁ)
 相手が女一人ということもあるし、やはり選ばれるのは年長の少女だろうか。はたまた、まだ言葉も話せない赤ん坊たちか。
(ま、オレではねぇよなぁ)
 歯を見せて笑いながら、命はその場を離れようと立ち上がる。と、その時だった。
「私は、お前に協力するつもりは無い!」
 突然、今まで聞いたこともないような祖父の激しい怒鳴り声が辺りに響き渡った。耳を押しつけずともはっきりと聞こえるほどの大声に、命は思わずビクッと肩を震わせる。壁にぴたりと背をつけ、ドキドキと鼓動する心臓の付近に手を当てる。一体、何が起きたというのか。息も詰まりそうな沈黙のあと、女性が淡々と何かを呟いた。それに呼応して、祖父はもう一度声を荒らげる。
「金など要らない。私はあんたの研究に加担する気は無いし、ミコトを養子に出す気も無い。この話は終わりだ。帰ってくれ!」
 感情のままに叫ぶ祖父。こんな彼を見るのは初めてだった。彼の声を聞いた女は、特別取り乱す様子も無く、また単調に一言二言呟くと、コツコツとヒールを鳴らして扉の方へと向かっていく。女が扉を開ける音を聞き、命は慌てて隣の部屋へと逃げ込んだが、彼の心は先程の祖父の言葉に奪われたままだった。
(ミコトって、オレのことか? だとしたら、あの女はオレの里親? でも、じいちゃん、養子に出す気は無いって……)
 困惑した頭のまま、命は扉を少しだけ開けて、帰っていく女の姿を見やる。スッと伸びた背筋に、長く豊かな淡い金髪。そして何よりも特徴的だったのは、ふわりと顔を覆う黒いヴェール。漆黒の布が顔の上半分を隠しており、さらに半透明の布地が顔全体にかかっているため、遠目からではその表情は全く見えない。だからだろうか、彼女からは、すれ違っただけで声も出せなくなるようなえも言われぬ恐ろしさが滲み出ていた。命は、震えそうになる足を必死で抑えて、女が階段を降りきってしまうのを待った。微かに自動ドアの音が聞こえ、女が完全に施設の外に出たと分かるまで、命はその場を動かなかった。女の気配が消えた後、命はおずおずと応接室の扉を開いた。
「じいちゃん」
「……! 命、お前」
「ごめん、じいちゃん。さっきの話、ちょっと聞いちゃった」
 命の姿を捉えた祖父は、しょぼしょぼとした目を大きく開いて絶句した。だが、命が不安そうに扉の後ろに隠れている事に気がつくと、あの安心する笑顔を浮かべてくれた。
「まあ、そんな所に居ないで、こっちにおいで。座りなさい」
 変わらない祖父の態度に、命はホッとして頷くと、パタパタと駆けて、先程あの女が座っていたであろう場所に腰掛けた。机の上を見ると、手がつけられていない紅茶と菓子類が礼儀正しく並んでいる。滅多にお目にかかれない夢のようなステージに、不可抗力で目が吸い寄せられていく。その様子がことのほか面白かったのだろう、祖父は可笑しそうに声を上げると、盆の上から菓子をひとつ取り上げて口に放り込んでみせた。
「せっかくのお菓子が勿体ないね。食べながら話そう」
「うん!」
 命が無邪気に頷いてひとつふたつ食べ始めたのを確認すると、祖父は揺れる紅茶の水面に目を落としながら、ゆっくりと話し始めた。
「命は、どこまで聞いていたんだい?」
「何話してるのかは、ほとんど分かんなかったぜ。……でも、あの女の人がオレを養子にしたがってた、のと、じいちゃんがすげえ怒って、断ってたってのは、分かった」
 あまり説明が得意ではない命の言葉も、祖父は真面目な顔をして一言も取りこぼさずに聞いていた。命が話終えると、彼は思い悩むように長く息を吐き、それから寂しそうな目で命を眺めた。
「命……さっきの女の人はね。命が持っているような【力】について研究をしている、とても偉い人なんだよ」
 力、すなわち異能。突然出てきたフレーズに、命は唖然として目を瞬かせる。口の中に入れたチョコレートがじわじわと溶けていくのもお構い無しに、命は祖父の顔だけを見つめていた。
「オレの力を、研究……?」
 やっとのことで声を漏らした命に向かって、祖父は言葉を選びながら、少しずつ言葉を重ねてゆく。
「あの人は、命のことを研究して、治したいと言っていた。この施設に多額の寄付もする、と」
「え、それっていい事じゃね? オレは里親のところに行けるし、施設には金入るし……」
 命は呆気に取られたようにそう零すと、理解出来ないと言うように首を傾げた。ここまでの話を総合しても、祖父が怒鳴って女を追い返した理由が全くもって分からない。だが、祖父は命とは明らかに温度の違う顔をしていた。危うさを孕んだ険しい顔だった。
「研究、と聞くと、良い事のように思えるかもしれない。だが……」
 灰色の髭を撫でるようにし、祖父は真っ直ぐに命に視線を向けた。
「命は、自分の力がどうやって生まれたのか、知っているかい?」
「え……っと、風邪みたいに、ある日突然」
 いつから力を使えたのか、はっきりとは覚えていないが、生まれつき持っていたものでは無いことは確かだ。【異能】は、まるで感染症のようにある日突然体に潜伏し、紙にインクが滲むかの如く、気付かぬうちにじわり体内に広がっていく。そのイメージを伝えると、祖父は暫く何かを言い淀んでいた。だが、やがて決心したように唾を飲み込むと、命を諭すように言葉を紡いだ。
「命の持つ力はね、あの女の人の一族が、人工的に作り出したものなんだよ」
「……つくる? オレの、力を?」
 頭の中がぐるぐるする。今日まで見たことも会ったことも無い人が、オレの内側にあるものを作り出していた? 突如鳴らされた真実の鐘は、命の心に鈍く届いた。
「力って、病気みたいに、自然に出てくるもんじゃねえの?」
「病気……。そう、だな。命には、少し難しい話になるかもしれない」
 それでも、聞くかい? 尋ねてくる祖父は、知らない大人の顔をしていた。本能が、咄嗟に嫌だと告げる。その鍵を開いてはならないような気がした。開いてしまっては、もう後戻り出来ないという予感が。けれど、そんな思いとは裏腹に、命の口からは全く別の言葉が飛び出していた。
「聞きたい。オレは、オレのことを、知りたい……!」
 自分は何者なのか。どうして人と違うのか。きっと命は知らなくていけない。例え今目を逸らしたとしても、この先避けては通れない道だと、芽生え始めた理性が引き留める。いつの間にか、ティーカップの水面が映す空の色は鮮やかな橙に近づいていた。それは、命の瞳によく似た色だった。

 


 時は少し遡り、湯気が立つティーカップの前には、ヴェールの女が静かに座っていた。彼女は、この施設にいる【異能】の少年の力について一通り述べた後、年老いた施設長に向かって紅い唇を引き上げた。
「取り引きを致しましょう」
 歌を歌っているかのように、言葉の旋律が宙を漂う。彼女は、まるでそれが最善の選択であると言わんばかりに、静かに両手を合わせた。
「わたくし、今すぐに彼が欲しいのです。【異能】についての研究を進め、彼のような子どもを治してあげたくて。……もちろん、系列の学園へ入れて十分な教育は受けさせますし、こちらの施設への寄付金も、相応の額をご用意致しますわ」
 健気な声音に載せられた流れるような台詞ひとつで、彼女に情を感じてしまいそうな空気が漂う。だが、その磨き抜かれた演技をもってしても、施設長は騙せなかった。
「そう言われると聞こえは良いが、君は一体、あの子を使って何をするつもりなのかね?」
 冷ややかな施設長の声を聞いて、途端に女が表情を消した。もっとも、彼女の顔の殆どはヴェールで隠されているから、正確な表情は読み取れなかったが、女が纏うオーラが一変したのは明らかだった。
「あら、何が仰りたいのかしら?」
「私が子どもたちを思う気持ちを、甘く見ないで頂きたい。貴女方の施設については、色々と調べさせてもらったよ」
 女は依然として表情を亡くしたままだった。しかし、徐々に暗い影が彼女の背後にまとわりついてゆくのを、施設長は確かに目視していた。だが、彼は臆する事無く話し続ける。最愛の孫を守るために。あの子の未来を守る為に。
「…………貴女方は、所謂『万能人』を人為的に作り出そうとしていたようですね。絵画、演劇、建築、音楽。様々な才ある人間たちのDNAから、何百年にも渡り特殊な細胞だけを摂取し続けた。対照実験を繰り返し、声が成すエネルギーが最良であると気がついた貴女方は、それらの力を纏めてウイルスを作り、人間に感染させた。そして、誰もが才を発揮できるような、優等な人間達だけの世界を作ろうとした」
 とても素敵です。素晴らしい。口ではそう言うものの、施設長の目は一瞬たりとも笑ってはいない。女の一族が犯した罪は、この後の物語から始まった。
「けれど、貴女方は神ではなく化け物を作り出してしまった。突然変異した悪性ウイルス、すなわち【略奪者】をね。……そして、あろうことか貴女方は、良性ウイルス感染に成功した子どもたちを化け物退治に利用した。学園と偽った閉鎖空間で、まるで実験のように【異能】の少年を戦わせている」
 もう、女を視界に入れるだけで、額に汗が滲むようになった。部外者の自分が、組織の秘密をここまで熟知しているという事を晒して無事では居られない事は重々承知だった。だが、命を守る時間さえあれば良い。思慮深い女のことだ。世間に対する体裁は十分に持ち合わせているだろう。彼女がここですぐに施設長を処分するとは考えられなかった。自身がこの施設にやって来たことが、誰の記憶からも自然と忘れ去られる頃……恐らく、数ヶ月から半年。『秘密を知る厄介な老人』の始末にそれだけの時間を有するなら、その間にあの子を守る事が出来るかもしれない。全ては、彼の力を知った時から覚悟していた。あの約束を守れないことだけが気がかりだったが、いのちには変えられない。
 きっと、彼女には随分間抜けな人間だと思われているだろうな。そう思い顔を上げた施設長は、そこで言葉を失った。女は、秘匿情報を言い当てられたことに驚くでもなく、怒るでもなく、それどころか、柔和な笑みさえ浮かべていたのである。
「それの何がいけなくって?」
 少女のような口調で、女は無邪気に首を傾げる。歳の頃は三十路手前頃だと聞いていたが、その仕草を介してみると、どう見ても十八・九の娘にしか見えない。はぐらかしているのではない。この女は、自身の罪を罪とも思っていないのだ。信じられないとばかりに黙り込む施設長を他所に、女は好きな男の話でもするかのように、頬を赤らめて口を開いた。
「確かに、わたくし達の実験は、一度は失敗に終わりました。恥を知られてしまったわ。でも、希望はまだ残っているのです。少年達の力を磨いて、磨いて、美しい宝石を作り出すことが出来れば、その時の彼らこそ、わたくし達の悲願であった優等人類となるでしょう」
「どう、して……」
 やっとのことで、施設長は絶望に浸されかけた声を絞り出した。
「【異能】を持つ子ども達は、ただでさえいつも苦しめられている。それなのに、化け物と戦わせるだなんて、非情だとは思わないのかね」
「ええ。それが後の彼らの為、人類の為ですもの。それに、ウイルスへの感染が完全に成功しているのなら、死ぬわけがありません。途中で死んでしまうような子達は、きっと元々産まれてくるべき生命では無かったのでしょうねぇ」
 困ったわ、とでも言いたげに、頬に手を当てて苦笑する女。あまりに残酷な態度を見てしまったことで、施設長は自身の怒りが沸騰する瞬間を感知した。
「……ふざけるな。人のいのちをなんだと思っているんだ」
 ゆらゆらと滾る憤怒の炎。こんなに声をあげるのは、彼の長い人生の中でも、初めての事だった。
「私は、お前に協力するつもりは無い!」
 命のことは私が守る。そして、これから産まれるかもしれない【異能】の子ども達のことも、命に託す。穏和な雰囲気の老体には似合わぬ覇気を感じ、女は小さくため息を漏らした。これほどまでに熱を感じる人間等滅多に居ない。
「あなたが少年だったなら、あなたが欲しかったわね。でも残念」
 枯れ木には興味等ございませんの。おどけたような口振りでそう言うと、彼女は最後の念押しのように、機械的な言葉を告げた。
「たった1人の子どもを差し出すだけでよろしいのに。お金も名声も権力も、何でも手配して差し上げますよ」
「……っ! 侮辱は結構。金など要らない。私はあんたの研究に加担する気は無いし、ミコトを養子に出す気も無い。この話は終わりだ。帰ってくれ!」
 追い出すように声を張り上げる。こんな女に、渡してなるものか。私の愛した子を、生きた証を、こんな化け物に……!
「最期の命綱だったのに。本当に哀れなお方。それではごきげんよう、孫思いの施設長さん」
 女は颯爽と立ち上がると、美しい姿勢のままくるりと踵を返した。その瞬間、スカートがふわりとなびき、ポケットに入っていたレースのハンカチが床へと落ちる。
「あら、わたくしったら。失礼」
 施設長が睨みつけるのをものともせず、女は優雅に膝を折り曲げると、ゆっくりとハンカチを手に取った。その時、淡いグレーの糸で刻まれていた名前の刺繍が、施設長の目にもはっきりと映った。

『Victoria』

bottom of page