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​第53楽章『光希』

 それは、命が翼の目覚めを確認したのとほぼ同時のことだった。声をかけようと一歩足を踏み出した彼の動きを、翼の悲鳴のような声が制止させた。
「光希が……息してない」
 浅い息と共に流れてきたのは、信じ難い一言。命が目を見開く傍で、いち早く動いたのは月夜だった。彼女は、まるで早送りの映像の中にでもいるかのように俊敏に、光希の脈を取って心臓の音に耳を澄ませた。そして──
「……彼の言っていることは本当だ。脈は動かず、心臓も止まっている」
 呟くなり、月夜は大きく息を吸い込んで真っ白な白衣を二の腕までたくし上げた。
「私はこのまま彼の心肺蘇生を行う。君たちは、他にも治療が必要な生徒が居ないか見てきてくれ」
「そんな、こと……光希を置いては行けません。さっきまで、本当にさっきまで、一緒に……ッ!」
 翼は噛みつくように叫び、そのまま地面に崩れ落ちた。慌てて彼の身体を支えた命は、手は休ませないままこちらの動向を伺っている月夜と目を合わせる。
「俺も、弟分を残しては行けねぇよ。あんただけだと辛そうだし、手伝わせてくれ」
「……分かった。暫くしたら声をかけるから、交代してくれ」
 月夜はそう呟きつつ、素早く額に浮かんだ汗を拭う。光希の身体は未だ抜け殻のように不安定で、このまま蘇生を続けていたとしても到底意識が戻るとは思えなかった。子どもたちのいる手前とてもそんな事は言い出せなかったが、先程までの戦いとは違い、彼の容態の原因は全くもって不明だ。【略奪者】のもたらす攻撃のせいでも、ヴィクトリアのせいでも無い。ひとつ仮説をあげるとすれば、彼は自身の力の圧力に負け命を落としたとでも言えようか。
「あの人は、本当に何てものを産み出してしまったんだ。私と先生に一生消えない罪を背負わせ、挙句少年たちにまで……」
 怒りの感情に任せ、月夜は速度を落とすこと無く心臓マッサージを続けている。だが、彼女の体力も無限ではない。数分もすれば、重ね合わせた細い手は苦しげにぶれ始めた。
「すまない。そろそろ交代を、頼む」
「任せろ」
 彼女が手を離した瞬間、命が流れを繋ぐように前へ出た。彼の短い呼吸が辺りに響く中、翼だけは依然としてその場から動こうとしなかった。それを見た月夜は、小さな身体を宥めるように抱き寄せる。その時、彼女は翼の周りに薄い靄のような光が浮かんでいるのを見つけた。光はどうやら、彼の微かな泣き声に反応して現れているようだった。
 瞬間、月夜の脳裏に閃きにも近い確信が過ぎった。彼女は翼の肩を思い切り掴むと、驚いて顔を上げた彼に向かって声を荒らげた。
「そうだ、【力】だ。【声の能力】だ。君たちにはまだ、唯一無二の武器が残っているじゃないか。君の声が成す魔法はまだ涸れてなどいない。……声を、歌を、彼の為に響かせろ」
 ぐらぐらと肩を揺らされ、翼は暫くの間放心したように固まっていたが、やがて小さく頷くと、ゆっくりと立ち上がって命の方へ歩いていった。
「翼、その光……」
「分からない。これが本当に最善なのか、ボクには分からない。でも、こうして希望が目に見えている限りは、ボクたちにはまだ出来ることがあるんじゃないかって、信じていたいよ」
 翼が胸の内の言葉を紡いだ途端、命の手の動きは止まった。そして数秒後、穏やかな声だけが頭上から振りかかってきた。
「奇遇だな。俺もそう思うよ」
 二人は共に手を取り、光希に向き直って声を重ねる。遥か向こうの山々から見える太陽が、彼らの頬を赤く染める。翼の身体から溢れ出した光は、いつの間にか命の周りにも浮かび始めていた。その光景を目を細めながら見ていた月夜は、ふと背後から複数の足音が迫っていることに気がついた。反射的に振り返った彼女は、そこにいた顔ぶれに驚いて声をあげる。
「君たちは……!」
「たった今目覚めました。よく分からないけど、ここに来なきゃって思って、それで……」
「僕も同じ。みこに待っててって言われたけど、どうしても行かなきゃいけない気がしたんだ」
 切羽詰まったような顔で答えたのは、眠り続けていたはずの紫乃と、記憶を失っている永遠だった。二人はとっくに戦線から離脱したにも関わらず、示し合わせることも無く同時期にこの場所へやって来た。月夜が声も出せないでいる内に、まるで何かに引き寄せられるかの如く、二人は翼たちの歌唱に加わった。
「永遠、お前なんで……!」
「へへ、何か呼ばれてる気がしてさ。来ちゃった」
 永遠は屈託なく微笑むと、隣にいる紫乃に向かって「ね?」と目配せをした。紫乃も大きく頷いて、躊躇いもせず翼の手を取る。
「仮死状態だった僕を、君たちが起こしてくれた。だから今度は、僕が光希を助けるよ」
 大丈夫。誰からともなく零れた言葉は、何の確証も裏付けもない気休めのフレーズだったけれど、彼らが希望を掴み取るには十分過ぎる程の合図になった。
 四人は手を合わせ、声を合わせ、澄んだ青が染み込み始めた空の先へ声を繋いでいく。遠くへ行ったままの彼が、再び戻ってくる為の道標となれるように。世界の何処に君がいても、時空の何処に君がいても、必ずその耳に届くように。ありったけの、想いを込めて。

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 何も感じなかった両の手に、少しずつ血が巡っていく。長い長い旅の果て。仲間が呼ぶ声で目を覚ました。

『さぁ、君の未来へ行こうか』

 内と外から同時に共鳴する声は、彼を現世へと送っていく。

「先生。一番最初に言ってくれたこと、覚えていますか?」
『え? あはは、さぁ、何だったかな?』
「先生は、僕が力を持って生まれてきた意味を教えてあげるって、そう言ってくれたんですよ」
『あぁ。確かにそんなことを言ったかも。あの時は君を逃がさない為に必死だったから、随分と豪語したものだよ。……でも、間違いじゃなかっただろ? 君は他の誰でもない、君自身のその力で英雄になったんだから』

 視界が薄らぐ最後に見たのは、そう言って悪戯っぽく微笑む恩師の姿だった。

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 光希は帰っていく。仲間の待つ世界へ。光溢れるあの場所へ。

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