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​第58楽章『何処へ行っても

 機械的な音を立てて開く自動ドアを抜けた途端、生温い突風が頬を撫でていった。紫乃は思わずぎゅっと目を瞑り、次いで大きく息を吸い込む。久しぶりの外は思いの外心地良く、入院生活の中で無意識に陽の光を欲していたのだと気がついた。
「発作が起こらなくなってる。……帰ってきたら、ちゃんとお礼言わなきゃな」
 ぽつりと呟いて、雲ひとつない青空を見上げる。紫乃の命を救ってくれた恩人は、今頃遠い空の下で、何を思っているのだろうか。

 数ヶ月前、久しぶりに日本へと帰ってきた統也は、高揚した顔で紫乃の手を取った。ついにお前の病気を治す薬に使用許可が降りたのだと、まるで自分の事のように嬉しそうに繰り返す彼のことは、今でもはっきりと思い出せる。学園を離れてから数年間、彼は紫乃を助ける為だけに必死に勉強を重ね、救いを成し遂げたのだ。それは、子どもの頃授けられた力のように突飛な奇跡では無かったけれど、紫乃にとって彼は、世界中で一番救世主に相応しい人だった。不思議な力など無くたって、彼はいつも紫乃の手を引いて、光の先へと連れ出してくれた。大人になる前に消えてしまうはずだったこの身体は、彼の努力の果てに今もこうして鼓動を奏でている。
「本当に、一生かかっても返しきれない程の恩だ。でもこれからは、きっと僕が力になってみせるよ」
 この先の人生、紫乃は何にだってなれる。それならば、生涯彼の支えになれるような人になりたかった。太陽を追うように歩みを進めながら、紫乃はもう一度大きく深呼吸をした。

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 その日、今朝方起きた自動車事故の影響で、病院の中はいつにも増して慌ただしく、統也がようやく息をつけたのは午後3時を過ぎた後のことだった。休憩室に入ると、先に戻ってきていたらしい同僚がにこやかに笑って珈琲を差し出してくれた。
『やあ、お疲れ様。天才くん』
『からかうなよ。……あの事故で運び込まれた患者は、今のところ全員無事だったよ』
『そうか。それは良かった』
 彼の国の言葉を流暢に喋りながら、統也は自身の手荷物から黒いスマホを取り出す。電源を入れると、ホーム画面に一通のメッセージ通知が届いていた。その宛先を見た彼は、途端に口角をあげて安堵の息を吐いた。どうやら、治療は成功したらしい。
『何だ? 恋人か?』
『違うよ。もっと良い知らせ』
 面白そうに画面を覗き込んでこようとする同僚を何とか振り払い、統也は壁にもたれてメッセージを開いた。一見淡々とした文面が続いているが、その中に統也を心配する言葉や、次はいつ会えるのかと遠回しに伝えるような言葉がちりばめられていて、それがとても彼らしいと思った。
「そうだな、そろそろ帰ろうか。元気になったあいつの顔も見たいしな」
 真っ白な枠に返信を打ち込みながら、統也はふと窓の外を見やる。視界の先には、目も覚めるような青い青い空が何処までも広がっていた。
 この場所に落とされたあの日から、統也と紫乃が共に過ごすことはほとんど無くなった。年に数回、酷い時には一度しか会えない年だってあった。だが、それを寂しいと思うことはあれど、二人とも後悔はしていない。これから先、例え何処へ行こうとも、結ばれた心が解けることは決して無いと、知っているから。

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