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​第57楽章『遠回りの青

 その日、いつも通り大学の講義を終えた時雨命は、すぐ様月夜の居る研究機関へと向かった。今日は月に一度の検査の日なのだ。とは言っても、命自身が診察されるわけではない。
 薬品のにおいが微かに漂う待合室で一人佇む彼を見つけ、命は笑って声をかける。
「よう、調子はどうだ」
「元気だよ。いつも通り」
 検査を終えた永遠は、小指に綺麗な指輪の光る左手を軽くあげて微笑む。命は、そんな彼を愛おしく思うと同時に、今月もまた駄目だったかと心の内で静かに肩を落とすのだった。
「じゃあ俺、先生と話してくる」
「うん、待ってるね」
 永遠と別れ、薄暗い廊下を進んだ先に月夜の診察室はあった。ノックをすると、凛と響く落ち着いた声が帰ってきて、命は自然と己の背筋が伸びていく感覚を覚えた。
「失礼します」
「よく来たね」
 診察室の中央で椅子に腰かけカルテを読んでいた彼女は、命の来訪に表情を和らげた。数年前と比べ緩やかな丸みを帯びてきたその顔には、小さな皺が浮かんでいる。確か、そろそろあの頃のヴィクトリアと同じ歳になるのでは無かったか。全てが終わったあの日から、この世界では既に五年が経過していた。
「お久しぶりっすね。で、永遠はどうでした。やっぱり今月も……」
「あぁ、残念だが。健康状態は申し分ないんだけれどね。記憶を司る部位は未だ回復の兆しが見られなかった」
「そうですか」
 毎月、今度こそはと微かな希望を抱えてやってくる彼が、こうして落胆する様を見るのは辛かった。月夜にはどうしてやることも出来ないこのもどかしさが、ずっと苦しかった。けれど、今日の彼女はそんな苦々しさとは無縁の、すっきりとした表情で口を開いた。
「だが、当てはある。今朝方、統也のいる病院から、脳神経の新薬に使用許可が降りたとの連絡があった」
「統也の……?」
 海外で医学を学んでいるという彼は、持ち前の頭脳と呑み込みの早さを買われ、未成年ながら医療の現場で新薬の開発に携わっていたらしい。彼の最終目的は紫乃の病気を治すことだが、その上で彼は、永遠の記憶のことも気にかけてくれていたのだ。
「治療の為には半年ほど海外に行かなければならないし、完全に治るという保証は無いが、君たちがそれでも良いというのなら、諸々の手続きは全て私が買って出ようと思う」
 青く澄んだ瞳が命を見つめている。予想だにもしなかった幸運に、命は言葉を詰まらせながらも必死で声を絞り出した。
「そんなの、良いに決まってる……! ああ、先生、ありがとうございます……!お願いします!」
 あの彼が頭を下げるだなんて、昔の自分に教えてもきっと信じて貰えないだろう。月夜はそんな事を思いながら、そっと命の肩に手を置いた。
「良いんだよ。顔を上げなさい。これは私の最後の罪滅ぼしなんだ。君たちに尽くせるのなら、私は何だってするよ」
 月夜とヴィクトリアの作りあげた技術は、長らく人を傷つける刃や猛毒に成り代わっていた。けれど今は違う。これから月夜は、傷つけた人の数よりずっと多くの人を救ってゆきたいのだ。
「この歳になって将来の夢が出来るなんて、人生まだまだ捨てたものじゃないな」
 随分時間がかかってしまったけれど、月夜は、命は、永遠は、ようやくここからまた動き出すことが出来た。
 最期に生きてと言ってくれた恩師。そして、自分を姉と慕ってくれたあの二人のことを思い出しながら、月夜は僅かに微笑んだ。

─────────────

 研究機関を出た二人は、特に悩むこともなく次の目的地へと歩いていく。そこは、以前あの学園があった丘の上だった。
 なだらかな坂道を駆け上がった先にあるのは、小さな保育所兼学習塾。二人はその場所で塾講師のアルバイトをしている。真っ白で清潔に整えられた玄関を抜けた先で、一人の女性が命達を待っていた。
「お疲れ様。今日もバイトよろしくね」
「あぁ、任せとけ」
 命がニッと笑うと、女性──早紀も花のような微笑みを返す。彼女の左手の小指につけられた銀色の指輪がきらりと光って、命の目に映った。永遠とお揃いの指輪である。命は一瞬だけ目を伏せると、わざとらしく大きな声を上げた。
「いやあ、やっぱりお似合いだよな、お前ら」
「なっ、子供たちの前で大声出さないでよ~」
「そ、そうだよ。からかわないでっ」
 揃ったように赤面し出す二人は、やはり息ぴったりだ。巡り巡ってこんな未来が描けるなんて、ここがまだ監獄だった頃には、想像もつかなかっただろう。命にとって、これ程嬉しいことは無かった。例えそれが、自身の気持ちを犠牲にすることだったとしても。その感情を差し引いたとて、今の命は、胸を張って幸せだと言えるのだ。

 


「あ、そうだ。明日からね、保育所の方に新しい子が二人入るの。もうすぐ挨拶に来るみたいだから、園長先生と親御さんが話してる間、その子たちの遊び相手になってあげて」
 午後の授業を終えた後、夕日の差し込む職員室で、早紀は不意にそう言った。命と永遠はそれを聞いて、少々面倒くさそうに顔をしかめたが、目の奥の輝きは少しも隠せていなかった。新入りの来訪が楽しみなのだろう。このビジュアルで子ども好きなんて、ギャップ萌にも程がある。早紀は、にやける口元をそっと手で顔を覆い隠した。
 と、その時、玄関のインターホンが鳴って若い女性の声が響いてきた。きっと新しい子たちの母親だろう。園長が即座に立ち上がり、彼女を迎えに職員室を後にする。数分後、園長は一人の女性と、二人の子どもを連れてきた。
 母親のスカートの裾を握りしめ、緊張した面持ちで部屋に入ってきた彼らの姿を見た時、命は身体中に電撃が走ったような感覚を覚えた。記憶にある顔よりずっと幼くはあるものの、その二人には見覚えがあった。
「先、輩……?」
 ふと、卒業式の日の事を思い出した。

『……うん、そうだね。先輩たちもきっとここに来てるはず』

 明るく反響した光希の声が、脳裏を駆け巡る。あの言葉は、たった今真実になった。時間を超えて、この場所に、彼らは集った。
「ほら、二人とも隠れてないで、お兄さんお姉さんに挨拶しなさい。ごめんなさいねえ、うちの子──京も郁も恥ずかしがり屋さんで」
「……いや、良いんすよ。すぐ仲良くなれます」
 命はそう口にすると、ゆっくりとしゃがみこんで彼らに目線を合わせた。
「俺ら、これからきっと、鬱陶しくなるほど一緒にいるんで」

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