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​第56楽章『卒業

「この坂、こんなにキツかったか? やっぱ体力落ちたなー」
「その分脳に栄養行ったからいいんじゃないの? 命くんの場合はさ」
「翼てめぇ、いつからそんな生意気な口聞くようになったんだ」

 言い合う二人の声を背中に受けながら、光希はゆっくりと学園に続く坂を登っていく。光希たちがこの場所を離れてから半年、季節はすっかり夏へと移り変わり、今日は校舎が取り壊される日だ。
「にしても、建物くらいは残しときゃ良いのにな。勿体ねえ」
「まあ国としても、事件のシンボルをそのままにしてはおけないのでしょう。さ、時間は無いから、見て回るなり記念撮影するなり、自由にしなさい」
 道を先導していた理沙子は、校舎に辿り着くや否や、そう言って三人を送り出した。だだっ広い学園の中は、ここで暮らしていた頃からは想像もつかない程静かで、まるで巨大な動物が静かに眠りについているようだった。
「懐かしいな」
「うん」
 先程まで口喧嘩をしていた二人も、その静寂に堪らず息を呑んでいる。一同は、時折短い言葉を交わしつつ、ゆっくりと校舎内を歩いていった。教室、レッスンルーム、寮、食堂、講堂、礼拝堂なんてのもあったっけ……。ステンドグラスの煌めく小さな建物に足を運び、光希は彼らのことを思った。今日、ここに来られなかった彼ら。予定があるからと断った者もいれば、そうで無い者、きっと来たかったのだろうけれど、来ることが叶わなかった仲間もいる。
「……先輩たち、どこで何してんだろうな」
 光希が立ち止まったことで彼の思考を察したのだろう。いつの間にか命と翼も光希の両隣に来ていた。
「案外その辺にいたりしてね。見えてないだけで」
「そうかも。悪口でも言やぁ殴りに来るかな」
「……うん、そうだね。先輩たちもきっとここに来てるはず」
 光希は顔を上げて笑顔を浮かべた。意図せず綻んだような、年相応の無邪気な表情に、二人はこっそりと安堵して息を吐く。それから暫くは、何を言うでもなく三人揃ってステンドグラスの光を見つめていた。それぞれが思い出を咀嚼し、飲み込み、心に蓄積させていく。苦しさも辛さも絶望も、全て救われたかと言えばそんなことはなく、今だって何かに縋りたいと虚空に手を伸ばす日もあるけれど。そんな時に手のひらを掴んでくれる仲間がいると、光希たちはもう知っている。
「皆こんな所にいたのね。そろそろ帰るわよー!」
「おう。……あ、ちょっと待って」
 理沙子の声に我に返った命が、ふと立ち止まり手招きをして彼女を呼んだ。何事だろうかと理沙子が近寄っていくと、命はその見目に似合わないしおらしい態度で口を開いた。
「あのさ、すっげー簡単なのでいいからさ、先生、俺らの卒業式してくんね?」
「卒業式……?」
 唐突に出てきたその単語に、理沙子は思わず目を丸くする。だって今は夏だし、揃ったのはたったの三人だし、証書も無いし、そもそも私、学校の先生じゃないから卒業式のやり方なんて知らないし……。一瞬にして理沙子の頭を様々な考えが駆け巡り、けれども嵐のような思考が過ぎ去った後、彼女はいとも容易く彼の申し出を受け入れた。
「良いわよ。ちょっとだけね」
 言うが早いか、理沙子は軽い足取りで講堂の中へ足を運んだ。何もかもが規格外の、小さな卒業式だけれど、この子達には必要なことなのかもしれない。これから、それぞれの未来へ飛び立っていくこの子たちには。

 教壇に立ち、理沙子が顔を上げたその時、彼女は講堂いっぱいに、あの制服を着た沢山の子どもたちが座っているのを見た。慌てて目を擦って開いた時には、彼らの姿はもう何処にも見当たらなかったけれど、あれが幻覚だとは思わなかった。彼らの魂は今日この日、この場所に集っている。
「皆、卒業おめでとう」
 晴れやかな声が、講堂いっぱいにあたたかく響いた。

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 その時、響希は学園が崩れゆくのを悟った。【救世主】を生み育てた、母なるあの場所が消える時、このセカイもまた終わりを迎える。ソラが残していった本は、もう最後のページに辿り着いていた。
「終わりか。そう思うと、案外寂しく感じるもんだね」
「キ」
 響希の傍らに座っていた黒い鳥は、彼の言葉に深く頷いた。鳥はそのまま立ち上がり、助走をつけて大きく飛び上がると、響希の肩に着地する。
「僕らもようやく解放されるね」
「キィ~」
 鳥の頭が嬉しそうに揺れるのを見て、響希も自然と笑顔になる。
「次に目が覚める時までに、思い出さなくちゃ」
「キ?」
「ふふ、友達になる方法。長い間一人でいたから、忘れちゃった」
「キー!」
 大丈夫、と言いたげに、鳥が一際大きな声を上げる。その声を皮切りに、周りの全てが白い光に包まれた。
 今、セカイが終わってゆく。

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