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​第55楽章『Salvatole∬Symphony』

 騎島光希はアイドルが好きだった。かつて国民的アイドルだった父の、現役時代の映像を何度も見返しては、いつか自分もこんな風に、歌で誰かを幸せにすることが出来たら、誰かの浮かない心を救えたら、そんな風に思っていた。
 今日、彼は再びステージの上に立つ。隣にいるのはたった一人だけで、舞台の上は、昔と比べたら随分と寂しくなってしまったけれど。それでも、光希の心は希望に満ちている。
 隣で彼が笑う。大丈夫だよと笑う。ボクらはまた会える。救い合えるよと、手を差し伸べる。それはまるで未来に羽ばたくための翼のようだと思った。

「頑張れ、二人とも」

 ステージの幕が上がる。歓声が耳に心地よい。その中で、光希はふと響希の声を聞いたような気がした。もう一度耳を澄ましてみる。今度ははっきりと聞こえる。姿は何処にも見えないけれど、その声は確かに、二人に向かって声援を送っていた。思わず隣を見ると、彼もまた狐につままれたような顔で光希を見つめていた。
「聞こえた?」
「うん、聞こえた」
 二人は同時に笑い出すと、まっすぐ前を向く。その時にはもう、声の残響は何事も無かったかのように消えていた。

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 あのモニターの向こう。ステージの上で歌ってるの、俺たちの親友なんだぜ。
 命がそう言うと、クラスメイトたちは目を丸くして食らいついてきた。すげえ、マジで? と興奮気味に寄ってくる。本当は俺もあの場所で歌っていたことがあった、と言いたくなるのを堪え、命は笑って頷く。隣を見れば、永遠もまた誇らしげに、モニターの向こうで輝く二人を見守っていた。

 あの事件の後、理沙子は新しい芸能事務所を作ると豪語した。命たちspiritoの居場所が無くならないように、私が守るのだと、彼女は真剣な眼差しでそう言った。普段は大人なんだか子どもなんだか分からない態度ばかりだったくせに、見直してしまった。その時の彼女程頼りになる大人は居なかった。
 けれども命は、彼女の元を去る選択をした。アイドルとして仲間と過ごす日々は案外楽しく、離れ難いものだったけれど、命にはそれよりも叶えたい夢が出来たのだ。
「俺、勉強頑張ってさ、じいちゃんがしてくれたみたいに、親のいない子どもたちの為の施設を運営する人になりたいんだ」
 命が辞めると言ったら理沙子はきっと悲しむだろう。そう思い、決死の覚悟で言った命に、理沙子は意外にも手放しで喜んでくれた。どんな未来を選んでも、私は貴方の道を素晴らしいと思うわ。満面の笑みで命の手を握り、鼓舞してくれた彼女を見て、命は再確認する。ああ、この人が俺たちの先生で良かった、と。

「みこ、そろそろ寮閉まる時間だよ。帰ろう」
「あぁ」
 いつも通り、明るく上機嫌な永遠と並び、命は寮を目指す。あれから何度も検査をしてもらったが、彼の記憶は依然として戻らぬままだった。けれど、命と永遠の関係は、記憶が無くなる以前のものに段々と近づいていた。それが命にとって何よりの救いだった。
 失う物は大きく、元には戻らないけれど、きっとこれから先得るものだってたくさんある。大切な思い出は、未来で作っていけばいい。命が顔を上げた先には、彼の瞳と同じ色をした燃ゆるような夕日が、空一面に拡がっていた。
 と、その時。一人の少女が人混みの圧によろめいて命たちの方へ倒れてきた。慌てて二人で手を伸ばし彼女を支えた後、少女が落としたハンカチを素早く拾った。
「ほら、これ落としたぞ。大丈夫か?」
「はい、ありがとうございます」
 そう言って顔をあげた少女と真正面から向き合った瞬間、命は思わず声を無くした。そこに立っていたのは、紛れもない、『菜の花子ども園』で共に過ごしたもう一人の親友の姿だった。
「早紀……?」
「えっ……ほんとだ、早紀ちゃんだ……!」
 命の乾いた声に次いで、永遠が泣きそうな声をあげた。しかし、少女──早紀の方は依然として怪訝そうな顔のままだった。それはそうだ。彼女の記憶は、はるか昔に永遠の力で消されてしまったのだから。けれど、自分の手によって彼女の記憶が消されたことを、永遠は覚えていない。今この場で、全てを知っているのは、命だけだった。
「あの……多分人違いだと思いますよ。確かに、私は早紀だけど、私、貴方たちのこと知らない、し……あれ?」
 不意に、少女はそこで不自然に言葉を止めた。彼女の目からは、何故だかぽろぽろと透明な雫が零れ落ちていた。
「私、なんで泣いてるんだろう。怪我もしてないし、嫌なこと、何も無いのに」
 理解が追いつかないと言ったような顔で、彼女は涙を拭う。その瞳が目の前の命達を捉え、ふわりと綻ぶ。
「私、貴方たちと会うの、初めてのはずなのに、なんか、嬉しくて堪らないんです。ずっと探していたような、そんな気がして。私、変ですよね、すみませ……」
 考えるより先に体が動いた。命と永遠はほぼ同時に、彼女を包むように抱きしめていた。周りから物珍しそうな視線が飛んでくるのもお構い無しに、三人は長いことそうやって泣いていた。
 記憶は完全に戻らないかも知らない。けれど、その断片は消えることなく、思い出は心の奥底に残り続ける。三人はまた会えた。こうしてまた、触れあえた。そんな奇跡みたいなことは、本当に起こったのだ。

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「それじゃあ紫乃。夕方に迎えに来るからね」
「うん、ありがとう母さん」
 その日、紫乃は学校へ病院へも行かなかった。母に頼んで彼が連れてきてもらったのは、空港だった。人の行き交う広々とした空間を歩きながら、彼はこれまでの人生を振り返る。本当に、嵐のように目まぐるしい十二年間だった。嫌な思いも、苦しい思いも、消えてしまいたいと思うようなことも、たくさん刻みつけられた。けれど、その人生の果てに今の紫乃があるのなら、紫乃は自分の生きたこの道を嫌いにはなれなかった。

 あの事件の後、久しぶりに自宅に戻ってきた彼を待っていたのは、泣きながら彼の無事を喜ぶ両親の姿だった。自身に死んだ双子の兄の名前を上書きした両親は、ずっと兄のことばかりを考えているのだと思っていた。でも、それは違った。彼らは彼らなりに、今生きている紫乃自身の存在も愛してくれていたのだと知った。
「あの時は気が動転していて、あなたの存在を裏切るようなことをしてしまったの。本当にごめんなさい。でも、あなたの事を愛しているわ。あなたとして、愛しているわ」
 母は何度も紫乃に謝って、望むのなら名前を変えても良いと言ってくれた。けれど生憎、紫乃はこの名前が大好きになっていた。兄の代理のようで恨めしかったこの名前は、いつしか仲間に呼んでもらえる大切な名前になっていた。紫乃は、自分が紫乃で良かったと思う。
 それに、この名前を見ると、彼のことを思い出す。鮮やかな紫色の髪が良く似合う、勇敢な彼のことを。
「よう。考え事か?この俺様がせっかく帰ってきたというのに」
 飄々としたその口調は、離れ離れになる前と何ら変わらない。知らない環境に放り込まれても尚、自分を保ち続ける彼は、本当に強く逞しく成長した。無論それは中身だけの話ではない。背も少し伸びただろうか。あの時より幾らか凛々しく、頼もしい表情になった彼が、紫乃の目の前に立っている。紫乃は抵抗なく爽やかに笑って、彼を迎え入れた。
「おかえり、統也」

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 紫乃の通う病院のとある一室で、汗ばんだ女性が嬉しそうに手を伸ばしている。
「元気な双子の男の子ですよ」
 助産師の言葉を聞いて、女性は愛おしそうに微笑んだ。
「産まれてきてくれてありがとう」
 彼女の腕の中には、二人の小さな赤子の姿がある。一人は黒い髪、もう一人は赤い髪。互いに手を取りあって、再びこの世界へと生まれ落ちた。

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