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​第54楽章『僕たちの物語』

──光希。光希、帰って来て。

 そんな声が幾つも幾つも重なって聞こえて、光希はゆっくりと目を開けた。朝の冷たい空気が頬を撫で、視界に眩しい青空が映る。そう認識した次の瞬間、光希の体に大きな衝撃が走った。とは言っても、【略奪者】に攻撃を加えられた時のような強い痛みでは無い。それは、人の温もりを伴った感覚。光希は抱きしめられていた。最初に青空だと思ったものは、翼の瞳の色だった。
「翼くん……? だ、大丈夫? どこか怪我してるの?」
「違う。もう、ほんと馬鹿。帰ってこないんじゃないかと思った」
「く、苦しいよ」
 翼は光希を押し潰さんばかりの勢いで、腕の力を一層強くした。光希がどれだけもがいても、彼の力が緩むことは無い。諦めて息をつき、光希はぐるり辺りを見渡した。その時初めて、彼の耳に美しい旋律が届いた。
「これは、音楽?」
「そう。皆が歌ってる、弾いている。生き残った全ての生徒たちが、追悼を曲を奏でてる」
 翼は尚も光希を離さないまま、声音だけを柔らかくして、静かに続けた。
「終わったんだよ。救えたんだよ、ボクら。……紫乃くんが目覚めて、統也の居場所も分かった。外国まで飛ばされてたんだよ、あいつ。本当に人のこと心配させて」
 憎まれ口を叩くような言い方だったけれど、そう呟いた翼の声は安堵と嬉しさの色が滲んでいた。
「永遠くんの怪我も、理沙子先生が治してくれた。記憶はまだ戻らないけど、月夜先生が絶対に治すって、言ってくれた」
 一人一人、仲間の顔が脳裏に浮かんでは消える。それでは彼らは、無事なのだ。今この瞬間も、生きて呼吸をしているのだ。それが分かっただけで、光希は胸が張り裂けそうなくらい嬉しかった。
 けれど。翼の口から出てこない名前もあることに、光希は気がついてしまった。
「……京先輩と郁先輩は? 帰ってきたの?」
 翼の声が途切れた。後頭部の辺りで、僅かに息を呑む音が聞こえる。何も言われずとも、それだけで全て察してしまう。あの二人は、戻って来ることが出来なかったのだ。
「どうして。僕や紫乃くん達は帰ってきたのに」
「……戻ってくる為の身体ごと、消えてしまったからだって、月夜先生は言ってた」
 悔しさを噛み締めるような声だった。光希には翼の気持ちがよく分かる。誰よりも勇敢で、いつも先陣を切っていたあの人たちが、救われないなんて理不尽だ。光希は小刻みに震える翼の背を、ゆっくりと抱き締め返した。
「僕、目覚める前に、響希先生に会ったんだ。きっと、先生も先輩たちも、まだ消えてなんか無いよ。僕たちには見えない何処かにいるんだよ。……だから、また会えるって信じていよう。今までやってきたみたいにさ」
「会えるかな。そんな運命みたいなこと、起こるかな」
「分かんない。けど、僕だって、皆のおかげで戻って来れたよ。だから大丈夫だよ」
 不思議な感覚だった。先輩たちに、いつかまた会えるはずだという確信があった。何故かは分からない。でも、間違いなく、もう一度だけ奇跡は起こる。救いはやってくる。頭の中に浮かんできたのは、白い光の中で微笑む響希の姿だった。

─────────────

 少しずつ『セカイ』が崩壊していく。【救世主】たちの魂は徐々に人の形を崩し、幾重にも連なる光になって空に昇っていく。ひとり地上に留まった響希は、柔く目を細めて彼らを見送っていた。あの中には、リクとソラの光もある。十二年間、【救世主】達を迎え入れるこの場所を守り続けてきた彼らは、ヴィクトリアの魂との再会により、その役目から解放されたのだった。一際大きく輝く光の周りを、赤と青の小さな光がはしゃぐ様に回っている。それはまるで、先生に話を聞いてもらおうとはしゃぐ子どもたちのようだと思った。
 そうしてたくさんの仲間たちを送り出し、次は己の番だと部屋に戻ろうとした響希の前に、不意に二つの影が現れた。響希が驚いて目を見開く前で、彼ら──京と郁は互いに目配せをしてから微笑んだ。
「君たち……まだ居たの?」
 驚きと呆れとを含んだ声は、変にその空間にこだまして、響希は思わず苦笑してしまう。
「早く行きな。君たちはこんな所にいたら駄目だよ。皆が待ってる、あの世界で幸せにならなきゃ」
「……先生も、いつかはここから解放されますか?」
 僅かに曇った声を出す京は、響希のことを心から心配しているように見えた。郁の表情は、響希と共に帰りたいと言っているように見えた。あれだけ酷いことをしてきたのに、やはり最後まで彼らは優しい、良い子達だ。響希は喉の奥が熱くなるのを感じながらも、何とか平静を装って彼らの肩を叩く。
「大丈夫。僕に任されたのは、『セカイ』を閉じる為の役割だから。僕もきっとすぐに……【救世主】を全て送り出せた後は、すぐに許してもらえるはずだよ」
 だから心配しないで、行っておいで。と、響希は彼らの背中を押す。その時にはもう、二人の輪郭は曖昧になっていて、その身体は指先から小さな粒子に変わっていった。
「ありがとう先生。先生のこと、忘れないよ」
 言葉の先には、続きがあった。
「今度は、友だちになろうね」と。

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 その年の三月、ヴィクトリア少年音楽学園は十年間の歴史を閉じた。あの『事件』の後、学内に残っていた講師と少年たちの証言から、人々は世界の裏側で起こっていた悲劇を知った。平穏な生活の裏で戦っていた、【救世主】の存在を知った。

 事件の首謀者に加担したとされ、禎 月夜は警察に引き渡されることになった。しかし、その場に居合わせた幾人もの少年たちが彼女の弁明をしたこと、彼らの力を消滅させられるのは月夜の技術のみであることを考慮して、彼女に実刑が言い渡されることは無かった。彼女は今、政府の管理下の元【救世主】と呼ばれた少年たちの治療と、残った【略奪者】の駆除を任せられている。

 その日もいつも通り、報告のあった土地に向かい【略奪者】を鎮圧させた後、月夜は政府の所有する建物に戻った。すると、前方から明るい女の声が響いてくる。
「月夜先生、お久しぶりです」
「理沙子先生。……いや、東社長と言った方がいいかな? 久しぶり」
 からかうような月夜と口調に、理沙子はサッと顔を赤らめ、恥ずかしそうに俯いた。
「もう、社長なんて大それたものじゃ無いですから! でも、あの子たちの居場所を作ることが出来てホッとしています。あの子たち、これで心置き無くアイドルの道を目指せるんだわ」
 髪をかきあげながら、穏やかな口調で彼女は言う。月夜が何も言わず彼女を見つめていると、不意に目が合った。理沙子の桃色と琥珀色の双眸は、いたずらっ子のようにキュッと細められる。
「でも、あの六人の中で、アイドルの道に進む子はたった二人なんですけどね」
 才能あるのに残念だわ、と理沙子は言う。けれど、その言葉とは裏腹に、彼女はとても誇らしそうだった。
「命と永遠くんは、全寮制の中高一貫校に編入してお勉強を頑張るんですって。紫乃くんは病気の治療をしながら、少しずつ中学に通ってる。一番驚いたのは統也くんよね。飛ばされた先の国に残って医療を学びたいって。凄いわぁ」
 きっと、彼らがどんな道を選ぼうと、これから先も彼女はこうやって朗らかに送り出すのだろう。それはまるで、在りし日のヴィクトリアのようで。月夜は思わずその顔を綻ばせる。外ではぬるい風が吹いていて、ちらちらと淡い桜の花弁が舞っていた。少年たちの未来を祝福するかのように、美しく舞っていた。

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