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​最終楽章『君たちの物語』

 柔らかな陽の光が、濃い色の髪をつややかに照らしている。じんわり頭を包み込むあたたかさに、命は思わずゆっくりと目を閉じかけてしまう。
「あっぶね。えーと、あとはこのテストの採点だけか。もうひと踏ん張りだな」
 丘の上に建てられた学習塾の一室で、彼は今日もいつも通りの業務を行う。ただひとつ今までと違うのは、そこに永遠の姿が無いことくらいだ。
「そろそろ帰ってくる頃かな」
 窓の外には目も覚めるような快晴が広がっている。あの空のずっと向こうに、彼はいる。

 


 永遠が記憶回復の治療のために海の向こうへと渡ったのは、夏休みが終わってすぐの頃だった。本来ならば準備と手続きで一年以上の待機を要されるところ、月夜と統也の献身により、僅か二ヶ月で治療を受けられるまでに体制が整ったのだ。
「向こうに行ったら一人で生活出来んのか? 料理に掃除にその他諸々! 今まで俺がやってきたこと、お前一人でやんなきゃいけねえんだぞ」
「分かってるよ~! できるってば! 本当にみこは心配性なんだから」
 そう声をあげる彼は、幼い頃と何ら変わりのない、太陽のように眩しい笑顔を見せた。その顔を見る度に、命は思わず彼を引き留めてしまいそうになった。記憶を回復させるということは、施設での出来事も、【救世主】として生きた日々も、鮮明に思い出してしまうということだ。もしかしたら、蘇ってくるのは苦しい記憶だけなのかもしれない。それならばいっそ、平和に生きたこれまでだけを積み上げていった方が、永遠にとっては幸せなのではないだろうか。記憶が戻ることを望んでいるのは、あくまでも命自身の願いだった。永遠への負荷を考えると、どうしても罪悪感が湧き上がっていった。
 だが、そんな命に向かって、永遠はあっけらかんと二つ返事で了承した。
「みこがずっと頑張ってきてくれたの、僕は知ってるから。みこの願いが僕の願いだよ」
 だから罪悪感なんて持たなくて良いんだよと、永遠は言った。まるで命の心の奥底まで知りえているかのような物言いに、命はふっと心が軽くなったような気がした。【声の能力】なんてとっくの昔に消えてしまったけれど、今も彼の声は、命にとっては魔法のままだった。彼と共に居られて良かったと、何度目かの幸せを噛み締める。
 そうして永遠は、旅立って行った。

 


 全ての採点を終えた命は、一度グッと伸びをして机に突っ伏した。流れるような動作でスマホを開き、一番上に表示されたメッセージを眺める。そこに表示されたのは、紫乃からの返信と一枚の写真だった。空港の慌ただしそうな景色を背景に、負けじとうるさい表情で映り込む永遠と統也の姿を見て、命は思わず吹き出す。きっと呆れ顔で写真を撮っているであろう紫乃の顔まで、鮮明に思い浮かべることが出来た。
「ったく、俺の心配も杞憂だったみてぇだな」
 ぽつりと呟いて、命は勢いよく立ち上がる。彼らがここに来るまでの間に掃除を済ませておこうと、職員室の扉を開き玄関へと向かう。そこに二つの人影があるのを見つけ、命は口元を上げてひらひらと手を振った。
「よ、悪ぃな。早めに来てもらっちゃって」
「いえ。僕らも京せんぱ……京くんたちと遊ぶの楽しいですし」
「慣れないよねぇ、その呼び方。まさかあんな子どもが先輩たちだなんて」
 光希があたふたと言い直すのを見て、翼は肩を竦めちらりと後ろを振り返る。開け放たれた玄関の先には、青々とした芝生が広がっていて、その先で二人の少年たちが声をあげて走り回っていた。
「本当に、出会えちゃいましたね」
「あぁ。運命っつーか、なんつーか。最終回ならこの上なく最高なシチュエーション?」
「最終回? 何言ってんの。まだまだこれからでしょ、人生」
 光希のよく知った口調で、翼が飄々と呟いた。だが、いつもなら揶揄って終わる彼の言葉には、今日は続きがあった。
「昔と形は違うけど、また八人、揃ったからさ。これから楽しい思い出いっぱい作ろうよ」
 さっぱりと言い放って、翼は嬉しさを堪えきれないような表情で目を細める。歓びの波動が連鎖して、光希も顔を綻ばせる。それがどうしようもなく幸せで、命はゆっくりと天を仰いだ。太陽の光が、青い空の真上で輝いている。その下を、何匹もの鳥が寄り添いながら渡っていくのが見えた。大きな羽を震わせて、何処までも飛んでいく鳥の姿が見えた。
「キー!」
 先頭の鳴き声を合図に、彼らは一気に速度を上げ上昇していく。遠く快晴の向こうへ。光の待つ方へ。
「お前たちも、未来へ行くんだな」
 羽がキラキラと光って、山間の彼方へと消えていく。やがてその姿が見えなくなるまで、命は空を見上げ続けていた。

 


 これから先、どんな困難が起きたって、君たちとなら何度でも乗り越えられる。これは、世界の片隅で使命を全うした、勇敢で優しい【救世主】の物語。私の大好きな、君たちの物語。

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